第8話 侍女オリーヴィアは話を聞かない
いつもどおり、ヴィルフリートのために厨房でお湯を沸かしていたオリーヴィアは「よおオリーヴィア」と料理長のベルクに声をかけられた。ベルクは髪も目も真っ黒で、その肌は浅黒く、東洋のほうから来た人間だ。帝国出身でないながらもその腕をヴィルフリートに買われたことで料理長まで務めており「俺はヴィルフリート殿下が天下を獲ると信じている」が口癖だ。そのお陰で、王城ではオリーヴィアを差別しない数少ない使用人の一人でもある。
「今日もあの殿下のためにティーを淹れてるのか? お前も大変だな、
「侍女だもの、当然よ。ついでに今日の夕食を伝えてこようかしら」
「今日は野菜の肉包みだな。いい牛肉だから期待しといてくれって殿下に伝えてくれ」
「あら、今日は一段と豪勢なのね」
既に調理に取り掛かっているらしく、いい香りもしている。ベルクがヴィルフリートのために腕によりをかけているのはいつものことだが、それにしても手が込んでいるようだ。
「なにかお祝いごとでもあったの?」
驚いた素振りをするオリーヴィアに、ベルクのほうこそ目を丸くしてみせた。
「なんだオリーヴィア、まさか知らないわけじゃないだろ? ヴィルフリート殿下の婚約祝いだよ」
「…………はい?」
婚約……婚約? オリーヴィアは目を白黒させてしまった。婚約なんて……寝耳に水だ。昨日会ったときもヴィルフリートはいつもどおりだったし、なんなら数日前なんて休みなんて与えないぞとヴィルフリートらしからぬ不機嫌っぷりをみせた。そのヴィルフリートが婚約?
「ど、どちらのご令嬢と?」
「なんだっけなあ、カー……、カーン? 西洋人の名前は俺らには覚えにくくていけねえ」
その音にはまったく聞き覚えがなかったが、ヴィルフリート周辺の女性関係を総動員するとそれに近い名前が浮かんだ。というか、ヴィルフリート周辺にいる妙齢の女性など、数日前の夜会で現れたただ一人。
「……カーリン・ブーアメスター嬢?」
「ああそうそう、そんな名前だったよ」
ピシャッ――と落雷を受けたような衝撃が走った。
しかし、ベルクは気付かずに「なんでも大層可憐なご令嬢らしいな」と続ける。
「その髪は珊瑚、目はレモンの色で、海の都の恵みを受けたような容姿だってな。さぞヴィルフリート殿下にお似合いだろう、あの方は海のように深く青い髪を持っていらっしゃるし、なんたってそのお心も海のように広い」
「そ、そうね……そういえばそんなお話を……」
間違いない、あのカーリン・ブーアメスター嬢だ。オリーヴィアの頭には夜会で見た光景が走馬灯のように流れる。あの夜会嫌いのヴィルフリートがその手を取って二曲立て続けに踊った、才色兼備と名高い侯爵令嬢……。
「しかし、侍女のお前が知らないとは。あのヴィルフリート殿下も人並みに恥ずかしい気持ちがあるのかね?」
ショックを受けていたオリーヴィアは、ベルクの言葉でその意味を理解する。
(私……誰よりもお近くにいる侍女であったはずなのに!)
自分は、ヴィルフリートが自分に婚約のことを教えてくれなかったのがショックだったのだ。ヴィルフリートは、もちろん寝室の掃除や衣類の洗濯といったことは他の使用人に任せることはあっても、例えば外出の予定や仕事の手伝いといった身近なことは大体オリーヴィアに任せている。オリーヴィアはヴィルフリートの明日の起床時間まで把握しているのだ。
それなのに、そんな自分に婚約のことを知らせてくれなかったなんて! 先日から立て続けに、まるで天に
「なんだオリーヴィア、ショックなのか?」
「……そんなことないわ。殿下が私に教えてくださらなかったのは、なにか理由が……タイミングが合わなかったとか、そんな事情があったのかもしれないし……」
「ああ、そういうことか。しかし、あのヴィルフリート殿下が婚約するとは思わなかったな。あのお方は仕事と婚姻するのだと思っていた」
うんうん、とベルクは
「……私は夜会でお見掛けしたけれど、カーリン・ブーアメスター嬢は大層可憐な方だったわ。殿下はもしかしたら一目惚れというものをしたんじゃないかしら」
「なるほどな。あのヴィルフリート殿下も人の子だものな」
湧いたお湯で紅茶を準備しながら、オリーヴィアは気付けばじっと一点を見つめていた。ヴィルフリートの一番近くにいるのは自分ではなかった……。いや何かの手違いで伝わっていないだけかもしれないけれど、既に料理長のベルクが知っているのだから、しょせんヴィルフリートにとって自分はその程度であったということで……。
「しかし、髪が珊瑚色で瞳がレモン色というのは、なんとも珍妙だな。俺はオリーヴィアの白銀の髪とオレンジの瞳がきれいだと思うぞ、お前、眼鏡を外して髪をほどいたら結構美人なんじゃないか? フロレンツ殿下の婚約者であったくらいだし」
「さあ……どうなんでしょう……」
しかし側近のグスタフが知らないはずはない。これでグスタフが知らなければ何かの手違い、下手をすれば婚約自体が何かの間違いということになる。そんなことを考えていたオリーヴィアは生返事をした。
「殿下も婚約なさったことだし、俺達もどうだ、オリーヴィア。俺はお前が
「そうね……」
そうか、間違いか。ハッとオリーヴィアは顔を上げた。そもそも第二皇子の婚約が祝いもなにもなく終わっているはずがない。これは何かの間違いに違いない。
そうと分かれば殿下に直接訊ねなければ。ガチャガチャと紅茶を用意するオリーヴィアの後ろから、ベルクは「じゃあオリーヴィア、考えといてくれ。俺もそろそろ身を落ち着かせようと思っていたから」と畳みかける。
「分かった、考えておくわ」
「おいおい。まあいい、いい返事を待ってる」
最後まで話を聞いていなかったオリーヴィアは、紅茶を載せた盆を手に厨房を飛び出した。
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