第2話 侍女オリーヴィアは気にしない

 フロレンツ第一皇子とオリーヴィア元侯爵令嬢の婚約が破棄されて3年。


「ねえ見て、オリーヴィアよ」


 黙々と庭園を掃除するオリーヴィアのもとに、嘲笑交じりの声が届く。


「よくも王城にいることができるわよね。フロレンツ殿下を騙したのよ?」

「本当は人買いに売られた下賤の身だったのに、侯爵令嬢のフリですって。いやしいわねえ」

「でも納得だと思わない? 見て、あの老婆のような銀髪に丸眼鏡、うちの使用人にそっくりよ」


 オリーヴィアの髪は生まれつきの白銀なのだが、オリーヴィア自身が嘲弄ちょうろうの対象となって以来、その髪色は白髪と大差ないとよくわらわれている。また、眼鏡に関しては「少しでも当時の顔立ちを隠そう……」というせめてもの抵抗なのだが、全く意味をなしていないどころか笑いのネタを増やしてしまっている有様だ。


「あんな髪の方が侯爵令嬢だなんて、おかしいと思ったのよ」

「それなのに目は黄色かオレンジ色か……まるで狼のようよね、不気味だわ」

「この帝国を食い荒らす、恐ろしい獣の化身なんじゃないかしら? ああ怖い、早く出て行ってくれないかしら……」


 この目の色もまた同じく。ここ3年ですっかり慣れたことで傷つきはしなかったが、さすがのオリーヴィアも溜息を吐いてしまった。


(いつでも人の悪口ばっかり、他に面白い話がないのかしら)


 5歳の頃、オリーヴィアは人買いに売られ、アーベライン侯爵に引き取られた。オリーヴィアを皇妃にとたくらんでいたアーベライン侯爵は衣食住は保障したが、基本的な扱いは酷いものだった。寝起きしていたのは使用人部屋であったし、気に食わぬことがあれば殴られるのはもちろんのこと、アーベライン侯爵令息達の命令はどんな理不尽なことでも絶対だった。襲われずに済んだのは生娘でなければ皇妃になれなかったから、そのくらい、オリーヴィアを守ってくれるものは何もなかった。


 そんな日々を過ごしたオリーヴィアにとって「下賤の身の元侯爵令嬢気取りの老侍女」なんて悪口は痛くもかゆくもなかった。なんなら、フロレンツ第一皇子との婚約中はフロレンツを気遣って時には口を閉ざし時にはニコニコ微笑まなければならなかったが、今はそれもない。


(十年の時を経て、ようやく私は安寧のときを手にしたのだわ……!)


 衣食住が保障され、理不尽に暴力を与えられることもなく、それどころか上等な自室を与えられ、趣味に興じる時間もあるし仕事は楽しい。まるで十年間耐え忍んだご褒美のような生活だ。


 自分を嗤う声を背に心の中でぐっと拳を握りしめていると、声が、ある足音を境にピタリと止まる。そのまま慌てて手を動かすような気配と共に「――オリーヴィア」と低く、よく通る声が響き渡った。


 振り向いた先には、あるじがいた。遠目でも分かる、稀代の彫刻家が作ったかのように美しい顔、海の底のように深い青色の髪、宵闇よりさらに暗い黒色の瞳。ヴィルフリート・クラフト第二皇子だ。


 彼は、通称“氷の皇子”。その異名は彫像のような美しさのみからくるのではなく、まるで血の通っていないかのように冷たいその性格をも指している――あらゆる物事を合理と不合理で切り分け、後者となれば相手がどんな名門貴族だろうと容赦なく躊躇ちゅうちょなく捨て去る冷徹さ。それは、穏やかで人当たりのいいフロレンツ・クラフト第一皇子とまったく対照的であった。


 その第一皇子に婚約破棄され、この第二皇子の侍女となったのが、既に3年も前のこと。オリーヴィアは慌ててヴィルフリートに駆け寄り、素早く頭を下げる。


「ヴィルフリート殿下、どうなさいました」

「……今日は少し早く休む。ゆえに先に紅茶を淹れてくれ」

「かしこまりました、殿下」


 お陰でいつも、挨拶して最初に見つめる先はヴィルフリートの足下だ。埃ひとつ乗っていないブーツの爪先を見た後、オリーヴィアは眼鏡の奥で軽く瞑目めいもくした。


「すぐにご準備いたします。執務室で少々お待ちください」

「ああ。……お前はいつも無駄口が少ないな」


 顔を上げると、ヴィルフリートがわしのように鋭い視線を使用人達に投げたところだった。さっきまでオリーヴィアの悪口で盛り上がっていた彼女達は、まるで呼吸さえ許されないかのような緊張感をただよわせながらせっせと掃除に勤しんでいる。


 しかし、ヴィルフリートは彼女らがサボっているのを見ていたに違いない。チッ、とその端正たんせいな顔が苛立ちにゆがんだ。


「群れれば喋ること以外できんとは。そんなに騒ぐことが好きなら来世は小鳥にでもなればいい」

「…………」

「なんだオリーヴィア」

「いえ、可愛らしいたとえでしたので、少々笑ってしまいまして」

「小鳥が可愛いものか。季節の移ろいを感じ北から南へと羽ばたく連中は相当たくましいぞ」


 そんなどこかズレた反論にまで笑ってしまったが、ヴィルフリートは怪訝な顔をするだけだった。


「殿下、お忙しいのでしょう。少し寒くなってまいりましたし、早く執務室にお戻りください」

「……ああ、そうだな」


 身をひるがえす、その動きは皇子でありながら鍛え抜かれた軍人のそれで、オリーヴィアはつい見惚れてしまった。


 


 約3年前、ヴィルフリートはオリーヴィアに自分の侍女になるように命じた。


『長く城内にいるのだから勝手は分かるだろう。俺のことも含めて』


 当時から既に“氷の皇子”と呼ばれていたヴィルフリートは「仕事ができない」という一言で次から次へと侍女をクビにし、仕方なく年老いた乳母一人がその身の回りの世話をしている有様だった。だがそれでは仕事が回らないのだと苛立っていた。


『言っておくが、お前はただの侍女のオリーヴィアだ。兄上の元婚約者などという肩書はないと思え』


 そうして、皇子にして既に皇帝のような暴君っぷりで、ヴィルフリートはオリーヴィアを本当にこき使い始めた。元兄嫁候補とは思えぬほど雑に「この書簡を側近グスタフに持っていけ」と小間使いをさせ、「紅茶を淹れろ」と厨房に立たせ、「この書簡の要点をまとめなおせ」と仕事の手伝いまでさせた。


 ヴィルフリートが兄の元婚約者にして咎人とがびとのオリーヴィアを侍女にしたというのは王城で知らぬ者はいないほど有名な話で、誰もが「ヴィルフリートはひそかにオリーヴィアに想いを寄せていたのだ」と下世話な想像をしていた。しかし、城内をあっちへこっちへ飛び回らされるオリーヴィアを見、誰もがそれは妄想であったと改めた――ヴィルフリートは、それなりに城内の勝手を知り、読み書きができ、なおかつ自分に恩があるため逃げ出せない“便利な”オリーヴィアをまんまと召使いにしたに過ぎなかったのだ、と。


(実際、貴族達の顔が頭に入ってて、フロレンツ殿下の隣で政治事情を聞いていて、顔見知りだから気兼ねなくて、何かすれば首を刎ねても問題ないなんて、我ながら都合が良いものね)


 さすが合理的な氷の皇子だ。ヴィルフリートの決定に、オリーヴィア自身もそう納得した。


 ……本当は、オリーヴィア自身、ヴィルフリートの好意を勘繰かんぐらなくはなかったが。ヴィルフリートの背中を眺めながら、オリーヴィアは昔のことを思い出す。


 二人が初めて出会ったのは、オリーヴィアとフロレンツ第一皇子が婚約したときであった。ヴィルフリートは当時から素っ気なくぶっきらぼうで、オリーヴィアを見ても自己紹介すらしなかった。


 しかしある日、オリーヴィアが城内の庭で本を読んでいるとき、たまたまヴィルフリートと出くわした。後から聞いたが、そこはヴィルフリートの昼寝場所だったそうだ。


『オリーヴィアと言ったな。何の本を読んでいるんだ』


 オリーヴィアは、ヴィルフリートから見れば兄の婚約者であったが、フェーニクス帝国の皇位継承者は戦績を筆頭とする実力順であり、フロレンツとヴィルフリートの間には兄弟以上の上下関係がなかった。


『いま読んでいるのは帝国文化史です、ヴィルフリート殿下』


 だからオリーヴィアとヴィルフリートの関係はなんとも微妙で、二人の会話はそんな社交辞令じみたものから始まった。


 ただ、ヴィルフリートはオリーヴィアの本に興味を示し、つい熱心に感想を話すうちに互いに互いの話に夢中になった。そうしていつの間にか仲良くなり、まるで約束しているように毎日同じ場所で同じ時間を過ごし……オリーヴィアは少しだけヴィルフリートに惹かれるようになった。フロレンツとは政略婚約であったし、将来の義弟とはいえヴィルフリートはオリーヴィアより3つ年上だった。


 しかし、その感情が愛情か恋情か分からないまま、少なくともフロレンツの婚約者としてこれ以上親密になるべきでないと身を引き締めて過ごして、あの日が――オリーヴィアが咎人とがびとと糾弾され、フロレンツ第一皇子との婚約を破棄されたあの日がやってきた。


 結果、オリーヴィアとヴィルフリートの関係は侍女とその主となった。


 ヴィルフリートとオリーヴィアはフロレンツの婚約者であったとき以上に遠くなったどころか、対等に話すことすら許されない関係になった。


(……でも、あのままフロレンツ殿下と婚姻していたらヴィルフリート殿下と私は義理の姉弟だったし……)


 なにより、ヴィルフリートが庇ってくれなければ、あの日にオリーヴィアは首を刎ねられ死んでいた。


 そう考えると、アーベライン侯爵の娘でないとバレてしまったことは僥倖ぎょうこうだったかもしれない。オリーヴィアは持ち前の明るさでそう気を取り直した。


 そんなヴィルフリートへの感情には、名前がつかないままだ。なんなら3年前、きれいにしっかりと蓋をしておくことにもした。侍女となった自分に、尊慕そんぼ以外は不要だったから。


(いまの私は、ヴィルフリート殿下に誠心誠意お仕えする以外ない)


 ヴィルフリートは、それなりに城内の勝手を知り、読み書きができ、なおかつ自分に恩があるため逃げ出せない“便利な”オリーヴィアをまんまと召使いにしたに過ぎない。オリーヴィアはそうわきまえている。

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