第31話:三次藩

あれからどれ程の時がかかったのか分からぬほど長い静寂が千種庄兵衛を襲った。用意された茶はすっかり飲み切ってしまい、千種は異様なる雰囲気に吞まれつつあった


「(どれくらい時が経ったのだ、真綿で首を絞めるような心地だ。)」


すると足音がして千種は平伏をした。足音は2人、上座に1人、その上座の隣に1人と止まり、そのまま座った


「千種屋、面を上げよ。」


千種は耳を疑った。その声は前に聞いた事のあり、千種は恐る恐る頭を上げると、そこには三次藩藩主である浅野式部少輔長照と元義兄で組頭の大沼一之進一豊の姿があった。千種は何故、この2人がここにと思いつつ平静を装いながら、千種庄兵衛として対応することにした


「初めて御意をえまする、手前は千種屋の主である千種庄兵衛にございます。」


「・・・・すっかり商人が板についたようだな、五十嵐十郎太。」


「はて、それはどなたの事で?」


「惚けんでも良い、そちの事は既に調べておるわ。」


完全に見抜かれていた事に千種はこれまでかと観念し「お久しゅうございます」と返答をした


「まさか商人になっているとは思わなかったな。」


「組頭様から絶縁という名のお計らいにて、妻子共々ようやく大坂に腰を降ろす事が叶いましてございます。」


皮肉を述べる千種に大沼はキッとした表情で千種を睨み付けたが浅野式部少輔は大沼を抑えつつも少々、呆れながら千種を見ていた。千種はそれを無視して、浅野式部少輔に用件を聞くことにした


「畏れながら、手前にような一介の商人に何用にございましょうか?」


「用というのは他でもない。そちが赤穂浪士の遺族の赦免願いに傘下したと進藤刑部大輔から聞いた。」


進藤刑部大輔の名が口にする浅野式部少輔に千種は「口が軽い」と内心、思いつつもありのままを答えた


「畏れながら彼の御仁は既に手前の事を熟知しており、仕方なく協力したまでにございます。」


「その事で阿久里も感謝しておった。そして藩を追われた事を知って申し訳なく思うておった。」


阿久里こと瑤泉院が赤穂浪士討ち入り後に妻共々、三次藩から追われた事を知り、後悔していたという。それを聞いた千種は・・・・


「全ては手前自身の身から出た錆にございます。亡き殿と大石様たちに背いて家族との生活を選んだ手前の手落ちにございました。」


千種自身は自分だけではなく苦楽を共にした家族と奉公人たちの暮らしを確保すべく奔走したが赤穂浪士の討ち入りによって、それは脆くも崩れさり武士の道を捨てざるを得なかったのである。浅野式部少輔もその事を理解しているのか静かに語り始めた


「ワシも藩のためにそちを切り離した事には変わりはない。」


「お殿様、最早過ぎた事、お気遣いは御無用に願います。それに手前含め家族も商人の暮らしに満足しております故・・・・」


「そうか・・・・そうだ。そちが良ければ三次藩の御用商人にならぬか?」


三次藩の御用商人という言葉に千種は正直、心に響かなかった。討ち入り前から余所者である自分は身内のコネで仕官したという理由で陰口を叩かれ、討ち入り後は家族を含めて白眼視され、蛇蝎の如く嫌われた事は今でも忘れられずにいたため千種は「御辞退致します」と返答した。辞退という言葉に浅野式部少輔はやはりかと納得し、大沼はキッと五十嵐を睨みつけた


「・・・・やはり余、いや三次藩を恨んでいるのか?」


「いいえと言えば嘘になりまする。手前と家族は三次藩には良き思い出がございませぬ故・・・・」


「十郎太、無礼であろう!」


「良い。」


「しかし!」


「五十嵐の言う事も分からぬでない・・・・五十嵐よ、すまん。」


「いいえ、手前こそ御無礼を申しげました、申し訳ございません。」


千種自身、自分が何故このような事を言っているのか、嘘でもいいのに追従の言葉を述べれば良いのにと思った。この場で殺されてもおかしくない状況にも関わらず不平不満を述べ続けたのは千種自身の内に秘めていた恨みが今になって吹き出した瞬間だったのかもしれない


「他に望む事はあるか?」


「・・・・強いてあるとすれば、そっとしておいてくださりませ。」


千種の返答に浅野式部少輔は「そうか」と述べた後、大沼に目線を向けた


「一之進。これ以上、千種屋には関わらぬようにせよ。」


「御意。」


「五十嵐、いや千種庄兵衛、大儀であった。」


「ははっ。」


浅野式部少輔はそう言うと立ち上がり、その場を去った。大沼は共に去ろうとした瞬間、千種の方へ視線を向けた


「殿の慈悲に感謝するのだな。」


大沼はそう吐き捨て、その場を立ち去った。残された千種は自分は生きている事を実感しつつも何とも後味の悪い結果となった。自分の中で封印している五十嵐十郎太達敏が未だに残っていた事を改めた実感したのである


「既に消えていたと思ったら、まだ残っておったとはな。」


自嘲しつつも、ようやく解放された事に心から安堵しつつ真っ直ぐ、千種屋に戻った。その道中、襲撃されぬよう人通りの多い場所に移動したが今のところは気配はなく、無事に千種屋に辿り着く事ができた。店の外で水撒きをしていた奉公人が千種を見掛け、驚きの表情を浮かべた


「今、戻った。」


「は、はい!旦那様、お帰りなさいませ!」


奉公人の声が聞こえたのか、店から太吉と加代が慌てて出てきた。千種の姿を見掛けると2人は「お帰りなさいませ」と挨拶をした


「安心せよ、ワシはこうして生きておる。」


「御無事のお戻り、祝着至極にございます!」


千種は店に入ると、登代と菊丸と千代が恭しく出迎えた。登代が「お帰りなさいませ」と言うと菊丸と千代も揃って「お帰りなさいませ」と続いて挨拶をした


「今、戻った。」


「お役目、御苦労に存じます。」


その後、千種は着替えを済ませた後、登代を私室に呼んで今日あった事を包み隠さず話した。中でも兄である大沼が同席していた事に登代は驚きを隠せなかった


「兄上が・・・・」


「あぁ。何とも後味の悪い対面と別れであった。」


「お前様、どうかお気を落とさないでくださいませ。誰とて虫の居所が悪い事がございます。」


「ふっ、虫の居所が悪いか。ワシはまだまだ未熟というところだな。」


自嘲する千種に登代の表情が曇った。2人としては大沼から絶縁を言い渡された事から、実兄(義兄)であった大沼に対して反発もあった。身内から不忠者が出たという理由でクビ、離縁を強要、子供たちを仏門に入れる等、家族がバラバラになってしまうという思いから絶縁の道を選んだ2人はこれで良かったのだと思いつつも、後味の悪い結果に終わったのである


「お前様、今日の事は忘れましょう。最早、私たちは三次藩とは無縁なのですから。」


「あぁ。」


三次藩とは2度と関わらないと固く誓い合い、改めて日々を精一杯生きる事を選ぶのであった

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