正常なる世界(短編)

藻ノかたり

第1話 細菌研究所の爆発(1/3)

「ちくしょう……」


男は、山深い森の洞くつで呟いた。


誰も助けに来るはずがない。男はそんな場所で、薬が切れる恐怖に怯えていた。


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20✕✕年。全世界の人々は、とある薬を例外なく毎日飲んでいる。いや、飲まされていると言った方が良いかも知れない。それぞれの国家で服用が厳しく義務付けられ、違反すると厳罰に処せられるからだ。


その薬は、こう呼ばれた。


「正常薬」


文字通り体の状態を”正常にする”ための薬である。


では、何故その薬を飲まなければならないのか?


全ては十年前の”あの日”に始まった。


某国の細菌研究施設が爆発し、未知のウイルスが世界に蔓延した。ウイルス感染者は時を追うごとに増大し、またどんな環境にも侵入するため、シェルターに入っても殆ど無意味であった。


誰もが皆、ウイルスの悪影響を心配した。自分の体に、子供の体に何か影響はないのか? 楽観視する声も多かったが、その期待は無残に打ち砕かれる。


少しずつではあるものの、地球上、全ての地域で、特有の症状を訴える住民が出始めたのだ。最初は、ほんの小さな頭痛に過ぎない。だが痛みは時とともに耐え難いものになり、自ら死を選ぶ者が出たり、ショック死する者もいるという噂が立った。


そしてこの症状は、みな平等にやって来た。性別、人種、貧富の差。あらゆる差異をものともせず、世界中にはびこっていく。ただし、若干の例外もあった。それはいち早くシェルターに逃げ込んだ、一部の上級国民たちである。


もちろん彼等にも同様の症状が現れたのだが、発症時期が明らかに遅かった。恐らくシェルターの換気装置が、多少なりともウイルスの侵入を阻害したのだろう。


その中には世界的な科学者、経営者、政治家が多く含まれており、彼らが病魔に侵される前に、対応策が激烈な早さで整えられた。上級国民なればこそ、成せる業である。


彼らの努力の甲斐あって、とりあえず今の症状を抑える薬が開発された。道半ばではあったが、それは早急に大量生産され世界中に配られる。人々は彼らに大いに感謝した。


その後も研究は進み、ある程度悪化した症状を元に戻す効果が見込める薬も開発され、これまた莫大な費用をかけて世界中に配給された。その甲斐あって、異変から一年後には、世界は取りあえずの平穏を取り戻した。


それまでは”上級国民”というと、搾取階級のように余り良い印象がなかったが、この世界的事件で彼らの評価は一変した。


ただ、解決できない問題もある。それは薬を飲み続けないと、かの症状が現れてしまう事だ。ウイルスが遺伝子構造に直接影響を及ぼしたためと言われており、感染した本人は勿論、その後に生まれた子供にも同じ影響があった。


不幸中の幸いは、影響が全人類に及んだという事実である。誰かれと差別される事もなく、薬は究極の大量生産が行われ、薬価は大変低く抑えられた。殆ど全ての国で、無料かそれに近い値段で配られている。


だが、時として不幸は起きる。本人の意思とは関係なしに、薬が飲めない状況に陥れば病魔は進行する。それは塗炭の苦しみの果てに、死に至る可能性もある恐怖の病として人々の胸に刻み込まれた。



「やっぱり忠告ってのは、聞いておくもんだな」


男は山岳ガイドの言う事を無視して、山へ入った事を後悔した。天候の悪化は分かっていたが、何度も登った事がある山なので油断していたのだ。その挙句、突然の吹雪で道に迷ってしまい、命からがらこの洞窟へと逃げ込んだのであった。


「手持ちの薬は……、あと二日分か。その間に救助される可能性は殆どないだろう……」


政府の広報によれば、薬を飲まなかった場合、頭痛を発症するのは二日後であった。その症状は急激に悪化し、五日後には肉体が痛みに耐えられなくなり死を迎える可能性が高い。


これはある意味、病魔が薬に対して耐性を持った事に他ならない。当初、症状の進行は非常にゆっくりとしたものであった。故に苦しむ人はいたものの、多くの人々が、薬が開発されるまで何とか持ちこたえる事が出来たのだ。


しかし薬が普及するとともに、薬をやめるとすぐに症状が現れるようになってしまった。この問題は、未だに解決されていない。


「俺は、ここで死ぬのか……」


ガイドが言うには一端雪が降りだすと、一週間はやまないという話だったので、捜索はその後という段取りとなる。見つかった頃には、既に手遅れとなるのは明白だった。


「これも、全てあの女のせいだ……!」


男は、憎い妻の顔を思い浮かべる。


俺が一体なにをしたっていうんだ。真面目に働いてきたし、家事だって育児だって分担して来たじゃないか。それを五年も浮気をして、挙句の果てに別れて下さいなんて人をバカにするのにも程がある。


男は離婚を切り出され、このまま妻の前にいると彼女を殺してしまうのではないかと恐ろしくなり、取るものも取りあえず時々登山を楽しむ山へと向かったのだった。


だからこうなったのも、全てあの女の責任なのだ。


二日後、ついに薬が切れる時が来た。


男は黄金の薬を飲むかのように、最後の薬を崇め服用した。今は少しでも苦しみが先延ばしになる事を期待するしかない。だが、やがて薬の効果は切れ、政府広報の通り頭痛が始まった。


「なんだ、この痛みは……。何か頭の中を強制的に掃除されているような……」

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