Ⅱ.考え事は次々と巡る

 家に帰るとすぐに、俺は手を洗う為に洗面所に向かう。蛇口を捻ると冷たい水が流れ落ちてくる。水しぶきの音を聞きながら、俺は数時間前のことを思い返していた。


「あんた達、いいカップルになるんじゃない?」


 五十嵐の高い声が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。あいつと、だって?ありえないな。鼻で笑う。しかし数秒後にはまた、立椛のことを考えてしまう。


 ふと気が付くと、俺は洗い終わった手で、再び石鹸を泡立てていた。




「買い物行ってきてくれる?」


 俺が部屋で勉強していた時のことだ。母の声がした。


「分かった。行くよ。」


 俺は無機質に返事をした。


「珍しいじゃない。手伝ってくれるなんて。」


 母親が驚くのも無理はない。俺は手伝いなんて殆どしない。だが、今は何かをしておきたかった。座っていると何故か、立椛のことが気になって仕方が無い。三十分も机の前に座っておきながら、一問しか問題を解いていない。しかも簡単な計算問題だ。何故か調子が悪いので、少し気分転換でもするか。立ち上がって部屋を出た。いつもはこんなこと無いのにな。




 家の近くのスーパーに向かう途中、公園がある。大きさはそこまで広くないが、真ん中にコンクリートで出来た円錐台の小山がある。階段と滑り台が付属していて、周りには石が埋め込まれている。これを使ってクライミングもどき、みたいなことが出来る。昔はここでよく立椛と遊んだ。ふと、昔の記憶がよみがえった。


「零君って、私のこと嫌いなの?」


「え、なんで?嫌いじゃないけど。」


「じゃあよかった。私と喋るのが面倒くさそうな感じに見えたから。」


「面倒くさい時もあるけど、嫌いじゃないよ。」


「なにそれ。変なの。」


 なぜ立椛はあんなことを聞いたのだろうか。恐らく俺があまりにもぶっきらぼうだったからだろう。確か、立椛に冷たくし過ぎた時のことだったな。あんまりにも興味の無い事ばかり話してくる立椛にうんざりしていた俺を見て、あいつは嫌われているのかと心配していたな。


 取り繕うことを知らなかった俺は、いつも他人を知らないうちに傷つけていた。適当に放った言葉が、人の心を抉ることを、まだ知らなかった頃の俺だった。


 駄目だ、思い出しちゃいけない。ふと記憶が甦り、俺は公園の前を走り去った。ああ、駄目だ。どうしても思い出してしまう。忘れたくても忘れられない、罪の記憶。





 スーパーに着いた。室内に入ると、フルーツの香りが鼻孔を刺激する。いい匂いだ。何か買って帰るか。母から貰ったメモを見ると、「フルーツ(好きなものをどうぞ)」、と書かれている。そこで俺は傍にあったパイナップルを丸々一つ、かごに入れた。その時だ。ふと目が合った。フルーツが並んだ台の向こう側に、よく知った顔が見えた。


「神川、久しぶりだな。」


 相変わらず声だけは男前だ。薄手のTシャツに半ズボン。サンダルを履いている。もう十月だというのに、まだこんな格好をしているとは。変わらないな。


「よう、始。」


「相変わらず返事は適当、だな。」


 笑いながら橋本始が言った。橋本始。中学まで一緒だった友達だ。俺にとっては珍しく、信頼できる数少ない友達の一人だ。別々の高校に入学してから一切会っていなかった。


「お前こそ、変わんないな。永遠に半袖でいる気だよな。」


「お前がそう言ったせいで俺、風邪ひいただろ。」


 笑いながら始が言った。あれは確か小四の時だったか。永遠に半袖でいろよ、なんて冗談を言った。そうしたら始は、本当に雪が降った日も半袖半ズボンで登校して来たのだ。案の定風邪をひいて、三日程休んでいた。今となっては面白い話だ。


「ホントにやる奴がいるかよ、馬鹿だな。」


 笑って言った。馬鹿な奴だ。だが、噓はつかない。人を騙す、なんてことは絶対にしない。だから信頼できる。


「調子はどうだ?彼女はできたか?」


 冷やかすように始が言った。


「あぁ、最悪だよ。誰も信じられない。彼女なんかできる訳ないだろう。」


 いつも通りぶっきらぼうに答える。俺を好きになる奴なんている筈ない。


「けどな…、」


 そう言いかけ、俺は口をつぐんだ。


「なんだなんだ、候補でもいるのかよ?」


「さあな。」


「教えろよ。自己完結してたらいつまでも変わんねえぞ。」


 始が言った。そして、俺の目を見た。


「よく分からないんだよ。自分の感情が。」


「じゃあ、いるんだな?想い人が。」


 始は無邪気に笑う。人間ってのは、休日と恋バナが大好きなようだ。


「半田立椛って、覚えてるか?」


「確か、小学校の時転校した女子か?お前仲良かったよな。」


「ああ、高校で再会したんだよ。」


 一呼吸置いて話を続ける。


「それでな、今日クラスメイトに、俺らがいいカップルになるんじゃないって言われたんだよ。そっから急に、あいつの事しか考えられなくなった。そのせいで、普段来ない〝おつかい〟に来てみたって訳だよ。」


「へぇー、いいんじゃねえか?友達だったら話しやすいし。」


 悩む俺とは裏腹に、始は楽しそうに話す。傍観者っていいよな。


「分かんねえんだよ、自分の本心が。」


「お前は素直じゃないからな。本心見れなさそうだ。」


 始は微笑む。へっ!見透かしやがって。その時、始は素っ頓狂な声を上げた。


「やっべ、アイス解ける!そろそろ行かなくちゃ。じゃあな。」


 なんだよ。質問しっぱなしか。相変わらずだ。話したい事はもっとあったが、俺も買い物がある。じゃあな、と言って、俺は手を振った。


「そうだ、いいこと思いついた。半田に、お前の事どう思ってるか聞いてみたら?LINEとかで。」


 振り返って始が言った。


「そんじゃ。」


 始はレジの方へ走り去っていった。


 家に帰ると、母親が待ちくたびれたように言った。


「どこ行ってたのよ。遅すぎない?」


「ちょっと知り合いと会ってね。悪い悪い。」適当に流して自分の部屋に戻る。やる事があるのでね。


 ベッドに寝転がると、スマホを取り出し、LINEを開いた。


(あのさ、お前、俺のことどう思ってる?)


とりあえず、立椛にLINEを送っておいた。




 なにこれ、パイナップル⁉


 キッチンから母の叫び声が聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る