Episode09-朱殷を纏う少女-
(弌.)
三年生へと進級した彼女は中学の校門から出ると、普段どおり自宅へと向かって歩き始めた。
友達と言えるような友達がいない彼女ーー葉月瑠衣は、三年に進級してからは毎日ひとりで帰宅することになっていた。二年生の頃は友達がいなくても姉と二人で帰ることが多かったので、完全にひとりぼっちではなかった。
とはいえ、それでも教室内では常に孤立している瑠衣は、孤独には慣れている。別に酷いいじめを受けているわけでもない。稀に陰口を叩かれるだけだ。いじめも軽いーー画鋲を上履きに仕込まれる程度で済んでおり、辺りからは嘲笑されるレベルの嫌がらせしかされていない。
体育で二人組をつくれと言われたら余ってしまうのが悩みの種だった。
クラスメートの人数が偶数なのに余ってしまうこのシステムには欠陥があるに違いない。と、瑠衣は自己解決している。
唱えると誰かしらに必ず苦痛をもたらす呪文でしかない。それを平然と口にする教師(あいつ)には、いずれ天罰が下るだろう。
瑠衣は脳内でそう補完して、やるせなさを緩和する。
春特有の寒さと暖かさが混じる風が吹くと、道端の草花が踊るように揺れはじめる。その風を一身に浴びながら、きょうはなにをしようかと瑠衣は考える。
無趣味である瑠衣からすれば、家に帰っても特別やることがないのだ。
そんな帰路の途中、人気の薄い細道を歩いていると、背後から腕を回され、いきなり口を塞がれた。
「声出すなよ! こっちにこい」
「んっ!?」
瑠衣は口が塞いだまま、無理やり公園の草むらに連れていかれ、乱雑に押し倒された。
「おいおい上玉じゃねーか、やるなテメェ」
「待ってみるものっすね。けへへ!」
瑠衣の口にガムテープが貼られ、男たちは厭らしく嗤う。
「ん? んーっ!?」
草むらにはもう一人男が待機していた。
昂る感情を抑えきれないとという表情を浮かべながら、連携して瑠衣が身動きできないような体勢にしていく。
瑠衣はこれからなにをされるのか理解した途端、よりいっそうに強く暴れはじめた。
必死に手足をばたつかせようとするが、頭側に居る男に両手首を掴まれ、相方の男がスカートを捲り上げつつ下半身に跨がってしまい、ほとんど動けなくなってしまう。
制服の上着のボタンが外され、手早くワイシャツも脱がされてしまう。一気に捲り上半身の下着が露になる。
体勢を変えながら、男たちにパンツまで脱がされ、下半身の全貌が見えるようになってしまった。
「んーっ! んんっ!」
「うっせーぞ! 満足したら帰してやるから黙ってやがれ!」
瑠衣は暴れていたことにより、スカートからソレが落ちて思い出す。
護身用のカッターナイフを制服に入れていたんだったっけ、と。
しかし、今さら気づいてももう遅い。
どうにか隙をついて反撃できないかと、瑠衣は男たちと当たりの様子を窺う。
ダメだ。誰も見当たらない! と瑠衣は絶望する。
瑠衣の衣服を脱がすと、男たち自らも下半身を露出させ、見たくないものが露になる。
いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
と、その寸刻。
瞬きするよりも早く、彼女の脳裏に異能力の情報が濁流のように押し寄せてきた。
そして、突如として瑠衣に異能力が発現したのであった。
自分が異能力者になったこと、異能力についての知識、なにができるのか、どう使うべきなのかーーそれらすべてが、時間の流れを感じさせないほど一瞬で、急激に記憶へと刻まれる。
ーーそして瑠衣は、刃を鋭くするという異能力が行使できる異能力者として誕生を遂げた。
単なるカッターのままなら、たとえ隙が生じて手に握れても、男たちにとって、そこまで脅威にはなり得ないだろう。
切りつけてもせいぜい軽い切り傷がつくだけで、むしろ逆上される要因になりかねない。
だが現状では、逆転のひとつになるかもしれない手段へと昇華した。
両手を掴んでいる男が自分まで脱ごうと早まったとき、瑠衣は片腕だけ解放された。その隙を見て、慌ててカッターが落ちたほうへと手を伸ばして掴み取る。
成功した瞬間、瑠衣はすぐさまチキチキとカッターの刃を出した。
だが、やはりカッター程度で諦める男ではない。男たちは下卑た笑い声を口から漏らすだけで、なんの畏怖も覚えていない。
「この反応にしろ態度にしろ、もしかしてこいつ処女っぽくね? ラッキー!」
「中学生だろ? 俺たちの時代じゃそれが当たり前だっての! 悪いな? 俺たちを気持ちよくするためだけに妊娠させちゃうかもなぁ? げへへ!」
ーーこいつこいつこいつこいつ!
ーー当たれぇえぇええっ!
下品なことを口にしながら、男は自分の性器を瑠衣の股に遠慮なく入れようとする。
怒りと恐怖が混ざりパニック症状を起こしかけながら、瑠衣はがむしゃらに、どこかに、どこにでもいいから当たってくれ! と健気にカッターをただただ振るいまくった。
「いっ! な!? なんだこれ!?」
下半身側の男がカッターを取り上げようとしたとき、その腕にカッターの刃が当たる。
衣服を着ている部位だが関係ない。衣服も皮膚も筋肉も裂け、骨はさすがに固くて貫通しなかったが、肉が裂けたところから血が多量に飛散し、衣服に勢いよく血が広がっていく。
「っーーざけんじゃねぇぞぉこの肉便器がぁああああッ!」
男はカッターを握る瑠衣の腕を全力で握りしめた。
ーーああっ!?
瑠衣はここまですれば退くだろうと考え、つい動作を緩慢にしてしまったのが災いした。
最初はなにがあったのか理解できなかった男たちだが、なにがあったのか認識した瞬間、この威力のカッターを食らったというのに恐れるのではなく、むしろ頭に血が登り顔を赤くさせ瑠衣に罵声を浴びせる。
狂暴性が増した性欲野郎は、瑠衣の顔面に拳を振り上げ、全力で降り下ろそうとしたときだった。
「すごいカッターだね、それ」
ーーその少女は現れた。
少女は自分よりも少し歳上の風貌をしており、愛くるしく明るさを宿した瞳でこちらを見ている。外見だけなら自分よりかわいいだろうーーと瑠衣は現状を忘れながらそう評した。
男たちは一瞬焦るが、少女が瑠衣より1、2歳年上なだけだとわかりーーつまりは単なる女子高生ぐらいだと認識すると、安堵のため息を漏らした。
「こっちはお楽しみ中だ。あっち行かねーと、おまえもこいつと同じ目に遭うぞ? ああっ? さっさと立ち去れ」
男は忠告するが、少女はそれには耳をかさず、瑠衣に歩み寄ると、瑠衣の顔を見つめる。
「二対一は不利だというのに、さらに女の子を相手に男が二人とか……助ける?」
幼さと活発さの印象を兼ね備えているサイドテールを風に靡かせ、ついに少女は至近距離まできてしまった。
少女が見ているのは瑠衣、つまりは自分に訊いているのだと判断して、藁にもすがる思いで、必死に何度も何度も頷いてみせた。
「ん! んっ!」
声が出せないながらも必死に助けを懇願する。
「オッケー。暇だったしべつにいいよ。それに、ソレ。気になるしね」
状況が状況だから仕方ないとはいえ、最悪少女まで巻き込む可能性があった。だとしても、瑠衣にはいま、そのようなことを思考できる余裕はない。
瑠衣の返事を確認した少女は、笑顔のまま男を見る。
見た目からは想像できない危険な香りを少女は漂わせている。
「やるってんなら容赦しねぅぞ、ああんっ!?」
「あっは! キッモいッ!」
男二人は瑠衣から退き立ち上がると、嗤ってきた少女を殴り飛ばそうと肘を引いた。
少女はそれより早くスカートの中に手を入れた。
ーーそれは、一寸経たずに終わってしまった。
瑠衣が震えながらも見守り、目が乾いて反射的にまぶたを閉じてしまったあいだ。まぶたをこすり瞳を開けるまでのたった3秒ほどしか経過していなかったはずの光景は、先ほどとはまったく状況が変わり果てていた。
まぶたを閉じるまえは、先刻見ていたとおりの状況。
だが、まぶたをあけると、瑠衣の視界には死と血が飛び込んできたのだ。
首から盛大に血を噴出する男と、刃渡り7cmほどの小さな小さなナイフ。それを逆手に握る少女は平然としたまま、次の男に視線を移す。
辺りに血が散らばり、血と鉄の生臭いにおいが周囲に漂う。
一人の者は、たった数秒で、ただの一つの肉へと変貌してしまった。
「なっ!? て、てめぇ!?」
男はなにが起きたのかすぐにはわからなかった。
ようやく理解が及び、恐怖と怒りの混じった怒声をあげた。
しかし、『てめぇ』の『めぇ』と言い終えるときには、既に胸元からはナイフの柄が生えていた。
刺さっている箇所からして、もう生を終える以外の未来は消え失せている。
少女は男の肩に履いている革靴を当てると、蹴りながらナイフの柄を抜き取った。
四人もいた人間は、わずかな時間で半分に減り、変わりとばかりに草の豊かな緑色に赤が飛び散り付着しデコレーションされていた。
「ほいっ、大丈夫だった?」
少女は瑠衣の口に貼られたテープを摘まんで引き剥がす。
「ぁ……あ? なっ、あと……え?」
予想だにしていなかった壮絶な展開に対して、瑠衣は混乱してしまい、上手く言葉を発することができない。
あっさり二人もの成人男性を、この少女はこの世から葬ったのだ。
「道を横切ったらさ、なんだか音がしたからそっと見てみたら、そしたらロリコンがよろしくしようとしているわ、そんなちゃちなカッターでどうにかしようとしているわで笑いそうだったんだけど、まさかカッターで凄いスパッて切ってみせるもんだから驚いた」
「う、うん……その、私、異能力者に、なったみたい」
助けてもらった少女に対して、せめて誠意は見せなければと答えようと努力する。
「やっぱ予想的中じゃん! 凄い! わたし! なになに? カッターを鋭くする異能力なの?」
「え、あ、ちがくて、刃物全般を鋭く、多分、できる」
「マジで? じゃあさじゃあさ、わたしのナイフとかも更に切れるように進化させられるの? 砥石とはまた違う感じに?」
「うん、できると、思う」
常に明るく笑顔な表情を顔に浮かべている少女の姿に、瑠衣は実年齢より幼いイメージを持つ。もちろん、自分より年上だろうと推測できているが、見た目だけではなく、雰囲気がそう感じさせるのだ。
「じゃあさ? 助けてあげたのと、これから死体ふたつを処理する代金の代わりとして、その力でわたしのナイフを強くしてくれない?」
少女は先ほどより刃渡りの長いナイフを瑠衣に差し出すと、死体の処理を自分でも忘れそうだったと慌ててスマホを取り出して耳に当てた。
どこかに連絡しようとする少女を見て、瑠衣は先ほどまでと別の意味で胸が高鳴っていた。
ーーなんだろう、これ? 殺人者なのに、すごい、格好よかった。
瑠衣は少女に渡されたナイフを持つと、刃に人差し指と中指を揃え指の腹を当てた。刃を鋭利にするために必要な、異能力の発動条件。
「あっ、もしもし師匠? 死体ふたつ作っちゃったから掃除屋さんに頼んでくんない?」
通じたらしく、少女は電話先のひとと会話をはじめた。
「いやだって、見ちゃったらしょうがないじゃないっすかー。いや、わたしがやればどうやっても死体になるから。……ありがと師匠! さっすがー! そんじゃ、もう現場から離れちゃいますから、あとは頼みまーすっ」
電話先の相手を師匠と呼ぶわりには、少々おちゃらけ過ぎている気がする、と瑠衣は思った。
ーーそもそも、師匠って?
気になりつつも、あまり詮索はしないほうがいいかと迷い聞かないことにした。
今はほかにも言いたいことがある瑠衣は、電話が終わった少女にナイフを差し出す。
「ラッキー! ありがとね」
「ね、ねえ、いい!?」
ついわけのわからない言葉を大きな声で出してしまう。
要領すべてをなくし、わけのわからない懇願だったと、瑠衣は羞恥で頭を抱えそうになる。
緊張しながら、瑠衣は反応を窺う。
「へ? なにが『いい!?』なのさ?」
「私に、さっきみたいな、戦いかた、教えて? な、ナイフ、強化したし」
瑠衣は本気で戦いたいのではなかった。
今まで生きてきて、こんな自分に対して積極的に話しかけてくれる友好的な歳の近いひとに会ったことがなかった。だからか、瑠衣はどうにか少女と仲良くなりたいと考え、しかし恥ずかしくてそうとは言えず、別のアプローチの仕方を思慮し口にしたものがこれであった。
とはいえ、自分でああいう立ち居振舞いができれば、ひとりで歩いていていても強姦されかけたときに対処できただろうな、とも瑠衣は想像していた。
少女がいたから瑠衣は強姦未遂で済んだというのを、強く実感しているのだ。
「えっ? いや、学んでどうすんのさ? これ見なよ」ありすは単なる肉塊になった男二人に目をやる。「ツテのない一般人なら過剰防衛で即刻お縄についてるって。だいたい、ナイフを強化してくれたのと、あなたを強姦魔から助けてあげたのって、いわば等価交換じゃない?」
「そ、その……」
なにも言い返せず、瑠衣は俯いてしまう。
ありすの言うとおり、これは等価交換なのだ。
「んー……はぁ。ま、いいか。静夜兄ぃも今いないし、退屈してたしねー。多少切りつけて威嚇すれば、いざってときは助かるかもしれないし」
「……ほ、本当! ありがとう!」
瑠衣は先ほどまでの暗かったり恥じたりする表情が変わった。
嬉しさを隠しきれずに頬を喜色に染めたのだ。
「そんなに嬉しいことかな? よくわからないや」
「これから、よろしく」
「たまには育ててみるのもいいかー。面白そうだしね。じゃあ、明日から暇なときは連絡してよ。仕事してたら繋がらないけど、ここ最近は暇だからねー」
少女は瑠衣に番号を見せた。
瑠衣は慌てて男に放り捨てられた鞄を取りにいき、中から自分のスマホを取り出し、急いで番号を登録するために打ち込んでいく。
ーー電話帳に、姉さんや、親以外の、番号!
初めて家族以外の携帯番号が登録できることに対して、ついにまにまとスマホの画面を見つめる。
と、番号を入れながら瑠衣は、登録するまえに少女に訊いた。
「あの、名前、教えてほしい」
「名前? 私はありす。河川ありす。きみの名前も教えてよね」
「瑠衣、葉月瑠衣っ!」
名前を入力し終わり登録を完了させた瑠衣を見て、ありすは肩を叩く。
「早くここから逃げなきゃ捕まるから行こ?」
「うん、わかった」
衣服を適当に着たままだから乱れているが、瑠衣はなにも気にせず鞄を回収すると、その場を立ち去るありすについていくのであった。
「さすがにきょうはお家に送るだけだよ。私も帰るから。明日から暇になったらかけて。なるべく昼前のほうがいいかも。夜に近づくに連れ依頼の数が増えるし、まさに任務遂行中のときもあるかもしれないからねー」
家まで一緒に来てくれるのかーーと瑠衣は喜びながらも、べつのことにも意識が向く。
「依頼、ってなに?」
「私の仕事。私中学通わないでこの業界にいるの。なぜだかわかる?」
「え? そういえば……」
帰宅の時間帯に学生服ではなく、また、さっきの手慣れた殺しを思慮した瑠衣は、ハッと思い至った。
「こ、殺し屋? ヒットマン、みたいな……?」
「大、正、解!」
こうして、瑠衣とありすは出会い、瑠衣は異能力者保護団体に行きつつも、隠れて異能力を使うようになっていくのであったーー。
(弍.)
家から少しだけ離れた位置にある広い公園。
ここならいじめっ子たちに見られることもないだろう位置にある公園をわざわざ選んだのだ。いじめっ子に見つかったら、なにを言われるのかわかったものではない。そう考えてのことであった。
瑠衣とありすは、向かいあうようにして立っている。
疎らに人はいるが、べつにやましいことはしているわけではないため問題にはならないだろう。
太陽の陽射しが少し強く、きょうに限っては長袖だと汗を掻くかもしれない。
そんななか、ありすはゴム製のナイフを瑠衣へと投げ渡した。
「じゃあ、まずは実際に体感してみて、それから教える内容を決めるね」
ありすがナイフを構えるのを見て、瑠衣も焦りながらナイフを握る。
「……? ありす、訊いてもいい? どうしてあのときと、持ち方、違うの?」
ありすは最初に会ったときみたいな逆手の握り方ではなく、順手ーー普通の握り方をしていた。瑠衣はあの持ち方のほうが格好いいのにと思い質問した。
そんな瑠衣のほうは、あの日のありすを真似て逆手にナイフを握っていた。
逆手ナイフーー通常、ナイフを握る刃が上に行き柄を握る構えになる。しかし逆手の場合、柄が上に来て刃が下に来るようになる。それが逆手の握り方である。
「瑠衣がいきなり真似したら悪影響だからと思ったんだけど、わー、気遣い無意味だったー」
「ごめん。でも、ありすがしてたし」
「自衛目的だよね? 逆手は突き重視、要するに殺すための握り方ってことなの。瑠衣は相手を殺すわけじゃないよね? 基本は順手持ち。んー、しゃあない。ぱぱっと握り方それぞれの特徴を教えるから、なるべくわたしのナイフが当たらないように避けつつ、好きなタイミングで攻撃してきていいよ。さあ、カモン」
「え、あ、うん、わかった」
二人とも右手にナイフを構えた。
瑠衣は逆手にナイフを握ったままありすに駆け寄る。
「まず、順手で刃(エッジ)が相手向きかつ柄の背に親指を乗せる」ありすはナイフを軽く振り瑠衣を牽制する。「リーチが長くて、斬り突き両方しやすいから、じわじわ相手を切りつけていくのに向いている」
瑠衣は近寄ろうとするが、振られたナイフに当たりそうになり、なかなかありすに近寄ることができない。
「ちなみ柄をすべての指で握るのがハンマーグリップ。こっちのほうがすっぽ抜けにくい」ありすはナイフで牽制するように再び振るう。「ただし、手首の稼働範囲がちょい落ちちゃう。でーー」ありすは気のせいかと思う程度、眼孔を鋭くさせた。「今からする構え方は、すべて殺すとき用の構え方」
瑠衣は逆手の構えでは相手よりリーチが短く当てられないことに苛立ちを覚える。
ありすはそれを気にせず、ナイフの刃を
「順手で刃が上向きは完全突き特化」ナイフで突いてくる瑠衣の腕を左手で内側へと払いお腹に軽くナイフを当てる。「お腹にナイフを突き刺した勢いで柄が下へと押されるから、テコの原理で刃が上がり腸が切り裂ける。お腹に骨ないからね。つまり一撃必殺特化型の構え。よくヤクザ映画とかで出てくるでしょ?」
「もう、順手にする」
瑠衣には逆手の握り方では一向に近づけないと悟り、最初に教わった持ち方ーー通常どおりの順手の握り方ーーに持ち直した。
しかし、ありすは逆に、ナイフを器用に回して逆手に変えた。
瑠衣は不思議に思いながらも、そのリーチの差を生かすつもりで腕を伸ばす。
「次は、逆手持ちの刃は腕の外向き」ありすは腰を左に曲げ、左腕を瑠衣の右手首に当てて防ぐ。「突きに特化した持ち方。リーチが短く稼働範囲も狭い変わりに、力がかかりやすくなる。だから致死性が高いし、手より先に刃が行くから手を斬られる恐れが軽減する構えといえるね。結構、基本的な持ち方なんだ」
瑠衣の腕に、ありすはナイフを突き下ろし、素早く手首をかっ切る動作を見せた。直後、すぐに瑠衣の肩を押し無理やり退かせて間合いを空けさせた。
「柄頭に親指を当てて力を受ける握り方なんかもあったりするよ。まあ、これに関しては使い手の好みだね」
瑠衣はナイフを振りかぶる。
ありすはナイフの刃を自分に向くように持ち直すと、ナイフを降り下ろすまえに前へと踏み込み、瑠衣の右腕へ自身の左前腕を当てて瑠衣の攻撃を防ぎ止めた。
「逆手持ちの刃も腕(じぶん)向きは、突き特化の威力最重用視変則型」
瑠衣の右腕の外側にありすは右手を出し、左右の手で挟む形にする。
すぐさま右手首を曲げて下げると、瑠衣の腕にナイフの刃が引っ掛かった形になる。自分側に刃が向いている状態の逆手だからこそ、瑠衣の腕に刃が向く形になっている。そして左手を離しながら、切り落とすように手首に引っ掛かった刃を回わし引く。
「特殊な位置からの攻撃に使えて、威力は斬りも突きも一番強力。でも稼働範囲は極小。使える場面は限られてるね」
ありすは言いながら、間を置かずに左手を瑠衣の襟首へと回し当てていた。ありすは自分へと引っ張るように力を入れる、すると、瑠衣は反射的に倒れないように力を入れる。しかしありすはすぐに喉を突いてみせた。襟首が左手で支えられているため逃げられない瑠衣は、実戦なら直撃になる位置に強く当たってしまった。
瑠衣がナイフを振ろうとするのを、ありすは身体で腕を押して動作を抑える。そのまま右手を喉の後ろまで伸ばし、支えていた左手を額のほうへ回し、再び両手をクロスさせるような位置へと変える。
ありすは瑠衣の左肩へと回ったナイフを引きながら、左手で頭を強く押し込み、さらに足を絡めて地面に倒した。
「いぎっ!」
地面に頭がぶつかるのを防ぐため、ありすは胸元を素早く掴み、支えながら地面に着けた。
刃の向きを変えて倒れた瑠衣を押さえつけ、仕上げとばかりに突いていく。心臓に突き、腋に突き入れ、肘を斬り、腹部に突き立て、手首をスライスして、最後に股の内側から足の付け根に強く刃を当てて外へ外へとスライドさせるよう切り払う動作を見せたのち、ようやくありすの攻撃は止まった。
瑠衣は半泣きで衣服をはたきながら立ち上がる。
「ゴム製でも、痛い……」
「ごめん。でも、リバースグリップは自衛には向かないってわかったよね? 突きが強力で、致死性が高くて、稼働範囲は狭くて、慣れが必要で、自ら相手に寄る必要がある。うん。やっぱり日本じゃ自衛に使うには向いてないって」
「うん……でも、ありす、凄い。ナイフ、当たらなかった」
この実践中、一度もナイフを当てられた試しがなかったのだ。
「そりゃ、一回失敗しただけで人生も一緒に強制退職な仕事だからであって、素人の瑠衣に切られるくらいならとっくに死んでるよ。とりあえず、瑠衣にはこんな素晴らしい異能力があるんだから、わざわざ逆手にしなくても大丈夫だよ」
ありすはスカートの下からソッと、本物のナイフーー刃渡り15cmほどはあるナイフを取り出した。
瑠衣の力を試すために新たに異能力を使ってもらった物である。
「こうもサクサク刺さるようになると、逆に危険かもしれないけどね。まっ、瑠衣には対暴漢を想定して教えていくから。逃げられるのなら逃げるのが先決で、逃げられないようであれば仕方なく戦う。これを基本にしなよ?」
「う、うん、わかった。頑張る」
ーーその日からしばらくのあいだ、瑠衣はありすから戦い方を学びはじめることになった。
ある日は、腰を低くして砂を拾い、相手の目に投げて切りかかる練習。
石を投げて対象に命中させようとしたり、ナイフの隠し場所から素早く取り出しながら攻撃する方法、相手の肩を見て臨機応変に行動する構え、武器持ちが相手の場合の対処法などを少しずつ学んでいく。
本格的にナイフを振れるようになるため、紙に縦横斜めと線を書いて中心に点を着けた用紙を壁に貼ると、ボールペンを握りながら、それに沿うように上下左右どこからでも切れるように自室で練習を繰り返した事もある。
代わりに、瑠衣はありすに言われた刃物を強化した。なにか鋭くしたい刃物があったらなんでも強化するよーーと瑠衣自ら提案するほど、瑠衣はありすに依存していたのだ。
そう、ありすと訓練したり会話したりする時間が、生きていくなかで唯一の楽しみになっているほど……。
見かけの上では友達同士に見える関係であり、瑠衣にとっては充実した毎日だった。
ーーその明るくも楽しかった日々は、唐突に終わりを告げた。
何の前触れもなく、ありすに連絡ができなくなり、会えなくなってしまった。
明るい日々は、暗い日々へと再び落下していくだけ……。
(弎.)
ありすに連絡が通じなくなり、およそ一月ほどの時間が経過した。
「瑠衣、いい加減に寝なさい。なにぐずぐず泣いてるの? なにがあったのか言ってくれないとなにもできないの、わかる?」
隣の部屋からすすり泣く声が頻繁に聴こえてくるようになり気になった瑠璃は、心配して瑠衣に声をかけることにしたのだ。
「どうして? いなく、ずっ……なったの……友達に、なったのっ、にっ、なんでっ、ぅぅ……」
「泣いていないで答えて。ほら、なにがあったの?」
ありすとのたったひとつの繋がりであった電話番号、幾度となくかけてみたが一度も通じなかったのだ。
もう、これには一生繋がらないのではないかと思い、瑠衣はありすへの道しるべが無くなったと考え、気分はよりいっそう鬱々としていく。
さらには、今になってから3人のいじめは過激になるようになり、鬱蒼と生い茂る樹海のなかにいる気持ちすら抱いてしまっていた。
「いや、だ。いやだよ! 友達じゃ、なかったの!? ……なんでも、するから、また会っでよぉおぉっあぁぁぁ……ぐすっ! うっ……うぅ……ずっ……ぐすっ……ぁぁ……あぁぁっ……」
気分は日が経つに連れて落ちるばかりだったのに、ありすと自分が如何に細い繋がりだったのかを理解してしまい、もう絶望してしまった。
なにをやっても楽しいと感じられない。
そんな暗い日々に戻るだけだが、瑠衣にはもう、耐えられなかった。
楽しさを知ってしまったのだ。もう戻りたくないと思いつづける。
憂鬱気分だけが増していき、瑠衣は毎晩のようにまくらを涙で濡らす。
「……言ってくれないとわからないじゃない。なにかなくした? 大切なものなら一緒に探すし、買い直してあげるから。あっ、ほら、なら化粧品もっと欲しい? カラコンとか要る?」
「……さい」
「え?」
瑠衣は机のなかに入れていたカッターを、自然な流れで手にして構えた。
「うるさい言ってるの! 姉さんにはどうせわからないだから言わないあっちいけ!」
「る、瑠衣、え、そ、そんなに怒らなくてもいいじゃない……あ、あんた、まさか異能力使って……? いや、まさか、申請したんだし使うわけ」
妹の言っていた能力と、手にしているカッター。
その関係から、瑠璃はいまでも異能力を使っているんのではないかと心配する。
同時に、いきなり刃物を向けて激昂する瑠衣にショックを受けてしまった。
「ひひ……なら試してみる? 試せば使ったかどうかわかるよ!? ほら、ほらほらほらっ! 近づいてきなよ今すぐ切ってあげるからさぁ! 早くきてよ!」
「ちょっと……な、なんなのよ、瑠衣」
瑠衣はカッターの刃を瑠璃へと向けたままだが、悲しみの表情がいきなり無くなり、違和感のある笑みを浮かべている。
瑠衣はありすの訓練で学んだとおり、体を弛緩させながら足は常に軽く動かし、カッターを持つ右手を前に、左手をそれより後ろにやる。
「ほら、来てくれれば試してあげるから来なよ! 来なよ、ねぇ!? なんならこっちから切りにいってあげようかいいねそうしようそうするけど死んでも確かめたかった姉さんが悪いだけだからね恨まないでねっ!」
慣れた足運びで瑠璃へと近づきはじめ、瑠璃は危険を察知し少し怖くなってしまう。
「……わかった、もうなにも言わない。そろそろ寝なさいよ?」
強く言ったらなにをされるかわからない。と瑠璃は聞き出すのを諦め自室へと撤退した。
「……ひっ、きひひひひっ! ひひひひひひひひひひひひぃっ!! あったじゃん! まだここに、ありすはいる! ありすとの、訓練の成果! ひひひひっ! これは、これはありすと私が友達という証! 証なら、明らかにしないと、証明しないといけないっ! ひひっひっひひひひっ! ああぁ……楽しみだなぁ。どうせなら、私をいじめたあいつらで試してやろう! あいつらなら最悪殺してもいいだろう!」
瑠衣はカッターの刃に異能力を込めた。
それを明日のためにスカートのポケットに忍ばせた。
いじめている側にとっては災難かもしれない。
たった数ヶ月もいじめていないのに、暗い印象しかない彼女から、ああも悲惨な目に合わされるとは思いもよらなかっただろう。
因果応報のバランスが崩れているといっていい出来事が発生する日の朝がくる。
翌日。
いつものような暗い朝ではない。瑠衣はうきうきと登校する。ありすと一緒にいた確かな証を示せるからだ。
きょうに限っては、瑠衣はいじめを始めた三人組に会うのが楽しみでしかたなかった。
教室に入り、瑠衣はいじめっ子たちが集まる席に向かった歩く。
「あっ、きょうも来たよアイツ! おまえの予想大はずれじゃんウケるんだけど」
「はぁ!? 葉月テメェマジで空気読めよ。ホント使えないんだけど、ごみならごみくらいの働きしろや」
「ーーおはよう、ひひっ、みんな」
いじめっ子3人組がいる窓際の席に近づきながらポケットに手を入れてカッターを取り出す。逆手に握り右手をだらりと下げ手首を腕側に曲げる。
こうして手首を曲げれば、相手にナイフが見えなくなるから暗殺に使えるのだーーとありすに習っていたからだ。
「あっ、は? てめぇまだ呼んでないんだけど」
「くっさ、キモッ、暗ッ! なに? うちらに朝からいじめて欲しいって言いたいんだ?」
「ウケるんだけど、笑ってるよこいつ、頭おかしいんじゃ……ね?」
瑠衣はナイフを素早く斜めに振り上げ一人に切りつけた。
そこに、わりかし深めにスパりと赤い斜めの線が入り、その線から血が溢れはじめた。
「痛ってぇ!? はぁあぁ!? 意味わかんないんだけど!? 意味わかんない意味わかんないんだけどコイツ!」
「はぁ!? こいつ狂ったんじゃね!? 押さえつけろ押さえつけろ!」
二人が席から立ち上がり瑠衣に手を伸ばすが、瑠衣は両手を使い逆手持(リバースグリップ)ちから順手持(セイバーグリップ)ちに持ち変えると、一歩退いて伸ばしてきた手を斬りつけた。
「ちょ、マジ!! なんなのこいつありえないんだけど!?」
「ひひひひっ! ありすとの証だよ。私いまから、杉田さん、山上さん、佐東さん……たっぷり赤でからだを飾らせてあげるね!」
ススッーーと瑠衣はカッターを軽く振るだけで、相手は近寄ることができない。ただのカッターですら恐怖を感じている。しかし、これは単なるカッターではない。
そして、ついに胴体を右肩から左脇腹広範囲に切り下ろし、すぐに振りあげ左から右へとカッターで薙いだ。
「ひっ!? いやゃあぁあぁぁああああ!!」
杉田と呼ばれた女子の制服に血が滲み、真紅に染まりはじめた。
「綺麗になれたね? よかったじゃん! よかったよかった、安心して、山上さんも佐東さんも、みんな綺麗になりたいんでしょ? キモいやつはダメなんだよね? なら、私が綺麗にしてあげる! ひひひひっひひひひっ!」
カッターを数回、左、右、斜め上、右、と振って、当たりそうだった佐東に突きを放った。
「うぐぶぁっ!?」
佐東はからだを刺されると同時に口から血を吐き出し机に突っ伏した。
「なんなのなんなの! マジありえないマジありえないんだけど!? ねぇ謝るからもういじめないから、ね、ね! 犯罪だって、洒落になんねーよ! テメェらのんびりしてねーで早くこのキチガイ止めろよ! 梅沢(せんせい)呼べよ早くしろよ!!」
事態に気づいたクラスメートはザワつき、女子の数名が悲鳴をあげた。
先生を呼びに何人かクラスメートが出ていき、体つきのいい男子が数名、瑠衣を捕まえようと集まる。
「来ないでっ! 真っ赤な色で着飾りたいひとは来てもいいよ!? ほら、いじめられてる私を見てみぬフリした傍観者どもっ! 来れるものなら来てみろよ! 早く、早く、早く来いって聞こえないのっ!? ひゃははははっくひひひひひきひひひひ楽し~い!」
近寄ってきた男子に当てないようカッターを振り牽制し、一度机に突き立て机くらいなら貫通することを見せつけた。来たら斬られると印象を持たせるために、瑠衣はあえて見せつけたようだ。
たしかにクラスメートの大半は見守るだけだが、男子はまだ二人ほど瑠衣を押さえるために近づいていく。
山下は瑠衣の意識が逸れている隙に逃げようとする。
しかし瑠衣は見逃さない。逃げられたら最悪死んでもいいヤツらが減るからだ。
右足を大きく上げて一歩踏み込みながら、逃げられないように山下の前を塞ぐよう刺突を放った。
山下が小さな悲鳴を上げて止まるや否や、そのまま数回軽く斬りつける。すぐに近場の椅子を抱え上げた瑠衣は、山下へと強く当てて押し飛ばした。
山下は机に血を吐き動かないでいる佐東と、まだ軽傷で済んでいる杉田がいる位置に仰向けに倒されてしまった。
「いやぁぁあああああああ!!」
血を吐いてグッタリとしたままの伊東や、ブラウスが紅色一色になって飛ばされてきた山下を見るなり、杉田は失禁しながら逃げようとする。
瑠衣は持っている椅子を投げる。それが杉田に命中すると、杉田は前のめりになって倒れ伏した。
「やめろ、いい加減にしろよ葉月!」
「おい、やばいって!」
男子二名が走り寄ってくるまえに、カッターを三回ほど振って威嚇する。
カッターを手から離させようと、男子はなにかを考え無理にでも瑠衣に近づいた。
その構え方を見た瞬間、瑠衣は口角をつり上げた。
「ーーありす、本当だ! すごいねっ!」
カッターで斬りかかる瑠衣の腕を、男子は右手で防ぐと捻ろうとする。
しかし瑠衣は防がれると予想し、防がれる辺りで左手にカッターを投げ渡していた。
そのまま左手にあるカッターで男子を真横に斬り裂いた。
「つっ? うわぁあああ!?」
「ありす、本当にいるんだね。素手でナイフを相手にできると謳う護身術って、あるんだね! ありすの言うとおり、本番だと役に立たないねぇ! くひひひひっ! あっーー来るなっ!」
「っ!」
もう一人の男子が蹴ってくるのが見えたため、瑠衣はその足が来るところにカッターの刃を配置した。すると、足が当たったところがスッパリ切れてしまう。
「おまえも、デコレーションするんだなぁぁああああっ!?」
それでも蹴りは当たり、痛みに耐えながらカッターをスライドさせて足に深く斬り込んだ。
「ぎっ! ああ! ああああ足がぁああああ!!」
男子生徒は雄叫びをあげ屈み動かなくなった。
「自分で足を飾りたいから来たんだよね? 違うならくるなっ! 自己責任、自業自得! 真っ赤になりたくないのに来るおまえが悪い!」瑠衣は教室の端や外から見ているクラスメートを見渡す。「おまえら! 来たら絶対真っ赤にするから切られても文句言うなよ! わかったなぁっ!」
この言葉により恐怖心が芽生え、クラスメートは誰ひとりとして瑠衣に近づこうと考えなくなってしまった。
瑠衣は椅子を引き摺ると、まずは山下を叩きつけた。
しかし呻き声を漏らしながら立ち上がる杉田を見つけて、瑠衣は先にそっちに三回ほど椅子を振り下ろした。
「いだいだいやぁぁっ!」
瑠衣は屈んで耐えている杉田の髪を鷲掴みにすると、仰向けに無理やり倒し、軽く飛び落下の力とともに腹部を足で踏み潰した。
「わるがっだがらぁ! あびゃまりゅがばぁびゅるじでぇぶぇぅぇ!!」
杉田は言葉にならない懇願をする。
「それより知ってる? ナイフを持つ一番恐いヤツは、素人の暴走突撃なんだって。知ってたぁああ?」
瑠衣はカッターの柄を握り、喉にカッターの柄頭の部分を何度も叩きつけながらありすに言われたことを思い出していた。
死を恐れない素人のがむしゃら突撃は、ありすですら防ぐのに手間がかかるーーまるで、ありすと予習をしているような気分になれた瑠衣は、久しぶりに満面の笑みを浮かべる。
その次は、顔を叩きはじめた。叩く、叩く、叩く、叩く叩く、殴る殴り殴る殴る殴った後に頬をカッターで斬りつけた。
「ああっ、ごめん。深く入ったから、一生残るかも、でも、うれしいから、いいよね? うれしいなら許してね」
「ごめんなざいごめんなざいごめんなざいごめんなざい」
「うれしい? ね、うれしい? うれしい? うれしい? うれしくないなら、もっと切ってあげるから答えろ!」
瑠衣はカッターを床に突き刺してみせる。
こんなにサクリと刃が全て入るほど切れ味はよくなかったはず……と瑠衣は一瞬だけ思ったが、いまは皆を赤で染めてあげないと可哀想だからと考え、特別気にはしなかった。
「さあ、言わないならもっと切るからね。ね、うれしい?」
「ば、ばびいぃ、ぶれじいでずっだがらぁもうやめでぇ!」
「よかったよかった! じゃ、これからもよろしくね!!」
頬の傷や歯、折れた鼻からの出血などにより顔が紅色に染まり、震えたまま、何を言っているのかわからない声で謝罪をつづける。
まるで、壊れたスピーカーかの如く何度も謝りつづけている。
杉田の顔を紅赤で満たせたことに満足した瑠衣は、今度は山下を見た。
「や、やめ、やめて……や、え、なに、わ、わたしにも……嘘……でしょ?」
「山下さんがいじめのリーダーだからもちろんスペシャルにしてあげるよ喜んでねぇえぇ!? くひひひひひひひひひっ!」
瑠衣は再び椅子を持つと、限界まで高く振り上げた。
「お、お願い、やめて? 死ぬって、それはやめよう? お願い、ね?」
それを見上げゾッとした山下は、目を見開き必死に懇願する。
「安心して」
瑠衣は、それをそのまま、全身全霊をかけて振り下ろす。
「ひっ! ーーがぎゃっあっぼっ!?」
今までは聞こえなかった、なにか鈍い弾ける音。
しかし気にせず、瑠衣は椅子を再び持ち上げて振り下ろす。
「べっ!?」
椅子をーー持ち上げて、振り下ろす。持ち上げて、振り下ろす。持ち上げて振り下ろす、持ち上げて振り下ろす、持ち上げて振り下ろす持ち上げて振り下ろす、上げ下げ上げ下げ上げ下げーー叩きつけていき、最後に斜めに椅子を投げて放るなりカッターを構えて山下をうつぶせになるように転がした。
「ううっ痛っいぃ! 悪かったからぁああっ! 絶対折れてるってぁああいやぁぁああああ!!」
しかし、いじめてきた相手、という体のいい獲物が欲しかっただけの瑠衣は、べつにいじめようがいじめられまいが、今さらどうでもよかった。
ありすとの共同作業を邪魔されまいと、相手に非を見て自分から止まられないようにしたいだけなのだから止まるはずもなく……。
「背中になにか書いてあげる! うれしーーいっ!?」
瑠衣はいきなり梅沢(せんせい)に背後から羽交い締めにされてしまう。
「落ち着け葉月! 冷静になれ!」
「……先生か。先生も私がいじめられてるの見て無視してたのに」カッターを逆手に回す。「これは無視しないんだ? へえ~?」
「そ、それはーーぶふぁっ!?」
背後に突ける逆手持ちに変え、教師をカッターで刺突したのだ。
痛みで手が緩んだ隙に離れると、さらに体を斬りつけ梅沢のシャツは血で鮮やかに染まってしまう。
「終わったら解放するからあっちいってて! じゃないと……人間てどこが弱点か知ってる? 首にする? 腋(わき)がいい? やっぱり心臓? 腎臓やらの内臓? 手首がいい? 足の付け根辺りでもいいよ? さあ、行かないってことは死にたいんだね? いいよ、どこがいい!?」
「おい、だめだ葉月、いいからやめるんだっ!」
「次なにか言ったらぶっ殺す!」
「だから落ちーー」
「あっそ死にたいんだ。自分から死にたいって言ったのにあとで文句言わないでねまあこれでありすに近づけるんだなぁやったぁああ!!」
まさか本気で言っているのだとは思っていなかったのだろう。
梅沢の首を斬ると、浅かったため腹部にも素早く二回刺したのだ。
「ごぶぁっ?!」
担任は吐血すると、その場で横に倒れてしまった。
「いやぁぁあああああああ! いやぁぁあああああああ!!」
恐怖が限界を越え、山下は叫びながら失禁する。
瑠衣はブラウスやシャツを刃で切り裂き左右に開き、山下の背中の肌を露にさせた。
「くひひひひひひひひひっうれしょんだぁ犬みたい! 動かないでね? 動いたら刺さって死んじゃうかも知れないから」
「……だれ……か……だ……れ……か……」
山下の背中に『私は山下下品、好きなことはいじめです』と丁寧にカッターで刻んでいく。
「深い傷は、一生消えないん、だって! やったね!」
「いたいいたいいたいいたい! いたいっていたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい! 痛いってばぁあぁああぁアアアッッ!!」
山下の悲鳴を聞きながら、鼻歌まじりに掘るように書いていく。
泣いて叫声をあげながら謝ったり、願ってきたり、だれかに助けを求めたり、嘆いてみせたり、最後には叫ぶ力がなくなったのか、なにも言わずにすすり泣くだけになった。
「オッケー! うれしい? ねぇ、うれしい?」
山下の背中に深く刻んだ文字は、血が出てきてしまいすぐには読めない。しかし、山下のスカートを捲り上げて拭ってみると正しく書き終わったのがわかり、瑠衣は達成感で満たされた。
「…………ゆる……して……」
「最後に化粧をしてあげるね、動かないでね、動いたらああなるからね?」
倒れたまま唸るだけで動かない教師を指して言う。
そして、額に『肉』、頬にはわかりやすい大便の絵を刻んだ。
「……ぅ……ぐすっ…………な……なんで……私が……ごんな、目にぃ……あわなぐぢゃ……いげないのよ……ぁぁあぁ……あぁ……ぁ……ぁ……」
床には血と尿と汗が混ざった汚液が広まっている。
「うれし涙? やった甲斐があるよ、ありがとう。はぁー、久しぶりに楽しかったなぁさてとーーあれ? ……え? なに、なんで私……こんな事……え?」
瑠衣は満足感や充実感に満たされている最中だったのが、目的を終えてふと周りを見ると、まぶたを見開いて唖然とした。
ーー吐血したまま、意識のない佐東。
ーー鼻や歯が折れ、顔が崩れた杉田。
ーー制服全てが朱殷で染まった山下。
「あ、え、これ、私がやった、なんで、やったの……私?」
ーー腹部を両手で抱え踞り、息をするだけになった担任。
ーー教室から出ていく血を足などから流す男子二人。
ーー化け物を見るような目で瑠衣を見ているクラスメート。
「やったの、覚えてる、けど、わからない。どうしても……そうしたく、なって……あ、ああ!?」
『自衛だよね?』
『殺すためのものってこと。瑠衣は殺さないよね』
『暴漢を想定して教えていくから』
『瑠衣にはこんな素晴らしい異能力があるんだからさ』
『逃げるのが先決で、逃げられないなら戦う、これを基本にしなよ?』
ーー他の教師が三人ほど慌てて入ってくる。
ーー瑠衣を興奮させないために気遣いつつ近寄る教師。
「ぁ……ああっ……ぁぁ……ぁあぁああぁあぁああっ!」
ありすは自分と同じになるなと、伝えていたではないか。
その期待を破ってしまった自分はもう、ありすに見せる顔がない。
瑠衣は認められずに叫びつづける。
ーー恐る恐る歩み寄ろうとする教師。
「あぁあぁぁぁ……ぁ…………もう…………無い…………」
なにが証明だ。なにが共同作業だ。
クラスメートを切るのは訓練(ゆうじょう)の成果(あかし)なのか?
そんなわけないだろう。
あれほど、相手から逃げる、殺さない、暴漢対策、と自衛としての訓練を中心に教えてくれたことを反故にした。
教師が近寄り、惨状を解決するため動きはじめる。
ーーそして、瑠衣は停学処分になった。とはいえ、警察に捕まることはなかった。
軽傷者二名、重傷者三名、重体一名、計六人もの怪我人を出したこの事案に、瑠衣は刑罰で罪を償うことはなかったのだ。
姉か、親か、それとも学校か、誰かがなにかしたのだろうと、瑠衣は考えた。
そこからは皆に腫れ物を触るかのように怖がられ、高校にもウワサが付きまとい、孤立状態が現在までつづいた。
(.25)
このことから、姉ーー葉月瑠璃は、高校からは登下校と昼休みはなるべく瑠衣を見張ることに決めたのだという。
そして、瑠璃が言うところの過去の問題行動はこれを指しているらしく、ありすについては未だに僕にしか話していないらしい。
……自分から聞いておいてなんだけど、他人に聞かせていい内容ではなかった。でも、少しヒントがあったから、こっちとしてありがたいけど。
瑠璃がいない日にも僕が教室に来たことがそんなに嬉しいのか、瑠衣は『最初の友達』だとか『ズッ友』だとかを合間合間に挟んでくるのだ。最初の友達からありすは外されたのだろうか?
そして、昼休みが終わる直前になったときに、瑠衣は上目遣いでこう言ってきた。
「豊花、放課後、一緒に帰ろ」
つまり、一緒に下校したいと告げてきたのだ。
正直な話、間が持たない気がする……。
でもまさか、殺し屋とフレンドリーになった話や、過去にやらかした内容を聞いて、断れるヤツなんていないだろう。
そもそもこの流れから『嫌だ』と言えるやつはいない。少なくとも僕には無理だ。
瑠衣のこんな珍しい笑顔が冷めるのを考えただけで、謝罪したくなってしまう。
まあ、話がつづかなくても、なぜか瑠衣なら気にしないような気がするし大丈夫だろう。
一緒に帰る約束を瑠衣と交わし、僕はようやく自分の教室へと帰った。
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