彩り

 見慣れてしまったアクリルのケージをスイッチ一つで取っ払う。鈍い身体が現実に帰ってきたことを教えてくれた。フィットするように作られたマットからふんわりと上半身を浮き上がらせる。


「帰ってきたか、天青の仮想世界はどうだった」


 子機のパソコンを起動させて、重原君は待っていてくれた。キーボードの隣に、ブラックコーヒー入りのコップと栄養ドリンクが置かれている。先生が勧める一品で、二本を既に飲み切ったようだった。親機の机にあった椅子を出してくる。

 静止した曇り空と無人の廃墟。本命の異常だらけの遊園地が、基礎的なパッチでどうにもならなかったこと。どんな世界なのか、先輩との会話を覚えている限り細かく話す。いつもより鈍いタイピング速度で記録を取って、口を挟まずに聞いてくれた。

 以上です、と区切りを付けた途端に呆れと蔑みが混ざったような音を発する。


「好奇心豊かなのに崩壊した世界を描き続けるとは……危険人物だと思ってたが、狂人と認識した方が適切かもしれん」


 先輩から告白するべきだと思って経歴を省いたのに、まるで知っていたかのように呟く。椅子を掴むことで回転させ、僕と向き合う。姿勢を正して真剣な表情で見つめられる。成否は重原君の反応にかかっていた。


「改めて言う。俺は天青が好きではない。本心を覆い隠して交流する姿勢が苦手で、事後通知で改善する様が気に食わん。何より天青の所業が過去の俺を見ているようで虫唾が走った。初対面が限りなく最悪だったことを踏まえて毛嫌いしていた。……きっと天青も目的意識が薄く追求し続ける俺を嫌っていただろう」


 絡んだ糸を千切らずに解くような過去形で、どこかにいる少女へ冷たく低い声を吐き捨てた。添えたような呟きが一番どす黒く聞こえた気がする。

 どうやって手伝ってもらおうか。重い頭を回転させるよりも早く追加される。


「蓮たちが俺の仮想世界に来たとき、天青は氷塊にデータを差し込んでいた。マルウェアかと思ったら画像が数枚入っているだけ。あいつは何がしたかったんだ、放生先輩からの情報で謎がやっと氷解した。」


 今度の一言は優しく響く。嘲笑から純粋な笑いに変わっていた。


「先輩からの協力要請に快諾した時点で定まっている。馬鹿野郎が勝手に決めた縛りなんかさっさと消し去ってしまえ」


 僕の手の上に右手を乗せて何かを握らせる。ビニール袋で包まれたような感触で、端のギザギザが手のひらを刺激した。

 開いて確認するとカラフルな装飾が施されたレーションが現れる。


「本番でしくじらないようにきちんとしたベッドで寝てこい」


 ぶっきらぼうに言い放ってパソコンへ向かう。さっさと行け。少しでも寝る時間を取ってくれる重原君なりの優しさだろう。

 先輩にも言われました、と返すと肩が下がった。

 二人きりの空間にカタカタとタイピングの音が鳴り始める。戸に手をかけたあたり、ふと思い出したように重原君が小声で呟く。


「職員準備室で先輩が寝ているから静かに外出してくれ。また明日、俺が起きてるかは分からんがな」


 また明日、と言葉を残して部屋に入る。書類が積もった机の横、仮眠用のベッドに毛布製のミノムシが一つ。飛び出した穂先を動かさないように、部屋をそっと通過する。先は慣れた通路だった。近づくと明るくなる廊下のおかげで何かにぶつかることはない。たんたんと歩いて外に出る。

 夜風で揺らめく草木を天に散りばめられた星々が映す。日頃見る景色が現実であると強く突き付ける。

 月は空の中央で存在感を放っていた。協力はとりつけたけど成し遂げられるのか。本番は明日だと思うと、寝る時刻なのに心臓のうねりは収まらない。


『世界を変えてやると思い込め』


 棗に特訓を受けてから一日も経っていない。彼と比べると散々な成績で、最後まで成功したとは言えない。本番であれば成功するなんて保障も在りはしない。

 継いだ想いを活かしてみせる。爪が刺さりそうなくらい拳に力を込めた。


 空の輝きを再び増して枕元まで伸びてきた。久しぶりにセットした目覚まし時計の出番は訪れない。すっかり目覚めてしまった体を難なく起こしてスイッチを押す。気力がなくてそのまま寝てしまった上着に残ったシワを見て、着替えなければと決心する。どうせ仮想世界に反映されないのではないか。そう感じても気分は変わらなかった。新しく持っていく物はない。珍しくアイロンで整えたパリパリの服を取り出して部屋を出る。隣の部屋から聞こえるうっとうしい寝息が今日は聞こえなかった。

 日が出てしばらくした空を雲がしきりに動く。木々は今後の梅雨に備えて今のうちに花を咲かせ、草花がなびくくらいのそよ風が流れた。いつもの道を歩きながら手前はイルカっぽい、奥はひな鳥か、と輝く白色の雲を知っているものに当てはめてみる。


 現実の空は勝手に天気が変わる仕組みで、仮想世界を知ると随分と不便だと思う。でも研修設備で白一辺倒の空を知り、先輩の世界で停止した雲を見た。嫌っていたはずの変化を受け入れて、当たり前だと思っていた自宅近辺が新たに彩色された感覚がした。大きく息を吐いて、吸う。


 世界に彩を取り戻す。


 数十年前の人々は日曜の学校に特別な思いを抱いていたらしい。私服で行くことに背徳感を覚え、校舎の静かさに驚いて、友達と自分の声だけで教室を染め上げて、約束の人が来るのを待ソコンが動き続けている。挨拶を返すとデバッグ中と書かれていた画面を止めたつ。虫さんに紹介された作品の一場面を思い出す。仮想世界を体験して違いを学んでも特別感は思い当たらなかった。

 無人の職員室を通り抜けて、職員準備室へノックをする。反応はない。緊急事態だったら謝ろうと思いつつ扉を開く。誰もいない。ベッドの方を向くとミノムシが大きくなっていた。重原君が顔を出してうつ伏せで寝込んでいる。限界まで手伝ってくれた。ありがとう、と感謝を込めて奥の部屋へ向かう。

 先生は重原君がいた場所より一つ奥のパソコンに座っていた。猫背の姿勢でデータベースから情報を集めていく。パソコンを扱う様は初めて見るけれど、ドローン捌きで見た以上に速く処理されていった。


「おはよう。ちゃんと休んでくれたようで良かったよ」


 肩が小さく上がって、すぐさま降ろす。色素が減った髪がちょこんと立っていて、いつもより日常的なシャツを着こんでいた。

 抑えられた首元がきつそう。もしかして前後逆ではないか。僕の反応よりも早く処理を中断して席を立つ。


「重原く……重原が彩葉さんの世界の問題を解決する鍵を探ってくれました。彩葉さ

んも待機しています。準備は整ってますよ」


 一礼をしてポッドを開く。蓋に備え付けられたタブレットには先輩からのメッセージが届いていた。慌てて上靴を脱いで中に入る。


「彩葉さんも蓮君も私にとって欠かせない一人です。重圧になるとは思うけど敢えて伝えますね……絶対に願いを繋いでください。責任者として結末を見届けて受け入れるから」


 装置が稼働し出す。身体が弛緩して意識が薄らぐ。

 これから行く世界を思い出す。どうやって直せるか今でも分からない。けれど昨日とは違う。重原君が作り上げて先生が渡してくれたデータがある。


『それじゃ、さっさと晴らしちゃおっか』


 先輩がくれたメッセージは明るい未来を想定しているようだった。


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