+1【章エピローグ】
週が明けて月曜日。穴あきだらけの靴箱が現実に戻ってきたことを突き付けてくる。上靴で床を叩く音が嫌なくらいよく響いた。4階の教室までの足取りは重い。
踊り場のプリントは数年前の物が平然と残っていて、四隅のセロハンテープも黄色く変色してしまっている。誰とも出会うことはないのはいつものことだ。なのに数日ぶりの孤独に凹んでいる自分がいた。
廊下では窓を通した日差しだけが暖かみを伝えてくれる。他の課程の教室を通り過ぎても音一つしない。共用空間で授業を受けている者にとって、学校はいわゆる箱ものなのだ。偶然の遭遇がない限り騒ぐ人はいない。
だからこそ僕は遠慮なく自分の教室の扉を開いた。開いた窓の前、日光に当たるように1人の男性が窓際を陣取る。長方形のレンズの眼鏡をかけて、タブレットを鋭い視線で見つめていた。扉の音に気付いたのか顔を見上げた。
今度は見上げなくても表情が分かる。
「おはよう、蓮で間違いないよな。色々あってこっちで過ごすことにしてみた」
仮想世界と現実、重原君の雰囲気は変わらなかった。とはいえまさか人がいるとは思っていない。慌てて挨拶を返すと、「外見は別人のようだが中身は変わっていないな」と笑みをこぼした。
「どうしてこっちで過ごすことにしたの。仮想世界は一部だけでも随分と楽しめたし、忘れられない位食べ物は美味しかったよ」
ここまで無味無臭だったが、布団を剥がして液体栄養食を飲んだ時の感触を思い出す。同級生が現実を見捨てた理由の1つはあれだろう。心を無にしなければやっていられない、機関はもう少し満足度を上げるべきではないだろうか。
食料は同感だと肯定しながら、重原君はわざわざ現実も選んだ理由を教えてくれた。
「蓮たちが現実に戻った後、ベンチマークテストを実施してみたんだ。数か月前に他の修理部門に何回か依頼してみたんだが、いずれも数日も持たずにバグが再発した。でも今回は性能が上がってバグの兆候も見られなかった」
教室での応対が慣れていると思ったら、1年以内に体験していたかららしい。違いとして思い当たる節は1つだけだ。
「先輩の修理が幸を成したんじゃない。凍死しかけるほど必死に対応していたから」
「あの問題児のせいでは断じてない。大体修理部門の条約を確認し直したが、やはり意図的な管理用パスワードの奪取は……」
僕の言葉を遮るほど強い、断定した口調で否定された。ぶつくさと小言で呟かれる専門用語の群れ。授業は当面始まらない。重原君の気が済むまで待ち続ける。
「愚痴を聞いてもらいわけじゃない。バグが根絶された原因は人と過ごした影響が主だと考察している。ということで1つは人と過ごしたときのメンタルの違いを調査するため。もう1つ借りを返すためでもあるが、今は必要なさそうか」
しばらくして、落ち着いた様相に戻っていた。仮想世界でもそうだったが重原君は調査することが多い。目標へ向けて自分を派遣する、経験の差が活動量の差となったのかもしれない。
間近で相対すると身長の差がよくわかる。拳の大きさも腕の太さも一回り違う。指を開いた形で利き手を差し出してきた。僕もまた手を伸ばす。
「改めて初めましてだな。これからよろしく、蓮」
「よろしくお願いします、重原君」
応じ方はとっくに決まっている。2度目の初対面。現実的な人肌の温度と容易く解けない握り方が、初遭遇と矛盾した信頼感の厚さを示しているのだと思う。
バイトに取り組み始めてから3週間。弁当代は十分に稼げて、一緒に食べられる友達候補ができた。屋上に入れるかどうかは先生次第。道半ばでも立ち竦んでいた去年と比べて十二分の進展具合だった。
現実のどこかにいる虫さんからの系譜を思い返す。職員室へ引っ張られ、仮想世界へ引っ張られ、非現実へ引っ張られる。そのたびに視界が晴れやかに広がっていった。
僕は誰かを導くことができるのだろうか。憧れを誰かに還元したい、願いが心の底から聞こえた。
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