第43話 大人たちの夜

 大衆居酒屋のカウンターに、ひとりの女性が座っていた。美しい容姿を持つ彼女、歌原由美は、すでに半分ほどなくなっているビールを呷った。


「なあ、あそこにいる女……」


「うおっ! めっちゃ美女……! 声かけてぇな」


 その容姿に加え、酒を呷る姿はどこか艶めかしく、店内にいる男たちの視線が集まるのは無理もないことだった。


「わりぃ、待たせた」


 そんな歌原の隣の席に、やたらとパンクな格好をした女が腰掛ける。ダメージパンツに、ショート丈のレザージャケット。首には太めのチョーカーをつけており、顔、特に目元には、鋭い印象のメイクが施されていた。


「お疲れ〜。元気してた?」


「毎日元気なガキどもの世話で大変だよ。まったく、勘弁してほしいもんだ」


「またまたぁ。そんなこと言って、アキラはいつも楽しそうにしてるじゃん?」


「……まあな」


 店員を呼びつけた真宮は、生ビールを注文する。ついでに一杯目のビールを飲み干した歌原も、同じくビールを注文した。


「おいおい、ペース早くねぇか?」


「大丈夫だよぉ。私全然酔わないし」


「……そうだったな」


「ま、アキラはお酒弱々だし、早いって思うのも無理ないよね」


「うっせぇな」


 二人は同時に届いたビールで乾杯する。

 一口目を豪快に飲んだ真宮は、泡のついた口元を手の甲で拭い、歌原の目を見た。


「で、急に呼び出したわけはなんだよ」


「んー……なんか、青春が懐かしくなっちゃって」


「はぁ?」


 どこか寂しそうな表情を浮かべながら、歌原はジョッキの縁を指でなぞる。


「学校でさ、純くんの淹れたコーヒー飲んだんでしょ? どうだった?」


「ん? ああ、美味かったよ。お前が昔淹れたコーヒーによく似てた」


「ふーん……」


「それがどうかしたか?」


「うーん、まあ、いろいろ思うところがある感じ」


「なんだそりゃ」


「純くんって、本当にすごいんだよ。ちょっとのアドバイスでみるみるドリップの技術が上がっていくし、本当にコーヒーのことが好きだから、毎日びっくりするくらいひとりで練習してるみたいだし」


「……昔のお前みたいだな」


 真宮が呆れ気味にそう言うと、歌原は照れ臭そうに頬を掻いた。


「似てるからかな。純くんのことは、すごく応援したくなるの。でも、追いつかれちゃったら、それはそれで悔しいじゃない? だから最近の私はすごく複雑な気持ちなんです」


「……またまた。あいつの成長が嬉しくてたまらないって顔してるぜ、お前」


「あ、バレた?」


 見事にカウンターをもらった歌原は、くすくすと楽しそうに笑う。


「悔しいっていうか……純くんの巣立ちのときが近づいてきている気がして、寂しいんだよね。私と同じ淹れ方をする子だからこそ、うちの店で一緒にやっていきたいんだけど……」


「そりゃ難しいだろ。あんだけ向上心のあるやつは、どう考えても誰かの下に収まるタイプじゃねぇ」


「お、よく分かるねぇ。私も同意見」


「舐めんな。こっちは教師だぞ。……神坂もそうだ。二人とも、どんどん上に進んでいけるタイプだよ。しかもそんな二人が仲良くお互いを高め合ってるんだ。あたしらが何をしたって、あいつらは止まらねぇ。何もしなくたって勝手に成長してくれるんだから、こっちとしては楽なもんだ」


 教育者としてあるまじき発言だが、真宮が誰よりも生徒想いであることを、歌原は知っている。憎まれ口の多い彼女だが、歌原から見ても、生徒たちから強く慕われていることは丸分かりだ。自分の親友が素晴らしい教育者であることを、歌原は心の底から嬉しく思う。


「きっといつか……純くんはたくさんの人に愛されるお店を開くと思う。たくさん人と触れ合えば触れ合うほど、人を想うっていうのがどういうことなのか、純くんならちゃんと分かるはずだから」


「……はっ、らしいこと言いやがって」


「これでもあの子の雇い主ですから」


 歌原はえっへんと胸を張る。真宮は、歌原の言う『想い』というものをよく分かっていなかった。ただ、生徒たちに向けるこの愛情が、その『想い』に近いものであることは理解していた。


「……にしても、いいよなぁ……あいつら絶対両想いだろ。あたしなんてこの歳になっても男日照りだってのに」


「そんないかつい格好してるから、男の人が寄りつかないんだよぉ」


「ほっとけ。これが好きなんだよ。……つーか、じゃあお前にはなんで男が寄りつかねぇんだよ。まともな格好してるのに」


「私は作らないだけだって! もうコーヒーっていう旦那様がいるしぃ」


「言い訳すんな。恋人がいない時点であたしらは同類なんだよ」


「やだやだ! 絶対私のほうがモテる!」


「モテるモテないの話じゃねぇだろうが!」


 ギャアギャアと言い合いをする二人。

 この関係性は、高校生の頃から何も変わらない。


「はぁ……どうすんだよ。このままじゃ高校生に先越されるぞ」


「もう越されてるよ……今頃告白でもしてるんじゃない?」


「なっ……マジかよ」


「純くんは自分の気持ちに気づいてない感じだったけど、少なくともしずくちゃんのほうはやる気満々だったからね。いいなぁ……青春だよねぇ」


 二人揃ってため息をつく。そんな二人とは対照的に、店内は多くの客によって賑やかさを増し始めていた。


「……相席居酒屋でも行くか?」


「ううん、今日はとことん二人で飲もうよ」


「そうかい。じゃあ、とことん付き合ってやるよ」


「ねぇ、アキラ」


「んだよ」


「さみしんぼ同士、同棲でもする?」


「……やだね。お前コーヒー以外はズボラだし」


「えー⁉︎」


「えーじゃねぇよ。絶対お前あたしに家事全部やらせる気だろうが」


「なんで分かったの⁉︎」


「顔に書いてあんだよ」


 バカにしたような表情を浮かべる真宮に、ムキになって駄々をこねる歌原。大人の夜は、まだまだこれからであった。

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