第41話 いつもの店
「……な、なんか言ってよ」
フリーズした俺に、しずくが声をかけてくる。
彼女の頬には、ほのかに赤みが差していた。彼女も間接キスに気づいてはいるらしい。
「いや、その、これはあの……」
まずい、言葉が出てこない。思考が巡りすぎて、口が空回る。何か言わなければ。そう思っても、言葉が浮かんでは泡のように消えていく。
「……ぷっ、あはは!」
突然しずくが笑い出す。状況を飲み込めない俺は、彼女が何故笑っているのか分からず、ますます混乱した。
「ごめんごめん、まさかそんなに動揺すると思ってなくてさ」
しずくはひとしきり笑ったあと、ゆっくり呼吸を整えた。
「……からかったな?」
「最近全然ちょっかいかけられてなかったからさ。あ、でも私だってちゃんと緊張したよ? 男の子と間接キスなんて、初めてだったんだから」
「俺だってそうだよ……」
顔が熱い。俺はおしぼりを頬に当てて、なんとかそれを冷やそうとした。
「純太郎って、彼女いたことないんだっけ」
「ないよ」
「彼女欲しいなーって思わなかった?」
「欲しくなかったわけじゃないけど……口下手だし、作ろうとも思えなかったな」
情けない話だが、そういうものは諦めていたのだ。
「……じゃあ、今は?」
「今?」
しずくは、真剣な目で俺に訊いてきた。
今の俺は、果たしてどうなのだろうか。自分の心なのに、分からない。
「……」
しずくと目を合わせる。
そうだ、何か、俺には向き合わなければならないことがある気がする。
◇◆◇
それから俺たちは、何軒かカフェを巡った。
楽しい時間だったと思う。しかし、お互いにどこか上の空だったというか、何か別のことについて考えていたというのは、否めなかった。
「……すっかり夕方だね」
茜色の空を見上げながら、しずくは呟く。
夏の暑さは少しばかり弱まり、若干の過ごしやすさを覚えた。ずっとこのくらいの気温なら夏も怖くないのだが、そんな理想はこの先一生叶うことはないのだろう。
「このあとどうしよっか? 私はもうちょっと純太郎と一緒にいたいけど」
しずくは、含みのある声色でそう言った。
「最後に……あと一か所だけ、行きたいところがあるんだ」
「それは?」
「いつものところだよ」
その言葉だけで、しずくは俺がどこに行こうとしているか気づいたようだ。何も言わず、彼女は俺の隣に立って歩きだす。
電車に揺られて都内に戻り、見慣れた神保町の駅で降りる。
いつものところと言ったら、当然それは喫茶メロウのことだ。歴史の詰まった外観は、穏やかな温かみを感じる。やはりこの店が一番落ち着く。
「あれ、今日はやってないんだ」
「ああ、用事があるってマスターが言ってた」
『close』の看板がかかった扉の鍵を、預かっている合鍵で開ける。中に入ると、しみついたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
「……しずく、あと一杯だけ飲めるか?」
「え? う、うん……全然余裕だけど」
「じゃあ、ちょっと座って待っててくれ」
俺はしずくをいつもの席に案内したあと、カウンターに立った。
カウンターには、すでにコーヒーを淹れるための準備が整っていた。
歌原さんの仕業だろう。店を休みにしたのも、俺たちを気遣ったに違いない。
「……ここに来ることもお見通しってわけか。ははっ、ありがたいな」
小さく笑いをこぼし、お湯を沸かす。
俺は今、不思議な感覚を覚えていた。意識が研ぎ澄まされ、いつもより視界が広くなったような。
ほどよい粗さに挽いた豆をドリッパーに乗せ、上から細く細くお湯を注いでいく。
何度も何度も、何度も何度も何度も、毎日欠かさずコーヒーを淹れる練習をした。とは言え、たった一年とそこらという時間。人に淹れた経験も少ない。歌原さんと比べれば、まだまだひよっこもいいところだ。
だけど、他ならぬしずくを満足させるのは、俺がいい。俺じゃないと嫌だ。たとえ歌原さんが相手でも、しずくの一番が欲しいのだ。
三分のタイマーが鳴ると同時に、俺はお湯を止める。
これ以上ないと思うくらい、完璧なドリップだった。
「よし……」
そして俺は、コーヒーをちょっとした工夫を施したカップに移す。
「悪い、待たせた」
そう言いながら、俺はしずくの前に淹れたてのコーヒーを置く。
コーヒーのいい香りが広がり、彼女の頬がわずかに緩んだ。
「……いつもこの店で飲むコーヒーと同じ香りがする」
「しずくのことを想って淹れたコーヒーだ。飲んでみてくれ」
「……いただきます」
そうしてしずくは、カップに口をつけた。
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