第37話 初デート

「……うーん」


 俺は鏡に映った自分の格好を見て、首を傾げた。

 今日はしずくと水族館に行く日。

 この日のために、俺は新しい服を買ったのだが……。


「Tシャツ一枚よりはマシ、だよな……?」


 鏡に映った自分を見て、不安な気持ちがこみ上げる。

 黒のインナーの上に、グレーのセットアップ。普段洋服に無頓着な俺が、ない頭を振り絞って選んだ、余所行きの格好である。

 歌原さんから「ちゃんとオシャレしていくんだよ〜」とアドバイスをもらい、その通りに努力してみたはいいのだが、若干張り切りすぎているようにも思えてしまって、家を出る前から恥ずかしくなっていた。


 ――――覚悟を決めろ。


 これ以外まともな服なんて持ってないし、今から別の服を欲しがったって間に合わない。

 しずくとは毎日のように顔を合わせているのに、改まって会うことになると、どうしてこうも緊張するのだろう。

 やけにそわそわする体をなんとか動かし、俺は忘れ物がないか何度も確認したバッグを背負って、家を出た。



 待ち合わせは、朝の十時。向かう先は、横浜にある六景島シーパラダイス。九時三十分。早く着きすぎたと思いながら、俺は六景島シーパラダイスの最寄りである六景島駅から外に出た。


「……え?」


「あ」


 俺はすぐに気づく。

 白のオフショルダーに、黒のショートパンツ。キャスケットとサングラスで素顔が隠れているが、彼女は間違いなく神坂しずくだった。


「お、おはよう、純太郎」


「おはよう……やけに早くないか?」


「そっちこそ。まだ三十分前だよ?」


「……なんか、落ち着かなくてさ」


「分かる。私も」


 お互い様だったようで、俺たちは顔を見合わせて笑った。

 

「せっかく早く集まれたし、もう行っちゃう?」


「開いてるのか?」


「うん、開園は九時だから、入れるはずだよ」


 それならば、と。

 俺たちは並んで六景島シーパラダイスのほうへ歩き出す。

 周囲には、俺たち以外の観光客もちらほら見られる。芸能人と歩いているということもあり、どうしても彼らの視線が気になってしまった。


「大丈夫。堂々としてれば案外気づかれないもんだよ」


「そういうもんか……?」


「そういうもんだよ。コソコソしてる人のほうが、意外と注目を浴びやすいんだから」


 しずくはドヤ顔でそう語った。

 本人が言うなら、それがすべてなんだろう。俺は極力周りを気にしないよう努めることにした。


「ま、別にバレたっていいのさ。私はアイドルってわけじゃないし、彼氏といるところを写真に撮られたって、何も困らな……」


 そこまで言って、しずくは言葉を止めた。

 

「いや……彼氏っていうのはその……」


「……?」


 しずくは目を逸らし、指遊びを始める。

 今の例え話に、おかしな点でもあったのだろうか。妙に気まずそうだ。


「気にしてるの私だけか……純太郎、そういうとこあるよね」


「なんの話だ……?」


「まあいいや! ほら行こ?」


 俺の手を掴んだしずくは、そのまま入り口のほうへ駆け出す。

 手汗がしずくを不快にさせないだろうか? そんな不安のせいで、俺は一瞬夏の暑さを忘れた。



「おぉ〜」


 水槽の中を泳ぐ数多の魚を見て、しずくは目を輝かせた。

 青く澄んだ水の中は、とても美しく、涼しげで、見ているだけで心が洗われていくようだ。

 この中で泳げたら、どれだけ気持ちがいいだろう。夏の暑さに無関心な魚たちが、少しだけ羨ましく思えた。


「なんか面白いよね、こんなにたくさんの種類の生き物が、同じ場所で暮らしてるってさ」


「確かに……自分とは違う魚のこと、どう思ってるんだろうな」


「うーん、なんとも思ってなさそう」

 

 魚たちは、近くに違う種類の魚がいるのも構わず、すいすいと優雅に泳いでいる。自分を襲わない生物には、とことん無関心といった様子だ。


「人間もこんな風に生きられたらいいのにね」


 ため息をつきながら、しずくはそう呟いた。

 しずくの目は、水槽越しにこれまでの人生へと向けられているように見えた。楽しいことも、嫌なことも、数え切れないほどあったのだろう。

 人が他人に無関心でいられたら、きっとしずくは傷つくこともなかった。しかし、その苦しみがなければ、何かを成し遂げることもできなかったのだろう。

 どちらがよかったのかなんて、俺にはまったく分からないけれど、少なくともしずくの表情は、後悔しているようには見えなかった。


「純太郎は、いつか自分のお店を開きたいとか、考えたことある?」


「突然どうした?」


「んー、なんとなく?」


「……あるよ。毎日妄想してる」


「へぇ! ちょっと意外」


 恥ずかしい話だが、店内図を妄想してノートに描いたことがある。

 メニュー表を作ったこともあるし、今でもどんな豆を置こうか考えることはしょっちゅうだ。


「いいね、自分の店。努力家の純太郎なら、きっといいお店が開けると思う」


「しずくにそう言ってもらえると、なんだかできそうな気がしてくるから不思議だよ」


 しずくは俺に対して、まったくお世辞を言わない。

 今の言葉も俺に合わせて言ったわけじゃなく、本気でそう思ってくれたからこその言葉だと思った。


「そうだ、いつか私が芸能界を引退したら、純太郎のお店で雇ってくれない?」


「もちろん、しずくなら大歓迎だ」


「やった。約束だよ?」


 嬉しそうに笑ったしずくは、俺の肩を優しく小突いた。

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