第2話 安らぎの時間

 しばらくの間、店内には控えめなBGMと、降りしきる雨の音だけが響いていた。

 神坂はおもむろにカップを手に取り、口をつける。


「美味しい……なんだかホッとするね」


「よかった。俺もこの店のコーヒーが一番のお気に入りなんだ」


 偶然この店に入った時から、俺はずっと歌原さんの淹れるコーヒーに心を奪われていた。

 自分でも同じように淹れてみたい。

 その一心でバイトの募集にまで飛びつくなんて、陰キャにしてはよくこんな行動力を発揮できたものだと言いたくなる。


「にしても、よく俺のこと覚えてたな。一緒のクラスになってから大して時間経ってないのに」


「そっちだって、私のこと知ってるじゃん」


「そりゃ……有名人だからな」


 高校一年生の頭にモデルとしてデビューした彼女は、瞬く間に売れた。

 今じゃ様々なコンテンツに引っ張りだこ。

 まだ幅広い年代に名が知れ渡っているわけではないが、これからもテレビや雑誌に出続ければ、いずれは万人が彼女の存在を周知するだろう。


「まあ……そうだよね。有名だもんね、私」


 どこか諦めたように言いながら、神坂はコーヒーを口にする。

 

「――――仕事で何かあったのか?」


「どうしてそう思う?」


「有名だって言いながら、嬉しくなさそうだから」


「ふふっ……ちょっと露骨だったかな?」


 お茶目に笑った神坂は、一瞬視線をそらして、再び俺を見た。


「仕事は順調。毎日いろんな服を着られるし、雑誌の人も、テレビの人も、周りの友達だって、みんな私を褒めてくれる。お金も貰えるしね。……でも」


「でも……?」


「みんな私を芸能人みたいに扱い始めて……心無い言葉もぶつけられるようになって……日常が一気に変わってしまったことに、私自身がまだついていけてないんだよね」


 神坂は笑みを浮かべる。

 しかし複雑な感情が絡み合っているせいか、その顔は引き攣っていた。


「さっきまで簡単な撮影があったんだけど、急に知らない男の人から『お高く留まってんじゃねぇぞ!』って怒鳴られちゃった。スタッフさんの前では取り繕えたけど……なんか、一人で歩いてたら急に糸が切れちゃって」


「なんだよそれ……神坂は何も悪くないじゃないか」


「ありがと。そう言ってくれる人がいるだけで救われるよ」


 芸能人やインフルエンサーが誹謗中傷されるなんて話は、もはや日常茶飯事。

 ただ一つ言えることは、誹謗中傷は決して正当化されていいものではないということ。

 神坂が苦しむ必要なんて、どこにもない。

 

「でも、よかった。今日御影くんに会えなかったら、私モデル辞めてたかも」


「……」


「あ、冗談だけどね? ……多分」


 とても冗談には聞こえなかった。

 きっと神坂は、さっきまで本当に崖っぷちに立たされていたのだろう。 


「今は踏みとどまれたのか?」


「……うん、冷静になったら、やっぱり辞める必要もないのかなって。ここで辞めたら逃げたみたいになるし、それはそれでなんか悔しいし」


「……強いな、神坂は」


「え?」


「そこで踏みとどまれるのは、本当に強いと思う」


 俺だったら、多分逃げていた。

 苦しいことから逃げられるなら、逃げた方がいい。

 嫌な思いをしても立ち向かい続けるなんて、よほど強固な意志がないと不可能だと思う。


「……そんな風に言われたの、初めてかも」


 神坂が笑ったのを見て、思わず心臓が跳ねる。

 モデルの仕事をしている時の彼女とは違い、飾り気のない素直な表情。

 その普段のギャップも相まって、今の彼女はあまりにも魅力的に見えた。


「神坂は……そうやって笑ってる方が魅力的だな」

 

「へ?」


 神坂の顔がポッと赤くなる。


「お、驚いたよ……」


「え、何が?」


「教室にいる感じだと、もっと控えめな人かと思ってたからさ……女の子を口説いたりするんだね」


「く、口説く⁉ 悪い、そんなつもりじゃなくて……」


 慌てふためく俺を見て、神坂は噴き出すように笑う。

 コロコロと表情が変わるその様子に、普段のようなクールな印象はない。


「あははっ! いいよ、むしろ私はそんな風に言ってもらえて嬉しい」


 ひとしきり笑った後、神坂は腹を押さえながら呼吸を整える。

 笑顔になったのはよかったが、俺としてはちょっと不本意だった。


「ねぇ、御影くんのことも教えてくれない?」


「俺のこと?」


「うん。えっと……そうだな。このお店は君のバイト先なんだよね? いつから働いてるの?」


「高一の五月だから……ちょうど一年くらいだな」


「へぇ……なんかいいね、喫茶店のバイトって。ここに決めた理由とかあるの? コーヒーが美味しいからとか?」


「そうだよ。この店の味を自分でも淹れられるようになりたくて、弟子入り兼バイトって感じで雇ってもらったんだ」


 まだまだ修行が足りないけど――――。


 そう言いながら歌原さんのほうを見ると、彼女は俺たちに微笑みを返した。

 

「そうなんだ……次は御影くんが淹れてくれたコーヒーも飲んでみたいな」


「店が忙しい時しか俺は淹れないけどな……いつか任せてもらえるようになったら、その時は言うよ」


「ほんと? 約束だからね?」


 たとえお世辞であっても、俺に興味を持ってくれることが、少し嬉しく思えた。


「でも、ここのコーヒーは本当に美味しいね……苦いんだけど、それだけじゃなくて……深みがある? っていうか。難しいことは分からないけど、自然と体が欲しちゃう感じ?」


「分かるよ。常連さんもみんな同じこと言ってるし」


 喫茶メロウは、ほとんどが常連さんで回っている。

 一年働いてみたけど、新規の客は本当に珍しい。

 しかしそんな数少ない新規の人たちも、必ずと言っていいほどこの店の常連になっている。

 それくらい、ここのコーヒーは味わい深いということだ。


「私もまた来ていいかな?」


「もちろん。あ、その時はもう奢りじゃないぞ?」


「あはは、分かってるよ。私も次はちゃんと客として来たいしね」


 気がつけば、雨はもう止んでいた。

 本来ならば喜ぶべきところだが、神坂は何故か残念そうにしている。


「雨が弱くなるまでって話だったもんね」


「……そういえばそうだったな」


 俺が引き留めるために口にした条件を、神坂は律儀に守ろうとしていた。


「別にまだゆっくりしてていいんだぞ? 多分マスターも許してくれるし」


「ううん、大丈夫。お金も払ってないし、これ以上いたら申し訳なくなっちゃうからさ。それに……気持ちもすっきりしたしね」


 そう言いながら可愛らしくウインクをする姿は、神坂が人前にいる時のそれだった。

 どうやらすっきりしたというのは本当らしい。


「ちなみにさ、御影くんのシフトはどんな感じで入ってるの?」


「ほぼ毎日だ。学校終わったらすぐにここに来てる」


「そうなんだ。じゃあいつ来ても会えるってことだね」


 笑みを浮かべた神坂は、鞄を持って立ち上がる。


「ご馳走様。……絶対また来るからね」


「ああ、待ってるよ」


 神坂は歌原さんのほうにも礼を言った後、喫茶メロウを後にした。


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