54 知らない花のつぼみ

 ルイもまた、パティとおなじようなことを考えていた。

 脳裏には複雑な感情がうずまいている。

 ニーナの魔法を成就させることと、自分たちが呪縛から解放されることは、共存しえない。 

 とても歯がゆい気持ちがしていた。まるで遠くの空をとぶ鳥の名まえを思いだそうとしているみたいに――。


 目を閉じて、しばらくしてから開けると、ニーナの記憶の情景は消えて、暗転した舞台にスポットライトがあたるようにしてニーナがいた。


 ひざをそろえて岩に腰かけ、うつむいているが、まるでひだまりのなかで休んでいる女神のようにもみえる。

 おだやかな顔つきだったが、無表情にもみえ、それは淋しさの顕れだろう。

 ニーナがなにも話さないので、ルイは語りかけることにした。


「……私はあなたの行動とか、ものの考えかたとか、きらいじゃないわ。ほんとうに不器用で、ときに浅ましいところもあるかもしれないけれど、だからこそ、素直でうそがないから。自分を必要以上に飾りたてていない。だれだって窮地においては、卑怯になったり臆病になったり、ときに薄情でむごいことを考えたり、してしまったりするものだと思うの。そういう人の心のほの暗さを否定することってやっぱりできないし、そもそもあなたのように、弱さを弱さとして自覚できるって、じつはけっこう難しいことなんじゃないかしら――」


 ニーナは目をふせてすましている。

 まるでルイの声が聞こえていないみたいだったが、ルイはひとりごとでもかまわないと思った。じっさい独白のようなものだったから。


「きっとだれだって、そのときそのときで、ものごとの優先順位は変わったりするし、ほんとうに大事なものがなんなのか、最後の瞬間までわからなかったりすることもあるのよね」


 ルイは目を細める。


「あなたは人魚のなかに入ることで助かってしまった。そして、それゆえに淋しさが増して、恋人の行方をもとめるようになった。それってべつにおかしなことじゃないもの」


 ニーナは身じろぎひとつしない。まるで時間の概念が欠落しているみたいに。

 ルイはニーナから目をそらす。


「――結果的にまわりの人に迷惑をかけてしまうし、ただの身勝手なのかもしれないけれど、だれだって多かれ少なかれそうだし、それにあなたはそもそも、自己の救済のために歌をうたっていたのよね」


 ニーナは坐っている岩塊と一体化した彫像のようだった。

 ルイはまるで自分が歌を披露しているような気分になっており、言葉が自然と口からあふれてしまっていた。


「でも、あなたの歌には影響力がありすぎて、私たちはあなたの恋人の代わりに、ここに呼びこまれてしまった。ここは私たちがいた現実の世界にとても似ているけれど、あなたの魔法の世界なのかしらね……」


 ルイはみずからの両手をみる。


「きっとそういうことができる人もいるのよね、私には無理だけれど」


 ルイはニーナをみつめる。


「希望は知らない花のつぼみみたいなものだから。そのせいで……あなたのとなえた魔法の歌は、現実の――私たちの生活圏にまで、まるで波紋のようにどこまでも遠く広く反響して、内海にいた私たちを捕らえてしまった。きっとそうよね」


 それを指摘しなければならないことは、ルイにとってもつらいことだった。

 悲しみの言葉を口にせずに済むなら、そのほうがいいに決まっている。

 何度かつばを呑みこんでから、ルイはつづける。


「それでも――ここにも、そうどこにも、エドバルドはもういない。あなたにわざわざ断言することではないのかもしれないけれど、彼は還らぬ人になったのよ。このあまりにも大きく深い海のどこかで……」


 ニーナが反応しないので、ルイはもじもじする。


「それとも、あなたはもうわかっていて、そんなことは承知のうえで、心に巣食う悲しみを切りとって、どこか遠くに分離するために歌をうたっていたのかしら……。あなたは芸術と感情をべつのものとしてあつかえる人だったみたいだし」


 ルイは胸にたまった息を吐く。

 理解者であろうと努めるつもりが、痛みを示して糾弾しているみたいになってしまった。


「あなたはとても強い精神力を秘めた人だわ。望むつよさなら、きっとだれにも負けない。だから、果てしない魔法の歌でもって、来世とかそんなものがもしあるのなら、あなたは恋人とふたたびいっしょになれたりするのかもしれない。あなたの呼びかけはそれぐらい遠くまでとどきそうだから……」


 ルイはうつむく。


「だれもが報われない人生のなかで、しあわせだったできごとを大事にして生きている。私がのぞいたあなたの記憶にも、そういうものが詰まっていた。私はまだそこまでの思い出をつくることができていないし、もしかしたら最後までそういう経験はできないかもしれない。だから……なんていうか、思い出を大切にしたいなら、それでいいと思うの。私は否定しない。何度も思いだしてしまう過去があったり、しがみついてしまう思い出があるって、ほかのだれに意味がなくても、当人にとっては、そのとき精一杯生きたっていう証拠でしょう……?」


 ルイはしゃべりながら混乱してきた。

 口がべつの意思をもっているみたいに制御できていないが、それはそれでいいと開き直っている気持ちもある。

 ルイは息を吸いこむ。最後の一息のつもりだ。


「そう、やめてほしいとは言わない。あなたの希望をうばいたいわけじゃないから。それにだれかのためであろうと、自分のためであろうと、高らかに歌うことができるって、すてきだと思う。だから、少しだけ――ほんのわずかな時間だけ気持ちを抑えてほしいの。あなたの想いはつよすぎて、私たちをあなたの世界にがんじがらめにしてしまっているから。私たちには、私たちの人生が必要なの。あなたがみつけたような、それにすがって長い旅をつづけていけるようなものを、私たちもさがしだしたいの――」


 ――すると、ふいに左腕をなにかにつかまれて、ルイはひゃっと悲鳴をあげてしまった。

 男性の手で、わりと握力があり、それにより必死さがつたわってくる。あとで腕をみれば、赤い痕がついているにちがいない。

 しかし、ルイは安堵のあまり叫んでしまった。


「ディレンツァね!?」


 すると、なにもない空間を切り裂くようにして、ディレンツァが身をのりだしてきた。

 深いやぶから顔をのぞかせたようでもある。

 しかし消耗しているのか、顔つきはきつそうだ。


「手をつかめ」とディレンツァは、けわしい顔をさらにゆがめてルイの腕を離す。

 ルイはあわててしたがう。

 ディレンツァはまるでロープをたぐりよせるかのように、ルイの手をひっぱった。


 現実につれもどされるさい、ちらりとふりかえってみたが、ニーナは姿勢をくずすことなく、うつむいたままだった。


 目は最後まで合わなかった。

 ニーナがルイを認識していたのかどうかが、ルイには判然としなかった。

 ただ去りゆく馬車に手をふるような感覚だけが胸懐に残った――。

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