49 困惑のほほえみ
まったくもってエドバルドはとっつきにくい人物だったが、すがたをみかければニーナは語りかけるようにした。木彫りの鳥についてはふれないで、天候のことや音楽活動のこと、音楽院での思い出など、あたりさわりない話題につとめた。
エドバルドはそのたびに頬をそめたり、病的に発汗したり、そわそわしたり、きょろきょろしたり、ハエのように手をもみあわせたりした。
それでもやがて、ぽつぽつと返事がくるようになった。
エドバルドにとっては、音楽活動がいちばんの関心事だった。
よってエドバルドは院出身の若手音楽家だけのサロンに所属していた。
エドバルドが親しく接する仲間はつねに少数だったけれど、そこに出入りしているときだけ、エドバルドはときに饒舌になるのだと聞いて、ニーナは土曜日の昼間だけそこに参加することにした。
女性参加者の少ないサロンだったので、内気で社交性もないニーナが自発的に参席したことに同級生や母親たちは耳をうたがった。
なにより、そこがどちらかといえば進取的な議論をかわすことを目的とした硬派な会だったということもある。
しかし、参加者のだれもニーナを指弾しなかった。
ニーナもまた、音楽理論等についての専門的なやりとりのほうが、日常会話よりも上手にできたからである。
エドバルドはいつもフロスとレポロという二人の青年とグループを形成していた。
フロスは温順な性格でエドバルドの庇護者であろうとつとめるタイプで、レポロはやや居丈高だがエドバルドの才能をみとめており、議論が白熱してくると高姿勢にもなるが、決して憎めない人物だった。
なにより二人とも、ニーナの存在をうとんだりしなかった。
「独創性だと思うね、オレは。とにかくそれが最重要だ」
レポロがひとさし指をたてて決めつけると、フロスはほほえみ「不羈奔放なスタイルと伝統的なセオリーは合致するものかな?」と問いかけ、エドバルドがくせ毛をかきむしると、ニーナが「でも私たちが習得している音楽の種類は、ゆびおり数えても5つあるかどうかだと思うの。旧いものや諸民族の独自形式をほりさげればどうなるか想像もつかないわ」とにこやかに指摘する。
それにレポロがかみついたり、フロスがなだめたりといった流れが延々とつづくのである。
エドバルドも口下手だが、ときに独特の持論などを展開し、愉しんでいるようだった。
影ではいろいろ噂されているようだった。
それは同世代の同姓たちの特性をもってすればいたしかたないことだったので、ニーナはだれに対してもいままでどおりの対応をした。
要するにつねに微笑し、礼節を重んじたのだ。
エドバルドの現在の評判と未来の声望だけをみこんで接近したというこころない言葉もあったが、ニーナ自身も将来性という意味では非凡なものをもっていたので、やがてその手のあざけりは聞かれなくなった。
いずれ二人にとっては、周囲の意見などどうでもいいことだった。
そもそも二人を結びつけたものは音楽的な素養ではなく、木彫りの鳥だったからだ。
やがて、二人で過ごすことに違和感がなくなった頃、ニーナはふたたびエドバルドのポケットの中身について訊ねた。
「――厳密にいえば、みみずくなんだ。ふくろうじゃなくて」
エドバルドは頬をそめながら答えた。いかにも照れくさそうだった。
秘密を暴露するときの焦燥がひたいにしわを刻んだ。
「祝祭市でみつけたんだ。名まえもつけてる。これは秘密だけどね」
エドバルドは嘲笑をおそれるように微笑した。
「コートのポケットに入るからいつも携帯してた。なでていると緊張がやわらぐんだよ。そのせいで耳が削れてふくろうみたいになっちゃったけれど」
ニーナもほほえむ。
そのせいかエドバルドの瞳に安堵の光がともる。
秘密の告白で、気味悪がられなかったことに対するよろこびだろう。
「初めて大勢のまえで演奏したときも、こいつのおかげでがんばれた。それ以来ずっとお守りみたいなもので、こいつをなでるのがステージにでるまえの験かつぎみたいになってるんだ」
エドバルドは耳のとれたみみずくをとりだして手のひらにのせた。
ぎょろ目なのにうっすら笑い顔にみえるみみずくを二人でみつめる。
ニーナはほくそ笑む。
最後は少しかっこつけたにちがいない。
お守りや験かつぎという意味だけではなく、結局のところいまでも友だちなのだ。ニーナにとってぬいぐるみたちがそうであるように。
ニーナにとっては、この共通感覚がすべてだと思えた。
たとえ出自や趣味がおなじであっても、このたったひとつの価値観の合致が味方であるためのすべてだった。
見た目がちがっても、おなじ匂い、おなじかたちをした影なのだ。
ゆるやかに時は流れ、エドバルドもニーナも30目前になった。
エドバルドの音楽活動は順調で、作曲家としての評価も耳目をひいていた。
そのせいもあってか、時間とともに二人をめぐる環境はうつり変わってきていた。
まず毎週のように参加していたサロンで過ごす時間がほとんどなくなった。
レポロやフロスは結婚し、それぞれの道をあゆんでいた。
レポロは楽器を置いてペンをとり、音楽評論家になって新聞や雑誌への寄稿をおこなうようになり、その辛辣で歯に衣着せぬ批評で名を売り、やがて辛口の音楽誌を発刊し、編集長を務めた。
フロスは演奏家として、王都の主要交響楽団でチェロを担当した。
のちに主席演者となり各国の楽団で客演も務め、晩年には小規模な管弦楽団を率いて演奏旅行をして暮らした。
ともに顔を合わせば、笑顔で会話をかわす仲だったけれど、レポロはちょびひげを生やしていたし、フロスはつねに鹿爪らしいスーツを着るようになった。
そういった変容はエドバルドにもおとずれた。
エドバルドにも相応の社会的対応が要求されたのである。
それは著名な人物からの作曲依頼であったり、高雅な会場での演奏会の招待だったり、その両方だったりした。
しかしニーナの目からみると、やんごとなき殿上人や、窈窕たる貴婦人によって公の場にひっぱりまわされているエドバルドは、あきらかに神経衰弱になっていた。
作曲依頼のしめきりであったり、演奏会の日どりがせまると、エドバルドは不眠になり口数もへり、目の下に濃いクマをつくった。
まるで、ふくろ小路に向かって歩いているみたいだった。
レポロは「それは名誉のうらがえし」だと説き、フロスは「優秀な人間だけの通過点」だと話した。
エドバルドの臆病さ、世慣れなさを知っているフロスは目を細めながら、「もちろん作曲家として名をあげるだけが人生じゃない。エドバルドがそれを望まないのであれば、その隘路からは逃れられる」と助言した。
しかし、暗い部屋でひざをかかえているみたいにエドバルドが無言だったので、ニーナはその背中をみつめることしかできなかった。
やがて、エドバルドに有力な後援者が出現した。
中央商工会の理事で、残念ながら芸術的素養にはとぼしかったが、屈託なく豪快に笑う好人物だった。
パトロンはエドバルドの大成を祈念し、ひとつ演奏するごとに財貨をわけあたえ、平民出身だったエドバルドはまたたく間に資産家の仲間入りをした。
エドバルドが経済的に富むにつれ、交流階層もあがっていき、名はさらに知れわたり、やがてエドバルドに名誉貴族の称号を付与しようという動きが高まった。
そして、エドバルドに最後の人生儀礼が提案された。
それは王都海軍の遠征に従軍楽師として参画するというものだった。
目的地は火の国の外海であり、征旅期間は一年だった。
火の国はいわゆる紛争勃発地域だったのでニーナは青くなったが、「なに、かたちだけさ、かたち。たまに適当に慰安演奏するだけでいいんだよ。それにエドバルドは軍役についているわけじゃないから、臨戦するようなこともまずない。海軍は洗練されているから、たとえば海賊や非正規軍なんかに奇襲されたって負けることはないよ。竜? それもないな。この10年そんな話は聞いたことがない」とパトロンは笑った。
「名誉称号を得るためのきっかけづくりさ。すぐれた作曲だけだと箔がつかないからな。軍属してくれれば推薦しやすいし、なにより頼りないエドバルドだって見直されるところもでてくるさ。ほら、気が弱いところがあるからな――」
ほかにもいろいろ話していたが、ニーナはよくおぼえていない。
それが功名心にもえる人物であるならば、本来なら願ったり叶ったりというところだろうが、エドバルドにはどんな理由があったとしても、従軍楽師という役職はいちじるしく不適格と思われた。
それでもパトロンは、エドバルドの意思やニーナの意見はとりいれることなく着任を申請してしまい、当然ながら許可がおりた。
目まぐるしい日々において、二人で相談する時間はあまりとれなかった。
それでもニーナは、猫背のエドバルドが桟橋で川面にうつむいているところや、王都のすべての三角屋根が茜色にそまる夕暮れに、広場のまんなかでぼんやりと雲をみつめているさまをみかけた。
そのたびにエドバルドの本音を聞きだし、もっといえばニーナの本心をつたえたいという衝動にかられたが、ニーナは結局言葉をうしない、そばに寄り添うにとどまった。
そして、川の流れにすけてみえる藻のかたまりや、夕べの雲のかたちをぬいぐるみたちにたとえて、なんでもない四方山話をするしかできなかった。
エドバルドはいつも、うっすらほほえんでいた。
ルイは思う――だれもが困ったときにも、ほほえみをうかべることがあるのだ。
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