48 ほんとうの友だち

 幼少期からニーナはひっこみ思案で、いつでも母親のうしろにかくれている少女だった。

 父親が高階級の海洋調査官で自宅には来客も多かったが、来客から年齢を問われても、答えることもできないくらいだった。

 みんなが一様に笑顔で接してくれたが、そうであればあるほどニーナはおとなしくなってしまった。


 両親も寛大なほうだったが、「これは内気でね、愛嬌がなくてこまる」と父親はいつも来客に苦笑しながら話した。

 それにより余計に、ニーナは他者に尻ごみするようになってしまった。

 生活圏には母親、メイドと執事くらいしかおらず、まさに箱入り娘だったといえる。


 母親にはうやうやしい紋きり型の言葉づかいや礼儀作法、一辺倒の芸術観の習得や器楽演奏の基礎、諸国の歴史といった貴族のたしなみを教えてもらったが、父親とはあまり会話がなかった。

 父親については、制服の肩口とえりでぴかぴか光る階級章がなんだかこわかったというおぼえだけがつよい。


 6歳になって王立音楽院に通うようになっても友だちはあまりできなかった。

 要領よく自己を披瀝できない性格から、学院ではにこにこほほえんでいるのが精一杯だった。

 笑顔の仮面をかぶったおかげで孤独になることはなかったが、あまりここちよくはなく、むしろ窮屈な日々だった。


 バイオリンと声楽を専攻していたので、もっぱら練習室に閉じこもることで気持ちをまぎらわせていた。

 音楽にたずさわっているときは、外界を気にせず没頭できた。

 学院時代の同級生たちとは、卒業後にニーナが新鋭のソプラノ歌手として評判になっても、一定の距離をたもち、深いかかわりをもつことはなかった。

 上流階級の詮索好きで影口好きな同級生たちとは、いつまで経ってもうまく話すことができなかったのである。

 じつに20年近く、ニーナはそんな仮面をかぶって暮らした。


 ニーナにとってのほんとうの友だちは、ぬいぐるみだけだった。

 クマや犬、猫やうさぎにかぎらず、鳥や魚類や架空の動物まで大勢いた。

 すべて両親が買いあたえたものだった。たくさんのぬいぐるみのすべてに名まえがついていた。

 そして、ニーナが真夜中に本心を吐露できるのは、そのぬいぐるみたちだけだった。

 だから、だれにも話すことなどできなかったが、ニーナがエドバルドに関心をもったのは当然の帰結だった。


 そのとき、ニーナは25歳だった。

 王立音楽院はとっくに卒業しており、そのあいだに恋愛経験もなく、当時の上流階級の社会通念からすると、ニーナはすでに晩熟を通りこして、両親の悩みのたねですらあった。


 声楽において才能が開花してしまい、特定の異性とかかわりをもつことをきらうニーナは、音楽活動に逃げるようにして、両親のおせっかいを迷惑がり、断固としてしりぞけつづけていたためなおさらだった。

 同姓の友人すら敬遠してしまうのだから、異性など忌避の対象となるに決まっていた。

 したがって、ニーナにとっての興味は、エドバルドの男性性に対するものではない。


 それはほんの偶然だった。

 王立第二音楽堂にて定期開催されている夜会の終盤でのことだった。

 すでに何度も出演し、耳の肥えた客層にも信頼を得ていたニーナは、舞台裏で出番を待っていた。


 人前はあいかわらず苦手だったが、環境に慣れることでどうにか理性は保てていたし、一度舞台に立ってしまえば旋律に身をゆだねて声をだすだけだったから、ニーナは両手を閉じたり開けたりしながら、緊張をまぎらわせるべく、歌う詩の意味を考えたりしていた。


 その夜は女神信仰教会関係者が来賓として招かれていたため、作曲家フランツの変ロ長調のミサ曲を予定していた。

 難易度の高い曲でソロもあったが、合唱隊のなかには面識のある同姓の歌手もいたのでこころづよかった。


 そんなふうに思っていたところに、まるでかかしのように舞台袖に佇立している人影が目に入った――。

 目をこらすと、ちょうど幕の向こうから光が射しこみ、それが男性だということがわかった。

 猫背なせいか背は低くみえ、頭髪がおそらく天性のくせだろうがぐるぐるにうずまいている。


 ちらりとうかがえた横顔とステージを盗み見るそぶりだけでも、その男性がナーバスになっているのがみてとれた。

 失礼ながら他者が神経質になっているさまを観察できたおかげで、ニーナは気がやすらいできた。

 そしてじっくりみていると、男性がおかしなしぐさをしていることに気づいて、はっとした。


 しかしそこで突然、仲間の歌手が耳もとにささやいてきた。


「エドバルドっていうのよ。音楽院では凄腕で有名だったらしいわ。私たちより二学年下だったの。知ってる? あのピアノの鬼教師ことマウリツィオ先生の愛弟子なのよ。バイオリンや管楽器なんかも巧いらしくて。将来性は確かよね、見た目はあれだけどね、ふふ」


 ニーナは目を細め、うすくほほえみかえす。

 どういう意味にとられたかわからないが、歌手はにっこりした。ニーナの苦手分野である。


 ニーナがエドバルドに意表をつかれ、それから感興をそそられたわけは、舞台袖で気もそぞろになっているエドバルドが、その手にふくろうみたいな形状の木彫りの置物をもっていたからだった。大きさは10センチくらいだろうか。


 エドバルドは絶えずそれを手のひらでころがして、ときどきみつめたり、ポケットに入れたりだしたりをくりかえしていた。

 だれかがそばにくると、すかさずポケットにかくした。


 だれにも気づかれないようにしているのは明白だった。

 エドバルドは出番がくると、右手のそれをスーツのポケットに入れ、舞台にでていった。

 緊張や不安からか足腰が硬直しており、あやつり人形のような不自然な足運びだった。

 それでも演奏終了後は拍手喝采の嵐だった。


(あれはふくろうにちがいない――)


 それからしばらく、ひっこみ思案のニーナも声をかけることはできなかったが、夜会や音楽祭でエドバルドのすがたを認めると、そんなふうに思った。


 平らな路地でさえ蹴つまずいてしまうようなどんくさい青年だったが、ニーナはつい目で追うようになった。

 エドバルドはつねに木彫りの鳥をもっていた。

 それを発見したのが自分だけだということを、ニーナはだいぶあとになるまで知らなかった。


 エドバルドの評判はうなぎのぼりだった。

 演奏能力も抜群だったが、なにより秀逸な作曲の才をもっていた。

 ピアノソナタにかぎらず、各種楽器の演奏曲や歌曲などもふんだんに書いているようで、演奏会のたびにエドバルドの持ち時間は長くなっていった。


 エドバルドはときどきニーナの視線に気づいているようだったが、目が合うとすぐにそっぽを向いたり、すごすごと退散したりした。

 ニーナだって人見知りなのだから、神さまのいたずらでもないかぎり、二人がそれ以上接近することはありえなかった。

 しかし、神さまは意外とすぐにいたずらをした。


 その日、夕暮れをすぎる頃に暗雲がもくもくとたちこめて空をうめつくし、午前中の風読みたちの予報に反して雨がふりはじめた。


 歌手としての活動をはじめてからも音楽院の練習室にいりびたっていたニーナは、講堂のひさしのもとで、ぽかんと口を開けたまま空を仰いでいるエドバルドを発見した。エドバルドも同様の目的で敷地にいたのだろう。


 おたがいに一人で、まわりにもだれもいなかった。

 周辺にはにわかに靄がたちこめ、ふりそそぐ雨で生活音もなくなり、ほんとうに世界に二人しかいないみたいだった。


 エドバルドは空をみつめながら、なにかに気をとられている感じだった。

 雨に節付けの着想でも得ているのかもしれない。

 背後からニーナが近づいても、エドバルドはふりかえらず、となりにならんでも気づきもしなかった。


 左手で束ねた楽譜をにぎり、右手はポケットにつっこんでいる。

 右手の動きで、木彫りの鳥をにぎりしめていることがわかった。


「ふくろうかしら――?」


 あいさつも自己紹介も失念して、ニーナは思わず問いかけてしまった。

 ずっと懸念事項だったせいで、無意識に声がのどからとびだしてしまったのだ。


 まわりにだれもいないことが大きかったかもしれないが、おそらくニーナはそのときすでに、心の深い部分でエドバルドを理解者だと認識しているようなところがあったのかもしれないと、のちのち考えたりもした。


 急に話しかけられたエドバルドはくせ毛が逆立ってしまうほどおののき、ふだんは細めていることが多い目を、まるでふくろうのように大きくしてニーナにふりむいた。

 全身がしびれているみたいにふるえている。

 となりにだれかがいて、ましてそれが女性だったからなおさら想定できていない事態だったのだろう。


 エドバルドの下半身は石化したらしく、上半身だけのけぞるようにしてニーナから逃げていた。

 目が泳いでおり、うっすら涙ぐんでさえいた。顔は上気し、こめかみには玉の汗がうかんできた。

 あらためてエドバルドも他者が苦手だという事実を確認でき、ニーナは余裕をとりもどし、うすくほほえんだ。


 しかし、それによって石化が解かれたらしく、エドバルドの口が半開きになり、わなわなふるえたかと思うと、急に半身をひるがえして雨のなかにとびだした。

 脚力は弱いらしく、どたどたした、まるであばれているみたいな走りかただったが、エドバルドの影はやがて靄のなかに吸いこまれて消えた。


 驚かせてしまった罪悪感よりも、価値観を共有できそうな人がいることの期待のほうが大きかったので、そのときニーナは安堵の表情をうかべていた。


 ルイもごく最近それとおなじ感情を経験していた。

 それは〈はずれの港町〉でジェラルドたちと合流したときに感じたもの――すなわち、ただの仲間ではなく、味方がみつかったという心の安息だった。

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