29 別れ道のない人生
悪い予感がしていた。
昨晩からの剣呑な空気は、どんどん色濃くなってきている。
このままいけば迷子になるとわかっている霧の谷を奥深くへ向かっているような気分だった。
なりふりかまわずつきすすむバドの背中を追いかけていくことで、自分もまた二度ともどれなくなってしまうのではないか――。
具体的な凶事も起きている。
デュアンが死んでいた。
思いだすだけで、まるで輪縄が頚のまわりに巻きついてくるような悪寒がトレヴァの首筋を走る。
もう終わりと仮定すれば(おそらくそうだろう)、デュアンたちとの行交は長くなかった。
だから、かれらとのきずなは、友好関係とか同士のまじわりというよりは、提携契約のようなものに近かったとトレヴァは思う。
住処と最低限の生活費を保証するかわりに、デュアンの仕事の片棒をかつぐといったものだ。
仕事といってもそれが(世間の注目をあびるような)派手なものだったりしたことは一度もなかったので、結果的には半端者たちの余興でしかなかった。
もちろん強盗や追いはぎなどがするような殺人や恐喝とは無縁だったことは行幸だった。
他者の一生が左右されるような悪事に手をそめないで済んだことは、トレヴァの精神にとっては救いだったといえる。
生きるために清濁あわせ呑むといったたぐいの選択肢なら人生経験のひとつとして享受していく覚悟でいるが、それは行為の規模にもよる。
そもそも、いまとなってはそんな心積もりはなくなりつつある。
どれだけ生活が落ちぶれても、トレヴァには捨てられない心がある。
〈鹿の角団〉のような連中の一派にはなれそうもないし、なりたくもない。
「人生にはさ――」
いつだったか、デュアンと二人で杯をかわす機会があったことをトレヴァは思いだした。
バドとトミーは店のすみっこでビリヤードに興じており、メオラは近くのテーブルで船大工たちと(いかさま)ポーカーをしていた。
「ん?」
夜の酒場はさわがしかったので、トレヴァは左耳をデュアンのほうによせる。
「人生にはさ、別れ道なんてものはないんだよ」
「ん……」
トレヴァは面食らう。
ずっと黙りこんでいたデュアンが急に観念的なことを話しだしたからだ。
デュアンの瞳はアルコールのせいなのか、もしくは感傷的な理由なのかはわからないがうっすらうるんでいた。
だが、そのときのデュアンが唯一、本来のデュアンの性質をうかがいみせたもののようにトレヴァはいまにして思う。
「ただの妄想さ」
デュアンはつづける。
トレヴァに聞こえていようがいまいが関係なさそうだったが、トレヴァはあいまいにうなずく。
「みんな、あとになってから、ああしてればよかったとか、ああなる可能性もあったかもしれないって考えたのを、別れ道だったって誤解してるだけだ」
「――そうかな」
トレヴァは考えてみる。
デュアンは、ななめうえの照明を見あげたトレヴァをみつめる。
「もうひとつの人生なんてありゃしない」
「……まァ、わからなくもないけど」
トレヴァは鼻をすする。
「でも、おれなんかはバドについてこなけりゃ、今頃自宅の立食パーティで上質なぶどう酒でも飲んで、貴族の令嬢たちと音楽に合わせて踊ってたかもしれないんだよね。それに、あまり迷わずに選んでしまったけど、バドについてくるか、こないかのときには、なんとなく別れ道はあったような気がしてるよ」
トレヴァが半分冗談めかして笑うと、デュアンは少しのあいだ黙りこんだ。
デュアンが手にしているグラスにそそがれた安酒に溶けた氷がゆらゆらとゆれる。
「どこにもないさ」
デュアンが小声でつぶやいた。
「え?」
トレヴァが身をのりだす。
デュアンは両目を見開き、鼻孔をかるくふくらませた。
「そんな人生、どこにある?」
ピエロのようにおどけた表情で、どこかトレヴァを小ばかにするような口調だったが、ふしぎとトレヴァは悪口をたたかれたようには感じなかった。
むしろ、そんな表情ができるデュアンに親密さをおぼえた。
そこから二人は果てしない貴族批判をくりひろげた。
かれらの多くが送っている無目的な人生を悪罵し、かれらの多くがしている驕奢なかっこうやセンスのない会話を嘲笑した。
どこからどうみても負け犬なのはデュアンでありトレヴァだったが、とても楽しい夜だった。
トレヴァはほろ苦い気持ちをかみしめる。
デュアンの人を魅了する独特の笑みや、ときどき海に真剣なまなざしを向けていた横顔などがふと脳裏をよぎる。
少なくとも、この世の世知辛さを思えば、デュアンだってトレヴァたちとおなじ苦痛を共有した同胞にはちがいなかった。
すると、トレヴァの肩にそっと手がおかれた。
驚いて目を向けると、ディレンツァが無表情でトレヴァをうかがっていた。
「考えすぎるな」
ディレンツァはそういうと、トレヴァから手を離す。
「……はい」
トレヴァは少しだけ安堵したような気がした。翌日の船出をまえに、風読みたちが明日は晴れだとつたえてくれたかのように。
「おーい、方角はどっちなの?」
すると、自然と足並みが落ちたトレヴァたちより先行していたルイとアルバートがふりかえり、手をふりまわした。
なんだかその動きがおもしろくて、トレヴァは思わず笑みをこぼす。
「さァ、行こう」
ディレンツァがさきをうながす。
トレヴァはうなずきながら、いま独りではない人生の選択肢について感謝したい気持ちになった。
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