12 どこにでもいるような顔
トレヴァは街道にしかれたふぞろいのひし形の石片の模様をみつめながら、別れてしまった恋人のことを思いかえし、甘くほろ苦い気持ちを味わっていた。
旅立ち直前の関係の破綻のときは苦々しいだけのできごとだったけれど、時間が経つにつれて(そしていまがつらければつらいほどに)当時のことさえもあたたかく回想できることがふしぎだった。
最後にみたのは、恋人の悲哀と冷淡さがまざった厳しい顔つきだったが、まぶたに浮かんでくるのは楽しく過ごしていた頃の無邪気な笑顔だった。
ふと気づくと、トレヴァは〈夕凪館〉の入口石段のまえに立っていた。
歩き慣れたコースだったので、自然にたどりついたのだ。
無意識に頬をゆるませていたため、甘酸っぱい感情が消えたあとも、その名残りが顔にはりついていた。
しかし思い出の美しさに反比例して、現状の厳しさはきわだっていた。
トレヴァはため息をついたあと石段をのぼる。
酒場内部はうす暗く(もっとも終日そうなのだが)、アルコールと体臭となにか生々しい匂いがいりまじった臭気がトレヴァの鼻をついた。
夕方以降、街じゅうの酒好きたちが集まるため、立錐の余地もないほど客が入れば5、60人は定員のある店だったが、営業時間を終えたこともあり、だいたいの客が帰宅したようで、残っているのはカウンターにへばりついている酒豪と、すみっこのほうでうつむいて寝入っている老人や、床にころがっていびきをかいている労働者たちくらいだった。
トレヴァが入ってきたことに気づき、知人のバーテンダーが充血した目で「片づけを手伝ってくれるんなら大歓迎だぜ」と鼻をならした。
トレヴァは返事をせずに、お手あげのポーズをする。
「明るいうちから飲もうってわけでもなさそうだな」
バーテンダーの目が少しだけはっきりした。
話し相手ができたおかげにちがいない。
トレヴァが見まわしたかぎり、バドたちのすがたは見受けられなかった。
カウンターで飲みつづけているとぼけた目つきの男ときれいな顔だちの女が、しきりにひそひそ話をしながら杯をあおっている。
「マスターは?」
それでもいきなり本題に入るのはためらわれたので、トレヴァは自然な話題で会話をはじめることにした。
「ああ、朝市さ。そのあと仕入れもあるから、昼すぎまでもどらないよ」
「え、買いだしってこと?」
「……ああ、知らなかったか? ああみえて、そういうところはマメなんだよ、あの人は。自分の店で売るものは、自分の目と口と手と、ついでに勘で判断するってことさ」
バーテンダーは淡々と説明した。
店のマスターは元船乗りで、利き腕はトレヴァのふとももほどもある怪力のもちぬしで、気性も決しておだやかなほうではなく、トレヴァの勝手なイメージにはちがいないが、買物などの所要は従業員に命令してそうな印象があった。
おそらくいままで何度か、バーテンダーが勤務中に制裁としてなぐられている光景を目にしていたせいもある。もっともマスターがそういった人物だからこそ、野性味あふれる船員や漁師、労働者たちが集まる酒場を経営できているのだろう。
「昨夜は忙しかった?」
訊ねたあとに無意味な問いだと気づいたが、トレヴァは打ち消しもしなかった。
「いつもどおりだよ。人生とおなじさ。そうそう代わりばえなんかしないもんだ」
バーテンダーはあくびをしながら答える。
トレヴァが苦笑すると、「ああ、でも昨日は比較的めずらしい客がきたな」とバーテンダーがつづけた。
トレヴァがカウンターに腰かけると、「ほれ、あそこをみてみろよ」とバーテンダーがあごで暖炉をさす。
トレヴァが視線をめぐらせると、暖炉にあたまをつっこんで寝ている(まるで死んでいるようにさえみえる)大男がいた。
どうやら泥酔して眠りこけているようだった。
暖房のいらない季節柄、火傷をするようなことはないだろうが、起きたときに頭部や顔面が灰だらけになっていて、処理に手こずるにちがいない。
自分がそうなっているわけでもないのに、トレヴァは鼻腔に灰塵が入ったような気がした。
「だれ? なにしてんだ?」
トレヴァは無意識に鼻をこする。
「……詳しくは知らないが、火の国の出身者らしいよ。オレがきた頃にはもうできあがっていたし、水夫たちにとけこんでいたからよくわからないけどさ。呑み比べとかした船乗りが聞いた話じゃ、火の国の王子の護衛をしている男らしい。なにをしてるかっていえば、まァ眠ってるんだろうな。あそこが寝心地がいいのかはわからんけど。いくら火の国の出身でもさ」
バーテンダーは失笑した。
トレヴァは愛想笑いをする。
「火の国の王子がこの町にきてるってことか。あの国っていま内紛とか戦争とか、いろいろたいへんなんだろ。王子さまとやらも、悠長に外遊なんかしてる場合なのかね」
「さァな、たいへんな時期だからそうしてるのかもしれないし。そういうのはオレたち平民には関係ないことさ――で、なんか飲むか」
「ああ、起きぬけだからのどは渇いてるけど……水でいいよ」
バーテンダーはこれみよがしに大きなあくびをくりかえしたのち、グラスに水をそそぎ、そこにレモンを絞ってからトレヴァのまえに置いた。
「高くつくぜ」
トレヴァは目で笑いながらグラスに口をつける。酸味が胃袋から全身を刺激して、背骨がふるえるようだった。
それからぽつぽつと、難破船騒動で失敗したことや、知り合いの近況などの話題をつづけた。黙々と働いているバーテンダーをみると、バドをさがしにきたという名目がなんだか恥ずかしい気もしたのである。
会話がなくなると、トレヴァはもう一度横目で暖炉の男をみつめた。
いまだトレヴァが未踏の国からきた男――筋骨たくましく、護衛兵といえばそのとおりの体格だったが、酒酔いで見苦しいさまをみせつけているわりにはあまり下品な印象をうけなかった。
王族関係者という情報はただしいのかもしれなかったが、それが自分の人生と連関しているとは思えなかった。
狭い世界で息苦しい生活をしている自分には縁がない人物としか感じられない。
そしてトレヴァは自分の人生にたちかえることにした。あまり長居してもいられない。
「なァ、バドたちをさがしにきたんだけど知らないか?」
グラスの水滴をなぞりながら、トレヴァは訊ねた。
「昨夜、ここにいたと思うんだけど」
「ん?」と頚だけふりむいてから、バーテンダーはななめうえをみつめる。回想しているようだった。
「バドなぁ……いたような気もするし、いなかったような気もする。あいつってそもそも、毎夜いてもいなくても、ふしぎじゃないからさ。逢えばいつでも酔っぱらってるようなもんだし。そもそもあいつ、どこにでもいるようなツラしてるからな。忘れちまったよ」
バーテンダーは悪気なく吐きすて、カウンターのなかの整頓をはじめた。
トレヴァは苦笑する。
バーテンダーの「どこにでもいるようなツラ」に象徴される人物評は少なからずトレヴァにも当てはまることだったからだ。
夢につまずいた若者にはきっと、だれにでもそういう一面があるにちがいない。
「とりあえず、ありがとう。またくるよ」
トレヴァはからになったグラスを差しだして礼を言い、椅子から降りた。
しかし、「おう、今度は金をもってこいよ」というバーテンダーの返事を背中に聞きながら歩きだそうとすると、トレヴァは足もとにいた人物に蹴つまずいてころびそうになった。
「あっ」と声をあげたうえ、テーブルにぶつかりガタッと音をたてたため、バーテンダーもトレヴァをふりむく。
トレヴァがよくみると、カウンター席の下で芋虫のようにまるまって寝ていたのはトミーだった。
「あ、こいつ、こんなところで……」
「ああ、トミーか。そういえば、昨夜はずっとテーブル席にいたな」
バーテンダーが声をかけてくる。
「――ってことは、バドもいたんだろうな、きっと」
トレヴァがひざを折ってトミーの肩に手をかけると、トミーは「うーん、あと少し……すまん、勘弁して……」とうめきながら反転しようとした。
起こされるのが不快なようだったが、そもそもベッドかどこかで寝ているのとかんちがいしているようなので、トレヴァはトミーの身体を強引にゆさぶって起こすことにした。
「おい、こら、甘えんな」とトレヴァが雪山の遭難者を励ますようにはげしく両肩に手をおいてゆすると、トミーは夢のなかで凶悪な死霊の群れに追いかけられてでもいたかのような顔ではっと目醒めた。
「あっ!? ――あ、なんだ……トレヴァか――」
トレヴァは立ちあがって、冷めた目でトミーを見おろす。
「寝ぼけてんだろうけど、おれがだれか以前に、いろいろまちがってるぞ、おまえ。まず第一にここはベッドじゃない」
トミーはむくりと上体を起こし、坐りこんだままの体勢でクワーと大きくあくびをした。トレヴァの声さえとどいているかあやしい状態だった。
酒臭さからするとアルコールの残留量はなかなかのものだろう。
「チッ、もう朝か――」
トミーは両手で顔をこすりながら舌打ちする。
「朝どころか、もう昼だぜ。楽しい夜が永遠につづけばいいわな」
トレヴァは皮肉を言ってみたが、「ああ、そのとおりさ」と真顔でうなずくトミーには通じなかった。おそらく、心からそう思っているのだろう。
するとトミーのふところからバトンのようなものがこぼれ落ちた。
金属が床をころがる重い音が響く。
直径15センチほどの円柱形のそれは、〈封印の筒〉と呼ばれる魔力が付与された代物だった。
当人が自慢げに語ったところによると、二年まえに王都の宝物庫にデュアンらとともに潜入したときの戦利品らしい。
盗賊としての任務は失敗し、国を追われる身になったが、貴重なマジックアイテムを盗みとったことで一矢報いたのだとトミーは笑いながら胸をはっていた。
〈封印の筒〉は文字どおり、筒のなかにあらゆるものを封印し、いつでも解放することができる筒だった。
製作したのははるか昔の魔法研究者で、その手の技術で製作されたマジックアイテムは〈太古の遺産〉と呼ばれ、数にかぎりがあることから稀少品として重宝されており、売れば高値がつくことが予想される。
それでもトミーがそうしないのは、市場にまわすことで逃亡者だと発覚する面倒を避けていることと、筒自体が護身用具として便利だったからだ。
トミーは筒のなかにニシキヘビを封印しているそうで、「オレのペットのおやつになりたくなかったら、オレには手をださないことだ」が口癖だった。
しかしトレヴァはまだトミーがそれを使用したところをみたことがなかった。
「――なァ、バドはどうした?」
トレヴァはトミーの相手が面倒なので、本題に入ることにした。
あわてて筒をひろってふところにもどしたトミーは、さらに大きくあくびをする。まるで獲物を呑みこむヘビのようだった。
「バドは……明けがたくらいまではそこのテーブルにいたかな? うーん、ああ、確かにいたと思う。オレはこっちで女と呑んでたからさ、忘れちまったな。てか、女はどこいったんだ? ああ、くそ、逃げられたか――。ん、バドか? なんか知らない男と飲んでたような気がするけど……しかも同業者っぽいやつだったぞ。民間人をよそおってる感じの。〈鹿の角団〉かもしれない。あいつ、なにやってたんだろうな。もしかしたら、からまれてたのかな――」
もそもそと話すトミーの声は最後まで聞こえなかった。
いやな予感が的中していたことを悟り、トレヴァは口をつぐむ。
冷静になってみると、昨夜バドが出発まえにうかべていた表情がすべてを物語っていたような気もした。
バドは宝石のかけらについて秘密にすることで、行動の機会をうかがっていたのだろう。
トミーにうっかり話せばデュアンたちの耳にも入るだろうし、そうなれば話が大きくなり、計画どおりに話がすすみづらくなってしまう。
しかしどれだけ人生が停滞していたとしても、〈鹿の角団〉に単身、取り入ろうとするのは無謀にちがいなかった。
強大な、それも不透明の組織を相手に、主導権をにぎって取引することなどできるはずがない。
バドをすぐにみつけなくてはならない――トレヴァは無意識にため息をついた。ほんとうの行方不明になってしまうまえに。
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