32 記憶と満天の星団

 まるで空間を切り裂いてちぢめたかのようなベノワの不自然な移動速度に、ルイはあたまのてっぺんから下半身までを氷の槍でつらぬかれたような戦慄をおぼえた。

 言葉にできない恐怖に、悲鳴をあげようにもあげられない。


 しかし、ディレンツァが、起立させたアルバートをルイのほうにつきとばしたので、ルイは突然身をかわさざるを得なくなり、あわてて横に逃れた。


 ルイがよけたこともあって、アルバートは「うわわわ!?」と昏迷をきわめた叫び声をあげながら、ドアの境でつまずき、部屋のなかにころがりこんだ。


 ルイはアルバートを見送ったあと、ディレンツァをふりかえる。


 ディレンツァは「ルイ、塔に入れ!」と指示をだしながら、すでに駆けだしており、ルイの右手をつかんで部屋のなかへひきいれた。


 ルイはひきよせられるまま室内にとびこんだのだが、ヒールをドアのわくにひっかけてしまい、しりもちをついてしまった。


 全員が尖塔の最上階に避難することができたが、ルイは腰をなでながら不満をもらす。


「もう、どうなってるっていうの……よ――」


 しかし、ルイは顔をあげたとたん、息をのむ。

 ベノワがすでに部屋のなかに侵入してきていた。


 ベノワはアルバートのほうを向いていたが、ルイとの距離は2メートルも離れていない。

 さきほどの巨大うさぎよりもはるかに威圧感があった。


 室内の状況を見まわすと、ルイの対面では身をかがめた姿勢のディレンツァがベノワをにらんでおり、アルバートは部屋の中央のテーブルに手をかけながらひざ立ちになっていた。まるで崖を這いあがろうとしているみたいだった。

 ブルーベックは壊れたパーティションを盾のようにして、その影に身をひそめている。


 ベノワはまるで宙に浮いているみたいな不安定な動作で、ゆっくりとアルバートにねらいをさだめて動きだした。


 アルバートは頚だけふりかえりベノワの接近を確認すると、蛇ににらまれたカエルになってしまい、極度のおびえから立ちあがることもできなくなってしまった。


 アルバートはぶるぶるとふるえながら、焦点のさだまらない瞳でルイをみる。


 アルバートが独力で危機を脱出できるとは思えなかった。

 ルイはディレンツァをみたが、ディレンツァは眉をしかめており、うまいアイデアが捻出できている様子はない。


 ルイは迷ったが、かぶりをふってから立ちあがり、やむを得ず踏みだした。

 こうなったら捨て身でアタックするしかなかった。


 そもそもこの旅の主役はアルバートだった。

 アルバートが欠けてしまうことは旅路の終わりを意味している。

 たとえ身をていしてでも、そんな結末だけは避けなければならない。


 ルイはかるく助走をつけ、ベノワの直前で高く跳躍する。

 顔のまえで両腕を十字にかまえ、そのままのベノワに体当たりを見舞った。


 有効かどうかなど配慮してはいられなかった。

 むしろ本心からいえば、まったく期待できない攻撃だったが、ベノワの注意をアルバートからそらすことぐらいはできるかもしれない。とにかく全力でぶつかることだけを意識した。


 インパクトの瞬間――ルイは目をつむり、歯をくいしばって、両腕にちからをこめたが、なぜか予想したタイミングでは衝突の衝撃がやってこなかった。


(あれ――?)


 ふしぎに思って、ルイがおっかなびっくり目を開けると、(え!?)予想をこえてルイの身体は、ベノワのたなびくローブのなかにとりこまれてしまっていた。


(な、なにこれ!?)


 ベノワの背中に体当たりをしたつもりが、まるで深いみずうみに身をなげたみたいに、ルイはベノワのローブのなかをただよっていた。

 水底から水面の陽光の反射をみているみたいに、風景がキラキラとゆれている。


 ルイの正面では、二重に輪郭がぶれたアルバートが驚愕のあまり酸欠の魚のように口を動かしている。


 アルバートはなにかをわめきちらしているようだったが、その声はルイにはまったくとどいていなかった。

 ぶさいくにゆがむアルバートを眺めながら、ルイは徐々に不安になってきた。


(いったい、どうなってるの――?)


 ルイはためしに泳ぐように手脚をばたつかせてみたが、まるで溺れているみたいに自由がきかない。

 ベノワのローブのなかは無限の海のように、果てしない感覚だった。


 そのうちルイは、だれかに呼ばれたような気がして、ふとそちらの方向に注意をうばわれた。


 すると、ルイの視界は急に混沌としたものとなり、やがてめまぐるしく変化しはじめた。尖塔の最上階の部屋はどこかに消えて、ルイは未知の領域へと吸いこまれていく――。


 それと同時に、ルイのなかには、大嵐のあとの濁流のような、情景の洪水が流れこんできた。

 ルイは耳もとで老若男女さまざまな人に大騒ぎをされているような煩わしさをこうむり、思わず両耳をおさえる。

 しかし、その雑多とした感情の嵐は少しもおさまらなかった。


(な、なんなのよ――!?)


 嵐は容赦なくルイの心を支配した。

 春の陽射しのような歓び、活火山のような怒り、凪いだ海のような憂愁、崖のうえにたたずむ諦観、青い空の孤独、なにもできずにみつめる背中、いままさにふりかえろうとしている女性の顔には翳がかかっていて――ルイは稲妻の矢につらぬかれたように瞠目した。


 なにかがわかりかけたような気がして、胸が苦しくなり、動悸が激しくなった。

 そして、理解した。

 それはベノワの記憶だった。


 ルイがそう悟ると、押しよせてきていた支離滅裂に想出された感情が、まるで排水溝にあつまる雨水のようにルイのなかに整然と流れこんできた。

 ベノワの人生が、ゆっくりとルイの瞳に浸透してきたのである。


 ルイはまばたきもせずに、その光景に見いった。

 草原の国のかたすみで商才を発揮したが、完璧主義でかたくなで孤独だった灰色の少年時代につづいて、王都に招聘され、もちまえの才覚で成功し、名誉貴族の称号を手にするまでの青年期がくりひろげられる。


 ルイはまるでベノワの人生を擬似体験しているようだった。

 ベノワの内心の歓喜や興奮、情熱がルイの心をふるわせる。

 

 ベノワはみずからを侮辱してきたすべての人たちを見返すことができた充足感に満ちあふれ、まるで王座にでもついたかのような、勝利者としての自覚をもっていた。日の出のようなかがやきがベノワのゆくてを照らしていた。


 それでも転機はおとずれた。

 それは天頂を通過した太陽がいつか西に沈んでいくような変調だった。

 ベノワの焦燥がルイのこめかみを刺激した。動揺と、心をかきみだす情念の炎がルイの胸を焦がした。


 ミシェルとの邂逅だった。港で働いているうしろ姿。そして、背中を流れる美しい髪。

 ベノワはしばらく見惚れていた。

 やがてミシェルがふりかえり、うすくほほえんだ。

 ルイの目からみても、気品にあふれたかわいらしい女性だった。


 ベノワはまるで猫が首ねっこをつかまれるようにして、ミシェルのとりこになった。

 おさえられない恋心、あらゆるしがらみを放棄してでも二人で過ごしていたい衝動、プレゼントをうしろ手でかくしもつような興奮――ベノワの初恋は、多くの初恋がそうであるように、鮮烈でまっすぐで、だからこそミシェルに婚約者がいたことの衝撃は計りしれなかった。


 鈍器で後頭部を痛打されたほうがまだましだと思えるくらいに心をえぐられた。

 片想いはベノワの両肩に鉛となって重くのしかかり、俗化していくみずからの精神との交戦もまた、出口のない迷路のようだった。


 そしてベノワは、知人から宝石のかけら〈荒城の月〉を手に入れた。

 ベノワが、ひとつでは夢を叶えるにはいたらないそのかけらをにぎりしめながら、嫉妬に狂いそうな嵐の前夜、ミシェルの婚約者を消してほしいと願った絶望のすがたが、真っ暗な部屋のなかの、さらに暗い影として浮かびあがった。


 ベノワの恋慕の狂騒をまのあたりにして、ルイは心が痛んだ。声にならない孤独の声を、聞いたような気がした。

 しかしその翌朝、嵐による事故でミシェルの婚約者は本当に海のもくずと消えてしまった。信じられない偶然だった。


 悲嘆にくれて言葉を失ったミシェル――ベノワはそれを心のなかで悪魔のささやきだと実感しながらも、千載一遇のチャンスだと受けとめ歓喜した。


 ルイにもその気持ちはわからないでもなかった。むしろよくわかった。

 とても複雑な心境だった。喜びと悲しみはまるでひとつの彫刻のように観察者を困惑させた。


 それでもベノワの束の間の笑顔をさらっていくように、ミシェルは断崖から身をなげた。

 ルイの目に映るベノワの記憶はそこで一度、深い闇に閉ざされた。

 まるで深海をただよい、二度ともどってくることはないかのような暗闇だった。

 ルイもうつむいて口をつぐみ、静かに展開を待った……。


 やがて再開されたベノワの思考は混迷をきわめた。

 罪悪感や後悔、初恋を永遠に失ってしまった虚無感といったほの暗い、救いのない混濁だった。

 そうしてベノワは冷静に、それでいて確実に発狂した。


 それでもみずからの行動をとどめることはできなかった。

 王都におけるいっさいから手をひいたベノワは、草原の国にもどって、広大な丘の所有権を購入し、そこに巨大な城を築いた。

 城はだれにものぼれないような高い塀でとりかこみ、深部には尖塔を二棟建造した。そして、それらの最上階を橋でつないだ。


 ベノワの行動にはすべて意図があった。

 ルイは注意深くそれをみつめたが、ベノワが発する負のオーラが目かくしになり、よくわからなかった。


 ベノワは城に移り住んでから長いあいだ、尖塔の最上階にある部屋で机に向かった。だれも寄せつけない強い意志がそこにあった。


 ルイはその背中をじっとみつめる。哀しい気持ちが胸いっぱいにひろがった。

 そして、ルイの胸がせつなさで飽和する頃、光景はふたたび切り替わった。

 

 ルイは瞳を見開く。あまりにも意外な景色だった。


 ――そこにはミシェルがいた。


 生きていた頃のミシェルと寸分もたがわないミシェルが、尖塔の部屋でベノワと談笑していた。

 ルイは動揺する。ベノワの記憶を傍観していたはずだったが、まるで今度は夢想をのぞきみているようだった。


 ベノワは子どもの頃でさえみせたことのないような笑顔で、諧謔を弄してミシェルを笑わせていた。

 ミシェルは口もとをおさえ、涙を目のきわに光らせていた。

 ひとしきりおしゃべりが終わると、二人はぶどうのリキュールをグラスにそそぎ、静かにみつめあい、乾杯した。まるで恋人同士のようだった。


 ルイはなぜかいたたまれない気持ちになって、目をそらす。


 しかし、それからシーンが変わり、ベノワとミシェルは月夜のもと、桟橋の中央にならんでいた。

 ゆるい風の吹く夏の夜だった。

 二人の部屋をむすぶ橋のまんなかで、二人は肩をよせた。星空をみつめていた二人はやがてみつめあい、ゆっくりとくちづけを交わした。


 それからも、ルイの目にはたくさんの情景が浮かんでは消えた。

 ベノワとミシェルはそれぞれの部屋で愛し合い、幸せに満ちあふれた顔をしていた。


 ルイはまぶたを閉じて、もうわかったわ……心のなかでそうつぶやいた。


 そして、目を開けると、ベノワによってもたらされたすべての映像はあとかたもなく消えていた。


 ルイはなにもない空間にいた。

 なにもない、まっしろな世界にたたずんでいた。

 しかし、恐怖もなにも感じなかった。なぜなら目前にはベノワが立っていたからだ。


 そこがベノワの創りだした無の空間なのだということが、ルイにはわかっていた。ベノワのなかにいて、ルイはベノワと対峙していた。


 ベノワはまだ若かった頃のととのった顔だちをしていた。

 しかし、そこには感情が欠落していた。無表情というよりも、無感覚に近い、遠くにとんでいくハトの群れを見送るような目をして、ルイをみつめていた。


「……もうわかったの」


 ルイはベノワをみつめながら話した。


「あなたが、私たちを退けようとしている理由はよくわかったわ。あなたは、愛する人といっしょにいる時間を邪魔されたくないから、私たちに、そばにきてほしくなかったのね」


 ベノワは返事をしない。ただ、ずっと先を見通すような瞳でルイをみていた。


「ね」


 ルイはそれを哀しさだと解釈した。


「あなたがみせてくれたのは思い出なの? それとも夢だったのかしら……私には知りようがない」


 ベノワに哀愁をおぼえたことで、ルイの心は悲しさで満たされていた。ルイは思わず涙ぐみそうになった。


「あなたは、その性格から、ひとつのことにこだわりすぎただけだわ。私は、プライドが高いことはいいことだと思うの。ゆずれないものがあるのなら、それはその人の強さだわ。それがもろ刃の剣になることもあるけれど、私はこだわりがないよりはずっといいことだと思う。あなたはいつでも、まっすぐ歩こうとした。そして、そうするだけの能力をもっていた。それはすばらしいことだわ。世界にはそうやって暮らしたい人がたくさんいるけれど、みんな世の中と折り合いがつかずに、自分を曲げているんだから……」


 ルイはあてもなく話しつづけた。ベノワが聞いているのかどうかもわからなかった。


「でも自分の歩きかたに、相手のそれを合わせることはやっぱり難しいのよ。どれだけ実力があっても、才能にめぐまれていたとしても、相手があることは自由にできないことのほうが多いから。それはあなたにどれだけ実績があっても関係のないことだもの。だれかの幸せはだれかが感じること。あなたがもたらすことでそうなることもあるかもしれない。でも、だれかの心を、あなたがあやつることはできないんだわ……」


 ルイはベノワの視線に耐えられず、うつむいた。


「でも……それでも、私はあなたがまちがったことをしていたとは思わない。恋がたきを呪うなんてこと、少なくとも私にはしょっちゅうありそうなことだもの。好きっていう気持ちを押しとどめることなんて、私にもできないから……。そう、この世界で暮らしていれば、だれもがかならず恋に落ちる。だからそれが罪悪だなんて、私には思えないのよ」


 ベノワの靴と自分の靴がみえた。


「でもね、私は思うの。確かに恋はいつでも実るものじゃない。でも、実ったとしても、いつかはかならず別れがくるわ。だれもが永遠に生きられるわけじゃないから。だから、実らない恋にあっても、かぎられた時間のなかで、せいいっぱいミシェルを愛していたあなたは、それでよかったんじゃないかしら――」


 ルイはふたたびベノワをみる。ベノワはずっとおなじ目をしていた。


「私たちはいつでも、不確かな旅路をあゆんでいる。願いが叶わないと感じる瞬間なんてたくさんあるわ。手をのばしても、むなしい気持ちになることのほうが多いもの。でも、それでも先をめざすしかないの。だめでも、できることをするしかないんだわ。夢や希望はいつも、少し先の未来にあるって信じて……」


 ルイがつぶやき終わると、ふたたびベノワの世界は静寂につつまれた。

 ルイはもう一度、目線を落とした。心の底にある哀しみが、不定期に、それでも強くうずいている。


 しかし、長い沈黙のあと、ルイが顔をあげると、ベノワは上空を仰いでいた。


 ルイがその視線を追いかけると、はるかな夜空に、満天の星団がひろがっていた。

 ルイは無限の宇宙に圧倒されて、何度もまばたきをくりかえした。

 そしてやがて、どこかに吸いこまれるようにして、ルイの視界はまっしろな闇に閉ざされた。

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