12 幾何学模様の影

 ただしそんな日々にも、それから一ヶ月もしないうちにかげりがみえはじめた。長く、濃い影が、ベノワの足もとからゆっくりと延びはじめたのだ。


 ベノワは頃合をみはからって決断し、ミシェルをデートに誘う手紙をしたためた。多忙なベノワには市街を観光したり、娯楽に興じたりする暇はなかった。

 ただ夕食に招待するという、それだけのものだった。

 ベノワは文面に落ち度はないか何度も確認したのち封をして、執事に投函させた。


 しかし、一日、二日と待っても、ミシェルからの返答はなかった。

 予想外の展開にベノワは狼狽した。

 ミシェルに接してきた感触では、ベノワの誘いを拒絶する気配もなかったし、ミシェルの家柄から考えてもミシェルの両親が承諾しないわけもなかった。


 ミシェルにとってどんな不都合があるのか思い悩み、ベノワは書斎で机に向かって、羊皮紙に筆ペンで幾何学模様を無意識にたくさん書いた。


 三晩待って、郵送事故を懸念したベノワは、ミシェルの様子をうかがうことにして、港をおとずれた。

 しかしその日、ミシェルのすがたはみつからず、通りすがりの作業員に聞いたところ、ミシェルは休みだった。


 ミシェルの父親が経営する造船業社の事務所を訪問しようか悩んだものの、ベノワは結局、もう一度手紙を出すことにしてその日は帰った。


 そして夜、書斎で「手紙は読んでくれたのか、返事はいかがなものか」という趣旨の手紙を試行錯誤しながら書いた。焦りを悟られず、おしつけがましくなく、かつ非難がこもらないような文面にするのは骨が折れた。


 ベノワはわれながら気弱な内容だと恥じたが、それまでの人生で心からのつきあいをだれともしたことのなかったベノワには、それしか方法が思いつかなかった。


 それからまた三晩待ったが、ミシェルからの反応はなかった。

 ベノワはみずからの不器用さと、ミシェルの思惑が読めないことに徐々に腹をたてた。

 

 いつでもきわめて冷静で、機知に富んで、ユーモアももちあわせたベノワに慣れている執事たちは、無言のベノワにとても驚いた。


 執事が何度も「どうかしましたか?」と心配してきたが、ベノワに説明ができるわけもなかったし、生来の性格から相談することはできなかった。


 一人の女性にもてあそばれているような劣等感に、ベノワの心の一部分は批判的だった。

 ベノワの中枢に「俗世間の娘など所詮その程度のものなのだから熱をあげるな」という指摘を常につたえようとしていた。


 しかし、ベノワの心の大半の感情はひたすらにミシェルを想っていた。

 ミシェルの横顔や黒髪、身のこなしや服装、そして笑顔を反芻して思いださせた。それは枯渇したみずうみに、小雨がふりそそぐような気持ちだった。


 郵便を待つことだけに神経をすりへらしているベノワの気性は荒くなった。

 執事たちは困惑し、動揺した。

 若いメイドたちはベノワの部屋に近づくことをおそれた。


 やがて、そんな状況にたえられなくなったベノワは、ふたたびミシェルに逢い、直截ミシェルの心意を確かめることにした。

 昔からあらゆることを成就させてきたベノワは、その都度そうしてきたように、土壇場で強くでることにした。

 

 ミシェルの心を確認し、そのままミシェルの両親にミシェルを伴侶として迎えたい旨をもうしでることに決めたのだ。


 ベノワは強い決意のもとに、港に踏みこんだ。波止場にはあいかわらずミシェルは顔をみせていなかったので、ベノワは造船業社の事務所に向かった。そして、迷わずその扉をノックした。


 応対した事務員は、そこに立っていたのがベノワだったことに驚いて、あわてて代表者であるミシェルの父親を呼んだ。

 応接に通され、ベノワはミシェルの父親と面会した。


「どうかしましたか、こんな汚いところまで?」と、ミシェルの父親は、商売気質のある人間特有の低姿勢でいてあさましくない笑みをうかべた。


「ミシェルのことなんだが――」


 ベノワは余計なあいさつはぬきにして本題に入ろうとした。

 すると「ああ、そのことですか。めでたいことです。ありがとうございます」と、ミシェルの父親は今度は本心からかにっこりと笑顔になった。

 

 意外な返事にベノワはとまどい、いつものポーカーフェイスさえ忘れてぽかんとした。


「こんないやしいところで育った娘ですが、あんなりっぱな家に嫁ぐことが決まってうれしゅうございます――」


 あまりの予想外な言葉に、ベノワは暗闇のなかに放りだされた。

 ミシェルの父親は、どこかのだれかと娘の縁談が決まったことについて、身ぶり手ぶりをふくめてあれこれと語っていたが、ベノワの耳にはもうとどいていなかった。


 事務所をあとにしたベノワは、どこをどう歩いたのかさえわからないまま自宅へとひきあげた。

 顔面蒼白で、ちからない瞳をした主人に、執事をはじめとしてメイドたちまでもが声をかけることができなかった。


 深夜、ベノワは初めて孤独を理解した。

 幼い頃はいつでも一人でいた。一人で部屋にいて、読書をして、月を眺めていた。


 それでも孤独ではなかった。

 ベノワはミシェルが遠くなることで、初めて孤独を思い知った。


 ベノワは懊悩した。

 どうにもならないことで眠れないことは、それまでで一度もなかった。

 それまでは、自分でどうにもできないことで悩んでいてもはじまらないと割りきることができたからだ。


 書斎の机で、あたまを抱えながら一夜を過ごし、明け方の鳥が鳴く頃、ベノワは充血した瞳の奥で、ひとつの決心をした。

 それは、ミシェルをあきらめることだった。


 それまでも多くの難題のなかで、ベノワはあきらめる選択をしたことはあった。

 自分以外の要因がからむものは、自分だけではどうにもできないことをベノワは何度も経験していた。

 だから、最大限の可能性を追求して叶わなければ、それはやむを得ないことなのだということを承知していた。それとおなじことだった。


 今回は、ミシェルが相手だった。言うまでもなくミシェルはべつの人間である。

 だからここでベノワが強引に想いを遂げようとすることは、ミシェルに混乱しかうまないだろう。

 明るくなってきた東の空に、ベノワはひっそりと涙を流した。


 しかし、物事はそう簡単には収束しなかった。

 それまで一度も心から体験したことのなかった恋という問題を、ベノワはこのときはまだあなどっていた。

 それは、ミシェルに再会したときに起きた。


 その日、ベノワは街道を自宅に向けて馬車を走らせていた。

 午後の大気は夏の湿気をふくむ、じっとりしたものだった。

 幌のなかにいてもむし暑く、額の汗をぬぐいながら、ベノワは看板が目に入ったこともあり、王都の城下街でも有名な飲食店で、のどをうるおすことにした。

 店主が知り合いだったこともあった。店主は、ベノワを歓待した。


 しかし、店内に踏みこんですぐに、ベノワはかたすみのテーブル席にミシェルを発見した。思わずたちどまって凝視してしまった。


 ベノワは目をうばわれていたが、ミシェルはテーブルで向かいに坐っている男と会話をしていて、ベノワの来店には気づかなかった。

 ミシェルの横顔はほほえんでいた。相手の男は婚約者にちがいない。


 ベノワはそのまま店をあとにしたい衝動にかられたが、店主の手前もあり、背中を押されるようにしてカウンター席についた。


 最初は落ち着かなかった。

 なぜだか終始、いたずらがあばかれないか心配している子どものような気分で、ベノワは心ここにあらずだった。

 店主の社交辞令などもまったく耳に入らなかった。

 手紙の返答がもらえなかったという引け目が、貴族位にまでのぼりつめたベノワを臆病な少年へと変貌させていた。


 しかし店は混雑しており、しばらく経ってもミシェルがベノワに気づく気配はなかった。


 冷静になってくるにつれて、ベノワはミシェルの様子が気になってきた。

 店主がはこんできた冷えたぶどう酒に舌がこなれてきた頃には、ベノワはミシェルとその婚約者を観察さえしていた。


 少なくとも見目や家柄などでは、自分は婚約者に劣ってはいない。

 好青年ではあったが、少なくともベノワが参加するような会合や舞踏会ではよくみかけられるようなタイプだった。そんな益体もないことを延々考えて、胸をなでおろしたりした。


 そして、なによりミシェルはやはり美しかった。

 ミシェルが笑みをうかべたり、声をあげそうになって口もとを手でかくしたりするたびに、ベノワはいいしれない感情の昂ぶりをおぼえた。


 ミシェルが婚約者と会話をしていることがだんだんと苦痛になった。

 たえきれないような痛みを下腹部に感じてベノワが席をたとうとしたとき、ミシェルがふと、ベノワのほうをみた。


 ミシェルとベノワの視線が合った。

 ベノワの心臓が高鳴った。


 ミシェルは花弁が開くように驚きの表情をしたのち、婚約者に会話の中断をもとめて立ちあがり、ベノワのほうにやってきた。


 ミシェルの一連の身のこなしに見入ってしまったため、ベノワはミシェルが目前にくるまで身動きもできなければ目をそらすことさえできなかった。

 正面まできたミシェルは、もじもじと手を合わせながら謝罪をした。


「お手紙の返答がなく、不快に思われたのであればもうしわけありません。実をいうと、お手紙を拝読させていただいたのが今朝がたのことなのです――」


「……あ、ああ」


 ベノワは返事に窮した。


「昨今、いろいろと忙しく過ごさせていただいていたため、まことにもうしわけない話なのですが、お手紙を拝見している時間がなかったのです。ベノワさまのお手紙はしっかり腰を落ち着けて読むべきだと思っていたものですから……。まさか、ベノワさまより、あのようなお誘いをいただけるとは思ってもいなかったのです。本当にすみませんでした」


 ミシェルは困惑と焦燥がまざった複雑な表情をしており、緊張からか瞳がうるみ、頬が上気していた。 


 ベノワはそのとき、ミシェルに対する恋心をあきらめきれていないことを痛感した。

 謝辞をのべるそのおずおずとしたすがたさえも、いとおしく思えた。

 まるで呪いのようにじわじわと、ベノワの心はふたたびミシェルのことをもとめはじめた。

 なによりベノワは、ミシェルに避けられていたのではないことを知ってとても安堵していた。


「いや、気にしなくていい。こちらこそ迷惑をかけた」


 ベノワはふだんどおりの冷静さで、にこやかにうなずいた。

 それをみて、ミシェルもほほえんだ。初めてみたときのような、妖精みたいな神秘的な印象は変わらなかった。


「またぜひともお誘いくださいませ。わたくし、喜んでお邪魔させていただきます」


 ミシェルは「それでは失礼します」とおじぎをして、婚約者のいるテーブルにもどっていった。

 婚約者はずっとベノワのほうをみていたが、まるで敵意などない、なごやかな瞳でミシェルとベノワのやりとりを見守っていた。ミシェルがテーブルにつくと、婚約者はベノワに目礼した。


 しばらくミシェルたちをうかがっていたが、さきほどこみあげた衝動は徐々に消えて、ベノワはやりきれない想いを胸に店をあとにした。

 ぶどう酒の後味はしばらく忘れられないものになった。

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