11 順風満帆な人生の転機

 そんなとき、ベノワの人生に転機がおとずれた。

 一人の女性と出逢った。

 ベノワの商隊が王都の港で、帆船に積荷をしながら出発の準備をしているときのことだった。


 ベノワはちょうど、古き魔女の館があるみずうみのほとりに向かうべく、傭兵団から雇った精鋭たちの代表と日程について協議していたところだった。


 ベノワは波にゆれる帆船を眺めていたが、となりの傭兵長との会話に集中していたため本来なら気づかなかっただろう。しかし、まるで運命の糸にみちびかれるようにしてベノワの目は積荷のそばにいる女性に釘づけになった。


 最初にベノワの視界に入ったのは女性のうしろ髪だった。

 とてもきれいな黒髪。淡い陽射しのなかで、光沢を放つように自然にかがやいていた。


 ベノワはまるで妖精でもみているかのような気持ちになった。

 稀少なものや珍重なものを見慣れているベノワが、なにか新しい発見をした心地になった。

 ベノワには束の間、傭兵長の声が聞こえなくなった。

 女性はなめらかな動きとしぐさで作業員たちにまざって、積みこみの仕事をはじめた。港で働いている女婦のようだった。


 相槌もうたず意見もしなくなったベノワをいぶかり、傭兵長が「どうしました?」と会話を中断した。

 しばらくの間を経て、ベノワは自分が問われたことに気づいて、「あ、ああ」と返事をした。内心あわてていたが、それはおくびにもださなかった。


「――あの娘がどうかしましたか?」


 しかし傭兵長は、ベノワの視線の先にある興味の対象を察して訊ねた。

 それによりベノワは少しだけ気まずくなった。それでも長年の商売で鍛えてきたポーカーフェイスでそれをかくした。


「あの娘の名は?」


 ベノワの問いに傭兵長は「ミシェルです。港界隈では有名な造船業社の社長令嬢ですね。事務所で経理をしていないときは、ああやって積みこみや積みおろしの手伝いをしているようです。労働が好きなのか、酔狂のたぐいなのかは知りませんが……」と、女性の身元を語った。


「……そうか」


 ベノワはうなずいてミシェルの話題はそれきりにした。

 傭兵長はいったん怪訝そうに片目を大きくしたものの、それ以上の追求はせず、ふたたび二人は旅の行程の留意点や不安要素についての打ち合わせにもどった。


 視界のかたすみでミシェルが笑顔で作業しているすがたが何度かみえたが、ベノワはその心のひっかかりをなにかの気のせいだと考えた。

 人間のことが気になることなどそれまでのベノワの人生には一度もなかった。それは異性であってもおなじことだった。


 しかし、それから二日が経過した頃、ベノワはみずからに変化が起きていることを実感した。


 書斎で王都の経済情勢に関する報告書の作成について思いふけっていたはずが、知らず知らずのうちに白昼夢のようにミシェルのことを回想し、うっかり机に紅茶をこぼしてしまったのである。

 ひろげた羊皮紙にじっとりと染みこんでいく液体をみつめながら、ベノワは心の動揺を静かに感じとった。


 翌日、ベノワは適当な理由をつけて商工会の定例会合を欠席し、湾岸にでかけた。

 晴れた日だった。

 ベノワはしばらくぶりに平和な青空を眺めたような気がした。王都にわたってからも目標に向かってつきすすんでいたため、休息らしい休息などベノワはとっていなかった。


 うみねこが鳴いて、潮風が鼻腔をくすぐった。

 しかし目的地が近づくにつれて、ベノワの視野はだんだんとせまくなっていった。青空も、陽気も、潮風も、うみねこも関係なくなった。


 ベノワは足早に石だたみを歩き、港への階段を駆けおりた。

 思考も徐々に単一化していった。湾岸区域に入った。ベノワの耳には、カモメの声も、白波が防波堤にあたってくだける音も、漁船の汽笛も、停泊する帆船や貨物船のきしみも、旅行者や労働者などでごったかえす喧騒もなにも聞こえなかった。


 ベノワの感覚は目に集中し、その目はただミシェルをさがしていた。

 

 ベノワはミシェルに向かって直進した。

 途中で知人の貿易商があいさつをしてきたが、ベノワは無視をしたかっこうになった。貿易商は頚をかしげたが、ベノワが考えごとをしていたのだろうと判断した。


 やがて、ミシェルがベノワの接近に気づいた。

 ミシェルは少しだけ驚いた表情をしたあと柔和にほほえんだ。


「こんにちは」


 ミシェルのほうから声をかけてきた。

 ベノワは要人だったので不自然なことではなかったが、ベノワにはその親しみがふしぎで、かつ心地よいものだった。

 ベノワはミシェルの正面に立った。そして、ゆっくりうなずいた。

 それが返事のつもりで、ミシェルにもそれが通じた。

 ミシェルは「今日もいい天気ですね」とつづけた。


 天候や景気といったミシェルのなにげない話に、ベノワは目を細めたり、うなずいたりした。

 そしてほんの少し会話をしたところで、ミシェルが現場のほうから呼ばれて逢瀬が終わった。

 ミシェルのうしろ姿をみつめて、ベノワはやはりその黒髪を美しいと思った。

 去りぎわ「失礼します」と会釈をしたミシェルのはにかんだような表情が、しばらくベノワの脳裏から離れなかった。


 その夜、自室に閉じこもって、ベノワは惑乱し、やがて理解した。

 それは恋だった。

 深い紫色をしたワインをひと瓶飲み干しても、それはゆるがない事実だった。


 それからベノワは、時間をつくってはミシェルの顔をみにいった。

 もともと現場の人間なのだから、ベノワが湾岸にいることを疑問視する者はいなかった。ミシェルもまた迷惑がるようなそぶりはみせなかった。


 接する機会が増えるにつれて、ベノワはミシェルに対して、もちまえの気さくな態度でやりとりすることができるようになった。

 ミシェルには本当の意味での好意もいだいていたので、仮面をかぶらず、自然に、陽気な冗談などでミシェルを笑わせることができるようになった。


 時には市場で購入した花束などを買っていったりもした。

「気に入らなかったらべつに捨ててもかまわない」などというベノワに、ミシェルはまばたきをくりかえして「ありがとうございます」と喜んだ。


 まるで太陽に照らされているような日々だった。

 ベノワは初めて、商売以外に興味深いと思えることを体験した。


 ベノワはそれまで女性と交際をした経験がないわけではなかった。

 ベノワの名声や肩書きに惹かれる女性はもちろんのこと、人当たりのよいベノワの表向きの性格に好意をしめす女性はむしろ大勢いた。草原の国にいた頃から何人かの女性とは肌をふれあわせたこともあった。


 しかし、それは恋と呼べるようなものではなく、ベノワはそれを一種の通過儀礼のようなものだと思っていた。

 商業に従事する者として、成功をたぐりよせるために必要な儀式のひとつだと解釈していた。だから、ミシェルに強い関心をもつことは、ベノワにとっては初めての恋であり、人間に興味をもつこと事態が初めての経験だった。

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