五卦・貴妃・紫瑞妃と瘴気病い
後宮の敷地は広く、まるで街が一つ入っているのではと思うほどの大きさがある。
その中でも四方に建てられた一際大きい屋敷が、四皇貴妃の住まう屋敷『宮』であり、その近くには中級妃たちの住まう屋敷と、その区画を纏めて世話をしている女官・下女たちの住まいが理路整然と立ち並んでいる。
「ええっと、後宮中央にある庭園の横には、東廠と六尚の建物が並び,この二つの屋敷で後宮の管理全般を行なわれています。特に東廠の責任者である洪氏は、先帝に仕えていた洪家の後継という噂がありまして……」
白梅相手に、淡々と後宮の説明をしつつ建物を紹介する女官。
たまたま白梅が道に迷っていたところを、皇貴妃の元に使いに出ていた彼女が通りかかり、道案内も兼ねて建物や施設の説明を行っている最中であった。
「へぇ。東廠は分かるけれど、六尚ってなんでしょうか? まだここにはきたばかりなので、それほど詳しくはないのですが」
「六尚は……ええっと、後宮の管理を行っているのが東廠であることはご存知ですよね? 六尚はその外局のようなものでして、帳簿を管理する尚宮局、儀礼全般を管理する尚儀局、衣服と儀仗、あと備品の管理をしている尚宮局と……」
一つ一つを指折り数えつつ説明する女官。
村で師父たちから一般的な教養は詰め込まれたものの、宮中に関する知識については皆無であった白梅は、彼女の言葉を一つ一つ、しっかりと頭の中に記憶していく。
時折り、女官が熱い視線を送って来るのは気のせいだと思いつつ、白梅は初めてみる後宮の姿に心を躍らせていた。
「帝の寝所や寝具の管理をしている尚寝局、ここはこの庭園の管理も行なっていますね。あとは……医局と食事を統括する尚食局で、最後は尚功局という、衣類関係の管理を行なっている局があります。ここは会計も担当していまして、一番頭の硬くて無愛想な宦官が働いているのですよ?」
「あはは。まあ、それだけ責任重大っていうことですよね。色々と知ることができて助かりました」
「どういたしまして。といういう事で、この辺りがちょうど、六尚に努める下女たちの住まいです。ちなみに私の仕事場は尚宮局ですので、何かお困りのことがありましたら、いつでもお声をかけてください」
広い後宮を、土地勘もない白梅が散策するということは即ち、迷子になるということ。
特に目印もなく立て看板もない後宮においては、自分たちの勤め先と六尚、東廠の屋敷の場所さえわかっているのなら、それほど困ることはない。
目印となる中央大庭園、そこに向かえば大抵はなんとかなるのだが、白梅は物珍しさに惹かれて、東門近くまでウロウロとやってきていた。
そこでは偶然出会った女官の一人に道を尋ね、ようやく中庭まで辿り着くことができたのである。
ただ、この女官は白梅を宦官と見たらしく、白梅を新しく配属された宦官だと勘違いして、丁寧な物腰で彼女に後宮についての説明をしてくれた。
そして懇切丁寧に話をしながら歩いていたのだが、白梅はふと、彼女の肩に瘴気が薄く張り付いていることに気がついた。
「はい、ありがとうございます。それはそうと、最近、肩が凝ったりしていませんか? 宜しければ見てあげますよ?」
「本当? 先日から、ちょっと張っているような感じなのですよね。医局でも軟膏を調薬してもらったのですけれど、今ひとつ効きが良くないような気がして」
近くの椅子に女官を座らせると、白梅は背後に周り両肩にそっと触れる。
すると、白梅の手から逃げるように瘴気が肩から首へとゆっくりと移動を始めたので、服の袖から小さな竹の短刀を取り出して左手に構え、それを瘴気に向けてから右手で印を組んだ。
すると、音もなく瘴気が首筋から離れ、霧のように散っていく。
「あら? なんだろう? いきなり肩が軽くなった感じがするわ。それに変な疲れみたいなものも取れたし。貴方って、尚食局に勤めているの?」
「あはは。私は東廠に勤めていますから、もしもまた調子を壊したら、庭園中央の四阿頂の近くに来てください。その横手にある建物が、私の勤め先なので」
「そうね、その時はまた、お願いしますね」
そのまま他愛無い話をしながら、東廠のある区画へと歩いているのだが、白梅はあちこちの建物の影、軒下、縁台の下あたりに蠢く瘴気に気がついた。
「それにしても……予想以上に瘴気が漂っているなぁ。これは体調を崩した妃たちも多いんじゃない?」
「え? 瘴気って? まあ、確かに体調を壊して寝込んだ妃たちもいらっしゃいますよ。帝の声掛けもなく、日々を暗い屋敷で悶々と過ごす方もいらっしゃいますし、見目綺麗な下女相手に女色に耽る方もいますからね」
「まあ、色恋を拗らせた負の気っていうところか。その程度なら体がだるくなったりする程度で、命に別状はないだろうからなぁ。あとで洪氏さまにも、説明しておきますか」
──パシッ!!
洪氏の名が出た瞬間、女官が白梅の両手を握りしめる。
「あ、貴方は洪氏さまと親しいのですか?」
「ええ、まあ……直属の上司……に当たるのかなぁ」
「ぜ、是非、東廠にて女官に御用の際は、
頬を染め、クネクネと身をくねらせている玲花をみて、やはりお前もかと白梅はため息を吐く。
東廠にて執務を行なっている宦官は、不思議と麗人が少ない。
その理由は、妃たちが帝以外の男性に対して情欲を持たないようにするためであり、宦官故に褥に呼びこまれても子をなすことは叶わない。
そのような場所故に、洪氏のような麗人は帝の声がけの無い下女や女官たちにとっては憧れであり、心をときめかせるには十分である。
なお、白地の
「はぁ、まあ、あまり迂闊なことを話して血袋にならないようにお気をつけください」
「誰が、女官を血袋になどするものが……ああ、君が白梅を連れてきてくれたのだね、ご苦労さま」
「ふぁ、ふぁい!!」
ふと、東廠の前に辿り着いた白梅と玲花の前に、ちょうど屋敷から出てきた洪氏が声を掛ける。
それだけで玲花は舞い上がり、幾度も頭を下げてはフラフラと雲の上を歩くかのようにその場から立ち去っていった。
「はぁ。女殺しもいいところですね、洪氏さま」
「そういう気は全くないのだけれど。まあ、それよりもそろそろ約束の時間だ。まずは紫瑞妃さまの元に向かいましょうか」
「紫瑞妃というと……ああ、貴妃様ですか」
「そう、後宮の妃の中でも序列一位、最も皇后に近いと言われている方だ。まあ、ちょっと癖があるけれど、それさえ気にしなければ大丈夫だから」
癖……ねぇ。
このような場所に住まう妃ゆえ、癖が少なく垢抜けている女性など存在しないと白梅は考える。
そうして洪氏と共に後宮の北側にある、紫瑞妃の住まう紫瑞宮へとやって来ると、そのまますぐに紫瑞妃に御目通りを行なったのだが。
「これは洪氏さま、この紫瑞宮までようこそ。そちらの方が、木簡に書かれていた相談役なのですね?」
紫の羅紗に銀糸の装飾、翡翠の髪飾りをつけた、ややきつい目線の女性。
そして体全体を覆うような瘴気。
それが、白梅から見た紫瑞妃の第一印象である。
一目見ただけで、彼女がどれほど羨望の目に晒され、多くの妃の嫉妬や妬み、怨みをかっているのかよくわかった。
「初めまして、紫瑞妃さま。東廠の相談役を拝命しました、白梅と申します」
揖礼で挨拶を行うと、紫瑞妃は軽く微笑んで頷く。
「はい、これからよろしくお願いしますね。木簡では女性と記されていましたが……」
「ええ。女性に間違いはありません。仕事柄、男装している方が都合がいいものでして」
淡々と説明する白梅に、紫瑞妃も頷く。
「わかったわ、まあ、貴方のことについては、あまり細かく聞くこともないでしょうから。それはそうと、貴方は相談役といいましたけれど、どのような相談でも大丈夫なのかしら?」
「はい。師父より占いについては一通りの知識を授かりました。また、多くの師範より様々な叡智を授かっています」
にっこりと微笑む白梅に、紫瑞妃も満足したのだろう。
先ほどよりも穏やかな表情になると、近くにある椅子に手をかける。
「そう……ちょっと座らせてもらうわね。どうも最近、足腰が痛み出して……医局の
ちょっとだけ挑発的に感じるものの、心底から困っているのは白梅の目にもはっきりと分かる。
紫瑞妃の腰と足には、瘴気が塊のように張り付いていたのである。
漂い纏わりつく瘴気とは異なり、コブのように塊ができるとなると、それは明らかな怨恨。それも命を奪いかねない怨嗟に、紫瑞妃が蝕まれているのである。
「そうですね。根本的解決にはなりませんが、一時的には痛みを消すことは可能です」
「そんな出鱈目を言わないで頂戴!! 紫瑞妃さまは本当に困っているのよ? 疾医の薬でも治らなかったのに、たかが相談役の貴方に何ができるっていうのよ?」
「そうよそうよ」
「どこの家の方か分かりませんが、そんなに軽々しく紫瑞妃さまに出来るだなんて言わないで頂戴」
「これ、そのようなことをおっしゃってはいけません。白梅さん、下女たちが大変失礼しました
紫瑞妃の左に立つ下女が、白梅を見下すように呟くが、すぐに紫瑞妃がそれを諫める。
だが、彼女をはじめとする下女たちの身体から瘴気が溢れ、その一部が紫瑞妃の足に絡みついているのを白梅は見逃していない。
「はぁ……なんとなく原因も判ってきましたが……私は普通の相談役とは少し異なりますが。こちらの机をお借りして構いませんか?」
紫瑞妃の座る席の向かい、綺麗な花の彫刻が施された黒檀の円卓の前に回り込むと、白梅は懐から木札を取り出す。
「ええ、どうぞ。それで、何を占ってくれるのでしょう?」
「まあ、そうですね……」
木札を裏返し、ゆっくりと混ぜる。
それを束にして傍に置くと、白梅は窓の外を眺めて。
「昼下がりか。まあ、どうとでもなりますか」
彼女の仙術が真骨頂に達するのは月下。
それゆえ、今は魔逆に力が大きく削がれているものの、これだけ要因となるものがはっきりと判っていると、それほど力は必要としない。
「では、これより紫瑞妃さまの身体の痛み、その原因を調べ取り除いてみます」
そのように一言呟くと、木札を上から一枚一枚表向きにし、机の上に並べる。
「花の精、月下の盃、
一つ一つの札を読み上げていると、その場の誰もが固唾を飲んで白梅の言葉に耳を傾ける。
先ほど白梅に苦言を呈した下女でさえ、白梅の手の動き、木札の絵柄と彼女の言葉に心を奪われそうになっていた。
白梅の口から占いの際に零れる言葉、それ自体にも仙気が含まれているため、彼女に対して嫌悪するものでさえ、今は黙って彼女のやりとりを見ているしかなかった。
「そして五枚目が瑞鳥。ええ、簡単ですよ。ちょっと失礼して構いませんか?」
左袖から竹の剣を取り出し、それを左手に構える。
そして右手で木札の一枚、花の精を手に取ると、それを紫瑞妃に向かって掲げ、素早く木札を真っ二つに切り裂く。
──ストン
音もなく竹の剣で切り裂かれた木札が床に落ちると、紫瑞妃の体、特に腰と足のあたりから黒い霧が立ち込め、切り裂かれた木札の中に吸い込まれていく。
その光景は、その場にいる紫瑞妃と洪氏、そして下女たちにもはっきりと見て取れた。
「な、なに、これはなんなの?」
「紫瑞妃さま、これは怨嗟の霧です。負の瘴気が凝り固まったものであり、紫瑞妃様を妬み恨む者たちの執念が集まったもので、これにより紫瑞妃さまの体調はおかしくなりました。でも、もう大丈夫です」
紫瑞妃の体から溢れた黒い霧の全てを吸い込むと、木札は静かに燃え上がる。
「これで、紫瑞妃さまの腰と足は元通り。どうですか?」
「え、あ、あら?」
紫瑞妃が恐る恐る立ち上がるが、先程までの辛さも痛みも何も無い。
寧ろ、今まで以上に腰が軽く、足取りもしっかりしている。
「嘘でしょ!! こんなに簡単に治るものなの?」
「はい。私は疾医ではありませんので、調薬による病の改善はできません。
にこりと笑う白梅。
すると紫瑞妃は彼女の手を取り、大きく頷いた。
「ね、ねぇ、貴方、うちの下女にならない? 洪氏さま、白梅を紫瑞宮付きの下女に頂けませんか?」
「ふぇ?」
「あはは。彼女は東廠のもの故、特定の宮に仕えることはできないのですよ。何卒、ご了承ください」
「あ、あら、あらあら、そうなの……うん、それなら仕方ないわね」
洪氏に諭され、やむなく諦める紫瑞妃。
だが、その彼女の左右の下女たちが、先ほどから腰や足を押さえ始めている。
「そうそう、紫瑞妃さまに纏わりついていた怨嗟の気ですが、今は一時的に切り離し浄化したに過ぎません。今一度、紫瑞妃さまを妬むものがあれば、また瘴気は凝り固まり体を蝕みます……なので」
──スッ
左袖から一枚の木札を取り出し、それを紫瑞妃に手渡す。
「これは、瘴気除けの霊符です。蓬莱山の清水にて摺り上げた朱墨にて記してあります。まあ、それでも駄目な時は、今一度私をお呼びください。手遅れでなければ、たちどころに解きほぐしてごらんに見せますので」
「わかったわ、ありがとう……ひとつ聞いてもいいかしら?」
「はぁ、まだなにか?」
ひょっとして、瘴気払いは自分の腕を試すためだったのかと勘ぐってしまう白梅だが、次の紫瑞妃の言葉に力が抜けていく。
「私にまとわりついていた瘴気って、つまり、誰かの恨みや妬みなのよね? それが解されたということは」
「ええ。瘴気返しもおこなってあります。東洋の島国の諺に、『人を呪わば穴二つ』というものがありまして。呪いはそれを解除されると、自身の元に戻ってくる、それを踏まえて恨みなさい……だったかな? まあ、そんな感じですので、紫瑞妃を呪っていたり恨みを持っていた方々は、ここ数日以内に足腰に耐えられないほどの痛みが伴うかと思いますので」
チラリと紫瑞妃の左右にいる下女たちを見ると、今の言葉に心当たりがあるのか真っ青な顔で立ちすくんでいる。
「そうなのね。まあ、恐らくは他の宮の女官や下女かも知れないわね。紫瑞宮の下女に、そのような不届きものはいないと信じていますから、では、ほんとうにありがとう」
嬉しそうに霊符を抱きしめて、紫瑞妃が礼の言葉を返す。
その表情に納得しつつ、その左右で必死に痛みに耐えようとしている下女に冷たい視線を送ると、白梅は揖礼をおこない頭を下げる。
「では、これで失礼します」
「はい、頑張ってね。洪氏さまも、わざわざありがとうございました」
「いえいえ。それでは私もこれで失礼します」
「はい、お勤め、お疲れ様でした」
そう告げて白梅と洪氏を見送ろうとする紫瑞妃だが、ふと、白梅はあることを思い出し、そのまま彼女の近くに歩み寄る。
「紫瑞妃さま、ちょっとお耳をお貸し頂きますか? これは人には聞かれたくない案件ですので」
「ええ、どうしたのかしら?」
そう問いかけつつ、頭を傾げて白梅に耳を預ける紫瑞妃だが。
白梅が耳元で呟いた一言に、顔中が真っ赤になる。
「では、これにて……くれぐれもお体、ご自愛ください」
「あ、ありがとう」
白梅が最後に、紫瑞妃に呟いた一言。
『帝の下で腰を突き上げるように振るのは、少し控えた方がよろしいかと』
瘴気による痛み以外にも、紫瑞妃の性豪さも腰痛の要因の一つであったとか。
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