魔王無き世の英雄譚~かつて世界を救った『拳聖』は、今生で『剣聖』を目指します~
想兼 ヒロ
【前日譚】砂上に舞う『歌姫』は、高らかに『最強』を唄います
第1話 踏み込む勇気
【こちらは本編でメインとなる時期よりも少し前のお話になります。よろしくお願いします】
クレーゼル。
サラランヌ大陸の東の果てに位置するこの地は、血を血で洗う醜い争いが絶えない地であった。支配者は己が欲を満たすために戦争を引き起こし、民は生きる
かつては、大陸中にその汚名が広がり、好んで移住する者は無かったという。それどころか、西の国家から流刑の地に選ばれたほどだ。まさしく闇の地と言っていい辺境であった。
だが、今のクレーゼルにそんな影はない。なぜなら、この地から大陸全土を照らす輝きがこの地から生まれたのだから。
それは突如襲ってきた。後に魔王と呼ばれる存在が、大陸を暗黒に塗りつぶしていったのだ。暗雲が世界を覆い尽くす。
その魔の手が伸びたとき、人々は結束した。人同士で争っていられる状況ではない。クレーゼルには魔王に対して生き残るための戦争だけが残った。そして、人は勇敢に戦ったのである。
しかし、魔王の勢力は絶大であった。いかに人が心を一つにしようとも、立ち向かうには高すぎる壁であった。人々は徐々に追いやられ、大陸から人の歴史は絶えようとしていた。
その脅威を打ち払ったのが、他でもないクレーゼルの同胞なのである。
その希望の名は、勇者アイヴァン。
大陸中を覆い尽くした魔王の軍勢を相手に、最初はたった一人で強い心を武器に立ち向かった。彼の精神は諦めの境地にいた民を奮い立たせた。魔王は追い詰められ、そして、ついにアイヴァンは信頼すべき仲間と共に魔王を打ち破ったのである。
その英雄
――忌み嫌われた我々の血から、大陸全土を救う勇者が生まれたのだ。
その事実はこの地に生きる者にとって希望となった。胸に宿った誇りは、百年
現状、クレーゼルでは四つの勢力がしのぎを削り、人々の間には不穏な空気が立ちこめている。人々の記憶から消え去った、かつての暗黒の足音が近づいてきてはいる。
しかし、歴史にアイヴァンという輝きが有る限り、本当の意味で彼らが闇に沈むことはないだろう。クレーゼルの民は、心から信じているのだ。勇者生誕の地に住む我々であれば、どんな苦難も乗り越えられると。
「ここ、か。けっこう距離あったな」
歩みを止め
「さて、どうするかな」
胸に手を置いて、しばらく目を閉じる。大きく息を吐いて、緊張を解こうとしていた。ここまで緊張するのは入学試験以来だろうか。
きらびやかな服装をした通行人がちらちらとアルフレッドを見ている。彼らに比べて、アルフレッドの装束は非常に簡素なものだ。自分は場違いである、そんなことは自覚していた。
(これならまだ決闘している方が気が楽だ)
戦いの場で、相手と
ただ、ここは違う。迷い込んだ野生動物の気持ちが今なら分かるかもしれない、とアルフレッドは内心で息を吐く。あたふたと、あちらこちらに右往左往する小動物。
(こう、見られてるだけってのが、むずむずするんだよな)
また一人、通りかかった男が珍獣でも見るかのような視線を向けてきた。挑発に感じて、思わず
「ふぅ」
今度は音を出して嘆息する。
先程から、こうだ。アルフレッドは目的を達成するために誰かに話しかける必要がある。それなのに、近寄ることもできない。遠巻きに眺められているので間合いを詰めることができないのだ。
「なんだよ、俺は悪人じゃないぞ。そんなに怖がるなってのに」
発達途上の
しかし、この場所の者達からすれば、明らかな異分子なのだ。興味を持つ者はいても、鍛え上げた腕の筋肉を見たら震え上がる。最初から警戒するのも無理はない。
(文字通り、住む世界が違うっていうことか)
体に入っていた気合いがしぼんでいくのを感じる。少しだけ、臆する気持ちが顔を出す。このまま敗走したい気分すら生まれる。背中を見せて逃げられるのなら、どんなに楽なことか。
「まてまて」
しかし、ここで引き返しては何のために鍛錬の時間を削ってまで暇を作ったのかが分からなくなる。ここまで入ることができたのだ。先に進むしかない。
彼は意を決して、止まっていた歩みを再開させた。
アルフレッドが足を踏み入れた場所。
そこは彼が所属するモーングローブ学院、その芸術科の領域であった。
勇者アイヴァンの仲間が一人、豪商ソフィアが創設した財団が運営するモーングローブ学院は、クレーゼルの中央に位置している私立学校である。この地の英知が結集し、優秀な卒業生が国の発展に寄与することから、四勢力からも中立と見なされていた。
そんな学院から優秀な戦士を排出することを目的としたのが、アルフレッドの所属する戦士科だ。彼はもちろん学生の一人であり、ここはモーングローブ学院の土地である。当然、アルフレッドもこの場に足を踏み入れる権利はある。ここが芸術科だからと、戦士科の彼が来ることが違反になるわけではない。科を越えての交流はむしろ推奨されていた。
単純に踏み入れづらいのは精神的な理由からだ。アルフレッドにとっても異世界であれば、芸術科の生徒にとっても彼は異物だ。
巡回していた近くの警備員に一瞬ジロリと
「どうも」
しかし、アルフレッドがぎこちなくも
実際、首にかけた学生証さえあれば、ここは素通りだ。物理的な障害はない。門も開放されている。
問題になっているのは精神的な壁なのだ。
「……さっきより増えたな」
中に入れば入るほど、周囲の視線は多く集まってくる。もう少し鈍感であれば楽なのだが、そこは戦士を志すアルフレッド。律儀に全ての視線を受け止めて、その意味を判断している。
さすがに、ここまで多いと最初は
(俺が悪いんだよ。怪しく見えるよな、やっぱり)
芸術科に通う生徒達の中にいて、アルフレッドの方が異質なのは間違いない。逆の立場だったら、自分も奇異な視線を送るかもしれない。
実例が目の前からやってきた。その姿が視界に入ると、アルフレッドは眉根を寄せた。
(すごいな……。あれは、皆気にしないのか)
上半身に塗料を塗りたくって練り歩く男性をアルフレッドは薄めで見送った。彼の目にはかなり奇異に映るのだが、周囲は無反応である。そして
(なるほど、あれがここの普通なのか。それは、俺の方が異物になるよな)
あんなものは珍しくもなんともない。質素すぎる自分の方がこの場にいる人間にとっては珍しいのだ。そうであれば、見られても仕方が無い。別に変装する必要は感じない。奇異な視線は、甘んじて受けようでは無いか。
そう考えると、アルフレッドはずいぶんと気持ちが楽になった。体も、ずいぶんと軽く動くようになってくれて、今度は安堵の息を吐いたのであった。
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