昔語り ティルの憧れ(物語の小さな欠片)

 ティル・スーノリアス。

 それが彼の正式な名前だった。

 今年十五の年を迎えるティルは、六歳のときに大魔導師ウォーティスに引き取られた。以来、彼のもとで魔法を学びながらも、どちらかというと弟子というよりは小間使いのような暮らしが続いている。だが、それも少しずつ変わり始めていた。


「シスさん、水を汲んできましたよ」

 ティルが水のはいった木桶を手に、台所の入り口に立ったとき、ウォーティスの妻シスは鍋の火加減を見ているところだった。

 「ありがとう。そこに置いてくれる?」

 振り返らずにそう応えたシスは、少し間をおいて言葉を続けた。

 「そういえば最近は、カルシャーク様たちといることが多いのね」

 「はい……あの、おふたりとは話しやすいので」

 ティルが気恥ずかしそうにすると、シスは彼のほうを向き、やわらかな笑みを浮かべた。

 「そう。知ってた? あなた、あの子たちといるときはとてもいい顔をしてるのよ」

 そう言ってから、ふと窓に視線を向けた。ティルもつられるようにそちらを見る。風が窓に掛かった薄手の布を静かに揺らしている。

 「今日は風が気持ちいいから、部屋の窓を開けておくといいわね」

 「そうします」

 ティルは照れを隠すように軽く頭を下げると、静かに台所をあとにした。


 シスは普段、聖山の長が住む屋敷の厨房で働いている。話に出たカルシャークやラジャクもそこで暮らしていて、ティルも最近よく屋敷に行くようになった。そのため、シスが三人一緒にいるところを目にすることもあるのだろう。

 先ほどの言葉を思い出して、ティルの耳がほんのり赤くなった。


 広い屋敷の掃除は、ウォーティスの弟子たちのなかでも比較的若手の魔道士たちが手伝っているのだが、ティルは後継者であるカルシャークとその弟ラジャクの世話も任されているため、掃除の手伝いに呼ばれることは殆どない。

 そのため、自然とティルは彼ら兄弟とよく過ごすようになった。

 いずれはカルシャークの補佐を務めるように言われていることもあり、この頃はそちらの役目の比重が少しずつ大きくなってきているのだ。幼いころからの気の置けない幼馴染。そんなふたりのそばにいられることを、ティルは心から嬉しく思っていた。


 部屋に戻ったティルは机に向かい、使い古された書物を開いた。師であるウォーティスの教えが、何度も頭のなかで繰り返される。難解な魔法語を少しでも理解できるようになりたい。ティルはそう願った。

 ティルにとって、ウォーティスは憧れの存在だ。

 彼の語る言葉には不思議な魅力があり、淡々と語りながらも、その目はまるで世界の奥行きを見通しているかのようだった。

 書物をめくるその指先には長い年月を重ねた風格が感じられるし、彼が静かに語り始めるとまるでそこだけが時間の流れが違うかのように、空気の密度までもが変わるのだ。

 そしてどれほど難解な魔法語であっても、彼の手にかかれば、まるで読み慣れた詩の一節のようになる。


 ……自分も、いつかはあんなふうになれるのだろうか。


 ティルはふと思う。

 少しずつ任されることが増えて嬉しい反面、それに見合う力を本当に自分が持っているのか、不安になることもある。それでも、理解を深めて少しでもカルシャークの力になりたかった。

 ティルは窓を少しだけ開き、外の空気を頬に受けながらひと息ついた。

 遠くに目を遣ると、薄黄緑色の小さな動物が駆けていくのが見えた。幻獣の名残といわれる不思議な生きもの、その一匹だ。この間、あの動物の話がちょうど出たときに、ラジャクがとても見たがっていたことをふと思い出す。


 ――そのときだった。


 動物のあとを、子供の影がひとつ走り抜けていった。見覚えのある後ろ姿。ラジャクだ。

 慌てて窓を大きく開けると、風が一気に吹きこんできた。ティルは声をかけようとしたが、ラジャクは木陰の向こうに消えてしまった。

 ティルは迷わず部屋を出た。

 追いついてみると、そこには風に揺れる草花のなかに立ち尽くすラジャクの姿があった。

「ラジャク様」

 ティルが声をかけると、彼は振り返って笑った。

「ねえ、ティル。あれ、見た? 黄緑色で尻尾が二本あった!」

「はい。前に言っていた動物の子どもだったみたいですね」

「やっぱり! でも逃げられちゃった」

 残念そうに言うラジャクの肩にそっと手を添えようとしたとき、背後に気配を感じた。

 ティルが振り返ると、そこに立っていたのはウォーティスだった。

 長いローブの裾が風に揺れている。

「そなたたちが見たのは、風鈴狐ふうりんぎつねの子どもだろう」

 ウォーティスは静かに言った。

「尾がふたつあるのと、大きな耳が少し裂けているのが特徴だ。昔はこのあたりでもたまに見かけたが、今は数が減っている」

 カザム王の頃に天人たちが連れてきたという幻獣たちは、今ではもう伝説のなかにしか存在しない。だが、一部の幻獣たちはこの地に馴染み、長い年月をかけて少し変わった普通の動物となっていったのだという。

「じゃあ、運が良かったのかな」

 好奇心に満ちたラジャクの瞳を、ウォーティスは静かに見つめ返した。

 束の間の静寂のなか、遠くで鳥の声が微かに響く。

 しばらく黙ったまま思案していたウォーティスは、やがて落ち着いた低い声で口を開いた。

「〝あれ〟が姿を現したのは、おそらくラジャク様に惹かれてのことでしょう。追いかけられたので驚いて逃げてしまったようですが、天人イスハークの血を引く者には、ああいったものが自然と寄ってくることがあるのです」

 それを耳にしたティルは息をのんだ。

 カルシャークやラジャクの周りには、これまでにも鳥や動物たちがよく集まってきた。それも――希少で不思議な動物たちがだ。

 ティルはそのことについて、心のどこかで違和感を覚えていた。

 ウォーティスの言葉に、ラジャクは目を輝かせた。

「俺とカルが魔法を使えるからってこと?」

「その通りです。天石も魔術語も必要としない魔法は、天人の血筋を引く者にしか使えません。そしてその力は、幻獣の名残である生きものたちにも伝わるのです」

 ウォーティスはほんのわずか目を細めた。それは、どこか優しい色を帯びた表情だった。

「ですが、それは特別なことではなく、ごく自然なことなのです。花が蝶を呼び、水が鳥を呼ぶように」

 その様子を見ていたティルは、改めてウォーティスという人物の深さを感じていた。

 ウォーティスの言葉には、安らぎがある。難しいことも複雑なことも、彼の口から語られるとまるで優しい子守歌のように心に響いた。

 ラジャクが抱くかもしれない戸惑いや不安を、彼は穏やかな声でそっと包みこんでいる。

 ラジャクが聖山に来たのは、まだ幼い頃のことだ。おそらく彼自身、そのときのことをよく憶えてはいないのだろう。カルシャークほど事情を深く理解しているようには見えなかった。それを察してか、ウォーティスの語り口もどこか丁寧で柔らかな気づかいがにじんでいて、天人の血筋という重い話題さえも、まるで自然の摂理を語るかのように説明しているのだった。


「さぁ、屋敷に戻るぞ、ティル。今日は特別に風鈴狐の話をもう少し聞かせてやろう」

 ウォーティスの視線がゆっくりとラジャクのほうに向けられた。

「よろしければ、ラジャク様もご一緒にいかがです?」

 歩きだすウォーティスに、ラジャクが大きく頷いて駆け寄っていく。それを見つめていたティルの胸に、淡い憧憬の炎が揺らめいた。


 あの背中に、ウォーティスの揺るぎなく悠然とした姿に少しでも近づきたい。

 

 ティルは深く息を吸いこむと、そんな密やかな願いを心に抱いた。

 頬を撫でる風が、まるで彼の心に寄り添うようにそっと吹き抜けていく。

 遠くで風鈴狐が鳴いたような気がした。

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