黎明
「『朽ちし世界の落涙に地は震え! 栄華栄光の喝采に天は嗤う!』」
響き渡る蛮王の詠唱は、エトラヴァルトがこれまでに耳にしてきたどんな唄よりも荒々しく、繊細で、そして猛々しかった。
「『鋼の葬列 弔いの火砲 汝が映すは儚き祈りの残り香と知れ!』」
響く歌声、その“振動”に、ラグナリオンは異質な気配を感じ取る。
「なんだ、この感覚……!? あの男の魄導が、世界に」
「世界に、染み込んでいる……?」
ストラの感覚は正しく、しかし正確ではなかった。
魄導はただ世界に溶け出しているのではない。
バイパーの魄導は詠唱によって増幅され、
真白の生地を染め上げるように。
その様相は、あまりにも異質にして傲岸不遜。
「『来たれ混沌! 創世に前夜なく、滅亡に朝日なし!』」
世界が黄昏に至る。
バイパーの詠唱に呼応するが如く荒天の雲が晴れ、隙間から神々しさを帯びる陽光が地に降り注ぎ、世界に紅を差してゆく。
金色の鼓動が変革の鐘の如く鳴り響く。
臓腑を底からひっくり返すような激しい音に、〈勇者〉アハトは重傷の身を一陣の風と化した。
「『巨人を断つ——!』」
振り抜かれた必殺の一刀を、バイパーは無防備で受け止める。
無駄のない角度で赤肌の巨軀に吸い込まれたアハトの剣は——胸の中程で停止した。
『え——!?』
観戦者全員が驚きに声を上げる。
〈勇者〉の剣が、バイパーの体を断てなかったのだ。
絶大な再生力こそあれど、耐久力という点ではバイパーの肉体はアハトの斬撃に太刀打ちできていなかった。
しかし、今。詠唱に全能力を結集させているにもかかわらず、その肉体はアハトの剣を確かに受け止めた。
敵であろうが、アハトの強さを認めるが故に、その奇妙な光景を前に誰もが当惑した。
「バイパーさんの肉体が、詠唱で硬くなった……?」
「……ち、がう」
違うとなんとなく察しながらも呟いたイノリの膝上でエトが身じろぎした。
「エトくん動いちゃダメだよ! 休んでないと——」
「せかい、が」
イノリの忠告を左手で制しつつ、身を起こしたエトが右胸に手を当てる。
「言葉が……遠く、なってる」
「〈星震わせ〉、お前は——」
魄導で鍛造していた剣を霧散させ距離を取ったアハトは、右手の中の妙な、言ってみれば雲を掴むような不安定さに本能から背筋を震わせた。
「『
一段、バイパーの魄導の密度が濃くなる。
重圧に耐えかねたように世界が悲鳴を上げ、バイパーを中心に大地が砕け、地脈が捩れ、大気が歪曲した。
「『ここに告げるは天地心鳴!』」
この瞬間、ありとあらゆる結界がただの声によって撃砕された。
否、結界だけではない。
世界に対するありとあらゆる強制力が、そよ風によって無価値に帰したのだ。
「『虚実夢幻、遍く
その詠唱を知る者は、この星にただ一人しか存在しない。
そも、〈星震わせ〉バイパーの戦力は謎に包まれている。
いずれの世界も、個人も。上述の一人を除いて、一切がバイパーの力を測ることができなかったためである。
世界の我儘を前に、生き延びた者は存在しないのだ。
「『終点に一人、三界統べる
詠唱が完成する。
戦場全体を席巻する比類なき
「——どいつもこいつも、窮屈じゃねえか」
突然、バイパーは誰かに語りかけるように口を開いた。
〈勇者〉を前に完成した詠唱の効力を維持しながら雑談に興じる恐るべき胆力。
そんなものは今更だと、もはや驚く者はいない。
「やれ規則だ、やれ法則だ決まり事だの……くだらねえ」
そも、驚く余裕がない。
戦場全体を包み込むあまりにも馬鹿げた術式範囲。
「魔法でちまちま弄り回すなんざ間怠っこしいことやりやがって——気に食わねえなら、世界ごとぶっ壊しゃいいだろうが!」
バイパーから香り立つ濃密な鏖殺の気配に、皆、無意識に呼吸を止めていた。
「————」
動かなくてはならないとわかっていた。
ここでバイパーを殺し切らなければ致命的な破綻が発生すると、アハトは彼の持つセンサーの全てが叫ぶ危機から察していた。
だが、動けない。
恐怖ではない。
「……認めよう、〈星震わせ〉」
——それは
「俺は今日……確かに、欲を選んだ」
自分でも抑えきれない高揚に、アハトは追撃を止め、変革を傍観する選択肢を選んだ。
その答えに、バイパーは頬が引き裂けるほど凶悪に笑った。
「『——心界顕現』」
その景色を見た者は後にこう語る——『あれは、一つの世界の始まりだった』と。
「来い……『
◆◆◆
世界が生まれる瞬間を見た。
見上げることしかできない俺たちの前で、バイパーが胸の前で右手を握りしめる。
途端、世界が音を立てて崩れ去った。
バイパーという一人の鬼人を中心にした果てしない引力に、空も、海も、大地も。
世界を構成するありとあらゆる要素が巻き込まれ、攪拌され、原点に戻る。
泥の海、煮えたぎる大地、暁の空。
紫電の雷鳴が轟く空を大地の瓦礫が踊り狂い、天地衆世の一切が混沌へと叩き落とされる。
「……なに、これ」
俺の背中を支えるイノリが、理解できないものを前にしたように震える。
俺たちの真下の足場が無事なのは、果たしてバイパーの計らいか偶然か。
「こんなことが……あって……、エトくん……?」
恐ろしい、怖いと本能が啼く。
もし仮に、かの鬼人の殺意が俺に向けられていたとしたら、俺は太刀打ちできなかった。
「……すげえ」
だが同時に美しいと——憧れを覚えたのも、また事実だった。
◆◆◆
魔法は世界の法則を局所的に、一時的に上書きする。突き詰めれば、魔法に用いる魔力は世界に対する干渉力を秘めている。
闘気は自らの肉体、およびその延長とも言える武具の本来以上の強度や性能を引き出す。突き詰めれば、闘気は自己の変革という能力を有している。
——であるのならば、魄導は。
魔力と闘気、その二つの原型であるこの力は、その両方の側面を併せ持ち、同時に二つを遥かに凌ぐ可能性を秘めている。
「——これを使うのは、テメェで二人目だ」
渦の中心でバイパーが嗤う。
砕けし世界の主は、はじまりの地平で挑戦者を歓迎するように両腕を開いた。
「これが、俺の“世界”だ」
自らの心の在り方を極限まで増幅させ、世界すら塗り替える。
これこそが魄導の窮極。
自らの魂をもって、一つの世界を創造する。
この技術に名前はない。
名付けるのなら、それはきっと世界を有する個々人の個体名になるだろう。
バイパーに、世界の滅亡に紐づけられた滅びは存在しない。
そも、かの者が生まれ育った世界はとうの昔に、バイパーの気まぐれで滅び去っている。
なおも男が生き続けるのは、己の中にもう一つ、世界を有するがため。
「……《
エトははっとして胸に手を当てる。
本の、残滓たちの反応がない。自らの中に確かに息吹は感じるのに、接続を断たれたように力が引き出せなかった。
「——言葉なんざこの世界にはねえよ」
エトラヴァルトの引っ掛かりを解消するようにバイパーは謎を紐解く。
「世界創生の渾沌、それがここだ。生命も、言葉も生まれる前の命の原点。ここには“概念”なんざはなから存在しねえ」
“概念”と“魔法”の無力化、それがバイパーの齎す世界の力。
世界の法則を捻じ曲げるどころの話ではない。
世界そのものを生み出す、まさに“我儘”の権化。
「それでもテメェは向かってくんのかよ、アハト」
「——当然だ」
魄導を圧縮させ剣を生成する。
“剣の概念”などなくとも、
そも、アハトを最強の〈勇者〉たらしめるのは、彼が剣の概念を有するからではない。
他の追随を許さぬ圧倒的な剣の才能。それに胡座をかかない日々の鍛錬。
そして、〈勇者〉となってから手にした信念が、彼を〈勇者〉アハトたらしめるのだ。
「認めよう、俺の非を。俺は今日、使命を蔑ろにした。無意識に、自らの欲望を優先させた。——だが!」
概念を持たずとも、彼は『悠久世界』の〈勇者〉である。
「俺は、悠久の大地に住まう全ての人々を守る誓いを立てた! だからこそ、俺は今一度使命を果たす! 果たさねばならない!」
二刀を構え、アハトは〈星震わせ〉バイパーへと意識を集中させる。
「〈勇者〉の敗北は、悠久の人々の心に影を落とす。俺に、撤退の選択肢はない!」
「そうかよ。だが——テメェの後ろはそうじゃないらしいぜ」
つまらなさそうに、やや残念そうにバイパーがアハトの隣に視線を送った。
空間が撓み、一人の老爺が戦場に現れた。
「〈旅人〉ロードウィル……!」
『——!』
リントルーデの戦慄とした呟きにエトラヴァルトたちの肩が強張る。
ここに来て新たな〈異界侵蝕〉の投入。
いつ、バイパーが気まぐれに“飽きる”かもわからないこの状況で悠久側に増援が現れたことにエト含む海淵側に緊張が走った。
「——撤退じゃ、アハト」
しかし、ロードウィルの言葉はエトラヴァルトたちにとって……アハトにとっても予想外のものだった。
「なっ……爺さん、なんで!?」
「戦力を摩耗させすぎじゃ。シャクティ、タルラー、フィラレンテ……儂らは既に三人の主力を欠いた。肝心のお主も……予想外に消耗しておる」
とりみだすアハトに対して、ロードウィルはあくまで冷静に現状を諭す。
「兵たちの指揮も、彼奴の“世界”で大きく削がれた。最早、挽回の余地はない」
「だが、ここで退けば今後に支障が——!」
「収穫があったと思えば良い。雛鳥が飛躍した、儂らの想像を遥かに超えて——それを持ち帰るとしよう」
——サイレンが鳴り響く。
それは、『悠久世界』の撤退の合図。
即ち、侵攻の失敗を意味していた。
「なんだよ、結局帰んのか」
毒気を抜かれたようにため息をついたバイパーが、虫を払うように腕を振った。
バラバラと、溶け消えるように世界が元の姿を取り戻す。金色の魄導がピタリと霧散し、バイパーは右手の緊張を解いてだらりと肩の力を抜いた。
「其方の乱入は誰にも読めなかった。バイパー、主が積極的に動くのも珍しかろうて」
ロードウィルは視線をバイパーの背後へ侍らせ、エトラヴァルトの灰の瞳の目の前でピタリと停止させた。
「漸く、芽が種を割ったようだのう。——また会おう、若き冒険者たちよ」
撤退を促すロードウィルに従い、アハトは静かに両手の剣を霧散させ、背を向ける。
「……」
撤退の足を止め、今一度振り返った。
「——エトラヴァルト」
名前を呼ばれたエトは、イノリとストラに支えられながらも強い眼差しでアハトを見た。
怯みを感じさせないエトの目に、アハトはやはり、期待をせずにはいられなかった。
「またいずれ、戦場で会おう」
「……次は、俺たちが勝つ」
「ああ。期待している」
たった数秒で、去り行くアハトの背中は見えなくなった。
重傷を負っていたにも関わらず羽根のような軽さだったと、その場にいた者たちは後に語る。
「リンちゃんどーする? 追撃する?」
「不要だろう。こちらも撤退指示を。敵艦隊が戦闘水域を離脱次第、こちらも帰還しよう」
そう言って上空のノルンに指示を出したリントルーデは、未だに立つことままならないエトラヴァルトへ膝をついた。
「——ありがとう、エトラヴァルト。我らの生存は、貴殿のお陰だ」
「……報酬、期待してるぞ」
悪戯っぽく無理やり笑ったエトに、リントルーデは『当然だとも!』と破顔する。
「救護を呼ぶ、ここで待っていてくれ。——話も、あるだろうからな」
「本当にありがとね、エトちゃん!」
「帰ったら、是非、愛について語り合おう」
あからさまに『礼なんてすんじゃねえ邪魔だ消えろ』と圧を放つ暴虐の鬼人に、リントルーデたちはただ一つ、敬礼で最大限の敬意を表してその場を後にした。
残されたエトは、未だ戦場に残るバイパーを見上げる。
「……助かった」
エトの感謝に、バイパーは鬱陶しそうに『ハン』と鼻を鳴らした。
「——クソガキ、《
「……なんで、クソガキ呼びに、戻ってんだ……?」
名前を覚えてくれだろうに、と不満を表明したエトだったが、正直そこにこだわれるほど体力が残ってないため、すぐにバイパーの質問に頷いた。
「……ああ。これで、《
「ねえ待ってエトくん今凄い聞き捨てならない情報が」
「エト様、その辺詳しく説明してください」
「五月蝿えぞ餓鬼ども、後にしやがれ」
「「……!」」
再び額に青筋を立てたバイパーを前に、イノリとストラは揃って黙りこくって首を縦に振った。
「……わかってやってんのか? テメェ、もう後戻りはできねえぞ」
「……俺は、“最前線”だ。今更……戻る気は、ねえよ」
脅しのような意味のない最後通告に、エトに不敵に笑った。
「俺がいるここが……“物語”だ」
「——クカカカッ! 上等だエトラヴァルト」
満足する答えが聞けたと。
ここに来た、助けた意味があったとバイパーは笑う。
「安心しやがれ、もうテメェをガキ扱いはしねえよ」
首を鳴らしたバイパーは、別れを告げるように背を向けた。
「……行くのか」
「ああ、ここにはもう用がねえからな」
別れの言葉を交わすことも、再会の約束をすることもなく、バイパー・ジズ・アンドレアスは踏み切りで地鳴りを起こして『海淵世界』を去った。
途端、限界を迎えたようにエトの体から力が抜ける。
「エトくん!」
「エト様!」
「……悪い。しばらく休むわ」
「……うん。お疲れ様、エトくん」
近づいてくるリディアの高笑いやライラックの声を耳にしながら、エトは確かな満足と共に、存分に意識を失った。
『悠久世界』エヴァーグリーンの宣戦布告により端を発した史上最大の戦争は、『海淵世界』アトランティスの実質的勝利と〈星震わせ〉バイパー・ジズ・アンドレアスの脅威の再認識。
そして、一人の英雄の誕生によって幕を下ろした。
名を、〈黎明記〉エトラヴァルト。
この先の未来に待ち受ける星を巻き込んだ動乱の中心を走る、最前線の英雄である。
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