楽しいほうへ

 エトラヴァルト、イノリ、ラルフの三名がそれぞれの鍛錬に精を出している頃。


「……あの、お爺さん」


「なにかね? ストラ嬢や」


 湯呑みの中に立った茶柱に満足そうに頷き茶を啜ったリンドウに、ストラはむずむずする全身を必死に抑えながら問う。


「いつになったら修行を始めるんでしょうか……?」


「そうだのう。もう暫く、こうしてゆっくりするとしようかの」


 畑と雪原との境界がくっきりと見える場所で、ストラとリンドウは穏やかな陽気に当てられながら“ピクニック”に興じていた。


「あの、もう2日目ですよ? エト様たちが頑張っている今、わたし一人ゆっくりしているというのは……」


 ただ一人時間に身を任せている焦燥に駆られるストラに、リンドウはあくまで穏やかに、ゆったりと接する。


「ストラ嬢や。お主は少々生き急ぎすぎる嫌いがあるのう」


「それは……!」


 数秒、口をつぐんだストラは、深呼吸を一つおいた。


「それは、そうでしょう。わたしは人族です。お爺さんのように長命種ではありません。それに、立ち止まったら、エト様たちはどんどん先へ進んでしまいます」


 湯呑みを地面に置き、少女は拳を膝の上で固く握った。


「こうして、立ち止まっている時間なんて……!」


 俯き加減で声を震わせるストラに、リンドウは感嘆の吐息を漏らした。


「……健気だのう。全く、うちの馬鹿娘にも少しは見習ってほしいもんじゃよ」


 ふらふらと出て行っては数年単位でたまに戻ってくる。酷い時は四十年も音沙汰なし……そんな放浪娘なカルラにリンドウは悪態をついた。


「でもまあ、あれじゃ。ストラ嬢や。もう少し、肩の力を抜きなさい」


「肩の力を……?」


 優しく、しかし力のあるリンドウの言葉にストラが小首を傾げた。


「うむ。何もうちの馬鹿娘のように雑に生きろ、と言っているわけではない。もう少し……拳一つ分、ゆとりを持ってみなさい」


 砂糖菓子を舌の上で転がし、溶かし。リンドウは豊穣の地の温もりに身を委ねる。


「選べる道は、無数にあるんじゃよ。お主がどう選ぼうと、選ぶ気が無かろうと。道は、たった一つしかないわけではない。深呼吸をするんじゃ」


「……わたしは、エト様のお傍を離れるつもりはありません」


「それでも良い。じゃが、それ以外の道も確かにある。ストラ嬢や。目を向けるのは、決して悪いことではない。寄り道も、休憩も、広義的には前進だと儂は思う」


 リンドウは湯呑みを傾け、ひらひらと舞ってきた花びらを一枚、茶の表面に浮かせた。そして、躊躇いなくそれを飲んで、食んだ。


「……うむ。やはり、不味いのう」


「お爺さん、なんで今、わざわざ……?」


「なに、そうしてみたくなっただけじゃよ」


 ただ味が気になったから。食感や風味がどんなものなのか、昔と味覚が変わった今、違う味わいができるのか。ふと目に入り、試してみたくなっただけのことだと老爺は笑う。


「あいも変わらず不味いのう。見た目は綺麗なんじゃが」


「……綺麗な花には毒がある、と言いますから」


「そうかい。では今度、綺麗な花を探してみるとしようかのう」


 まるで子供のようにリンドウは「どんな味がするのかのう」と声を弾ませた。


「不味いと分かっていて、食べるんですか?」


「もしかしたら美味かもしれんじゃろう? ……ストラ嬢や。言ったであろう? 肩の力を抜きなさいと」


 リンドウは木の枝を拾い、地面に一本縦に線を引く。


「人生は短い。焦る気持ちはよくわかるとも。必要なこととそうでないこと、それらを二分して生きるのは効率的じゃ。……じゃが、それだけではつまらぬよ」


 深い知性を宿した瞳が、ストラを真正面から射抜いた。


「ストラ嬢、をやりなさい。必要、不必要だけで物事を取捨選択するのは確かに一つの手段だろうて。じゃが、短い人生だからこそ、楽しむことを忘れちゃいかんよ」


「楽しむ、ですか」


「そうとも。ストラ嬢は、本を読むのが好きなんじゃろう? その理由は、単純な知識欲だけではないはずじゃ」


 言われて、ストラは自らが本を読んでいる時のことを思い返す。


 本を読むのは、少女にとって唯一、進むための手段だった。何もできない、誰も守ってくれない、誰も同族がいない孤独な世界で唯一拠り所にできるのが本だった。


 最初は逃避だった。現実から逃げるように活字の世界にのめり込んだ。だが……


「そう、ですね」


 自覚する。

 そこには確かに、“娯楽”があった。


「本を読むのは……楽しいです」


 その言葉に、老爺は満足げに頷いた。


「肩の力を抜きなさい。もっと首を回してみなさい。世界は、お主が思っているよりずっと面白いものじゃよ」


 リンドウは、「ここから出たことがない儂ですら新たな発見があるんじゃから」と朗らかに笑う。


「自分の心踊る方へ、好きに進んでみなさい。己を縛る未来に、魂の躍動はあり得ないものでな。儂が見ているから、なんでも好きにやってみなさい」


 それは、二人の間でだけ伝わる、修行開始の合図だった。


「わかりました。やってみます!」


 いつもより少し声音を弾ませてストラは立ち上がった。

 両手の拳は、いつのまにかほぐれていた。




◆◆◆




 豊穣の地には、土地を四角で囲った頂点に四つの物見櫓が存在する。

 それらは繁殖の竜の侵攻をいち早く察知するためのものであると同時に、周辺の積雪量及び気温、湿度、豊穣の地のなど、あらゆるを観測するための施設である。


「……おいこれ、どう思う?」


 その日、櫓の上で直近一ヶ月のデータを集計していた男はその明確な変化に表情をしかめ、共に監視業務に就いていた友の襟を引っ張った。


「え? いや、積雪量減ってんな〜ってくらいにしか。ん? でも敷地面積は減少傾向……?」


「待て、お前今いくつだ?」


 友人の反応が想定していたものとは違ったことに、男は友人に年齢を確認した。


「ええ? 正確な年齢なんて100から先は数えてねえよ……」


「ざっくりでいいから!」


「ざっくりの方が余計わかんなくね? うんと、多分200くらい?」


 ——ああ、やっぱり。


 男は友人の年齢に、自分の中での違和感が氷解する感覚を得た。


「……そうか。お前は知らないのか。そうだよな、もう四百年も前のことだし」


「急になんだよ。このデータがなんかあんのか?」


 ぶつぶつと何事かを呟きながら過去のデータを漁り始めた男に、襟を引っ張られた友人は一人思考を置いてけぼりにされていた。


「積雪量の減少は繁殖の予兆なのは知ってるよな?」


 そして、唐突に基本情報のすり合わせを始めた男を怪訝に思いながらも頷く。


「ああ。そりゃ何十年もやってりゃな」


「なら、積雪量のは何を指すと思う?」


「え……?」


 わからず、若い鬼人族は閉口した。

 少し待ってから、四百年前を知る男が答えを口にする。


「繁殖のだ」




◆◆◆




 個別鍛錬開始4日目。

 この日の夕食は、普段よりも随分と賑やかなものだった。


「すみれ様、配膳は拙が致しますゆえ……」


「そっそそそそそそっそんな恐れ多い! 巫女様の手料理をいただけるだけでアタシは十分で……!」


 既に口の端から涎を垂らすスミレ。が、しかし。


「すみません、すみれ様。本日の夕餉はえと様がおつくりになったもので——」


 瞬間、スミレの両のまなこがキキョウの後ろから土鍋を運んできた俺をぎょろりと睨みつけた。怖えよ。


「おいこらクソガキ。巫女様に手ェだしてんじゃないだろうな? ええ!?」


「今の2行のどこにんな要素があったよ!? なんもしてねえよ!」


「巫女様を前にして何もしねえとかアンタそれでも男か!!?」


 無茶苦茶だ。


「お前は俺にどうして欲しいんだよ!? あと料理運べねえから退いてくれ!」


「ここ1週間何をしてきたのか一切合切話すまでここは通さん!」


「邪魔すぎる!!」


 勝手に限界になって勝手にブチギレて俺に八つ当たりをしてきたスミレを押し退け諸々の料理を運ぶ。


 スミレだけでなく、ラルフの師匠役であるスズラン。あと何処かから嗅ぎつけてきた葉っぱ三姉妹のワカバ、フタバ、ヨツバもいる大広間は大変賑やかだった。


ねえやんあんだけ食べてなんで太らんのー?」

「おっちゃんたちいい食べっぷりだって褒めてたー!」

「たくさん食べてるのにぺったんこー!」


「あ、あははー。な、なんでだろうねー」


 三姉妹の無邪気な言葉にイノリが青筋を立て、その隣ではスズランが爺さんの姿を探し、ストラに問う。


「あれ、今日は爺さんいねえんだな。ちんまい少女、なんか知ってるか?」


「お爺さんは今日野草を食べてお腹下したので不参加ですよ、ヘタレガッツリスケベ2号」


「おいラルフぁ! お前のせいで俺まで不名誉な呼ばれ方されてんぞ!?」


「なんでそのあだ名が俺だって思ったんだよ! ええ!?」


 陽が落ちた今からが本番だとでも言わんばかりに全員超ハイテンションである。

 隣で鍋敷きを広げるキキョウは賑やかな皆の声に耳を傾け、楽しそうに肩を震わせた。


「やはり、賑やかなのは良いことです」


「迷惑じゃないなら良かったよ。普段は爺さんと二人なのか?」


「そうでございますね。拙とお爺様、二人きりで」


 その言葉には、どことなく寂しげな気配があった。


 ……キキョウは、実の母から魔眼を継承したと言っていた。そして、その母は既に他界しているとも。


 彼女は、自分の父親について……家族について何も語らない。おそらく戦場で散ったのだろうと、俺は勝手に思っている。わざわざ根掘り葉掘り聞くものでもないし、本当ならそれは無遠慮な詮索になる。


 この屋敷は、盲目の少女と老人二人だけではあまりにも広すぎる。


「キキョウは、こういう賑やかなのは好きか?」


「はい。とても」


「なら、明日も明後日も……こうしてみんなで集まるか。アンタが嫌じゃなければ、だけど」


「明日も……」


 俺の提案に、キキョウは少し、頬を緩めた。


「それは、とても楽しそうでございますね」



「——あ! あんちゃんが巫女様に粉かけてる!」

「にーたん、本命ほんめーは巫女様だったのか!」

「修羅場だー!」



 ——紫紺の魄導と、時間魔法が視界の端にチラついた次の瞬間、俺の両肩に二つの手がぽんと置かれ、そして、万力をもって握りしめた。


「まあ、待て。落ち着こう。早とちりだ」


 俺の訴えは、届かなかった。


「エトくん、正座ーーー!!」

「クソガキィ! アンタやっぱり手ェ出してやがったなぁ!?」


 悲鳴を上げる両肩に俺の頬が引き攣った。


「おいスズランぁ! アンタこの子らをどんだけ耳年増にするつもりだぁ!!」


「今回は俺無実なんだがぁ!?」



 行儀の悪い騒ぎながらの食卓。多めに作ったはずの鍋は、十人でつつけばあっという間になくなってしまった。




◆◆◆




 賑やかなのは苦手だ。昔を思い出してしまうから。

 騒がしいのは苦手だ。記憶が上書きされそうだから。


「……エトには悪いことしたわね。せっかく誘ってくれたのに」


 夜のとばりが降りる丘。白い花を咲かせる木と向かい合い、カルラは一人酒を飲む。


 木の根元に置いたお猪口に注がれた酒の表面が微風に揺れる。

 自分が持つお猪口の中身だけが減っては増えてを繰り返す様にため息をついた。


「昔の私は何を思ってこれを飲みたがったんだか。……こんなんじゃ酔えないわよ」


 本当は覚えている。

 酔っ払って記憶を飛ばしている祖父を見て、「ああはならないように」「でもお酒は気になる」からと、無二の親友と二人で「成人したら飲もう」と誓ったのだ。


「……今日も、飲んだのは私だけね」


 根元のお猪口を取り、一気に呷る。


「おやすみ、モミジ」


 空になった酒瓶とお猪口二つを持って、カルラは後ろ髪を引かれるようにゆっくり、丘を下った。

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