煩悩と乙女心

 世界に入ってまず目にしたのは、青と、囲む緑。


 『湖畔世界』フォーラル。

 世界の70%を湖が占め、その周囲で穏やかな緑が育まれる自然溢れる世界。

 我らがリステルの平凡な領土やアルダートの剣呑な山岳を見てきたからか、地上と空に溢れんばかりに存在する青は新鮮で、俺たちは思わず声を上げた。


「すっげー!」

「すっごーい!」


 積荷を崩さないように気をつけながら前を向き、俺とイノリは身を乗り出して世界を眺めた。


「エトくん見て見て! あそこ、船がたくさん!」


「ほんとだ! めっちゃある!」


「アレがこの世界の移動手段なのかな!?」


「俺、船乗るの初めてだ!」


「私も!」


 湖どころか最早海だろ、と言いたくなるような巨大さ。山上から見渡す必要もなく見える、中央に座すとんでもない広さの湖は、もうその一つだけでリステルが収まるじゃなかろうか。


「これ、アルダートより広いよな?」


「ね! こうしてみると、っていうのも実感できるね!」


 世界は、その一つ一つが持つ力によって領土が違う。

 七強世界を除いた世界が“大世界”、“小世界”と呼ばれるのは比喩でもなんでもなく、世界毎の大きさが違うためだ。


 リステルは、いにしえの呼び方で“国”と呼ばれる程度の領土しかないが、七強世界ほどともなるとその数十倍……否、数百倍以上の途方もない領土を持つだろう。


「異界の場所はエルマに聞いたんだっけか」


「うん。あの馬鹿でっかい湖の中央に島が見えるでしょ? あそこだって!」


「うげえ……こりゃしんどい探索になりそうだなあ」


 無限にテンションを上げていくイノリとは対極的に、俺はこの先に待ち構えているであろう過酷な探索に思いを馳せ、既にグロッキーになっていた。




◆◆◆




 商団とアザールたちと別れを告げ、俺たちは早速異界に向かうことにしたのだが…………。


 船に揺られる。

 湖畔世界の湖は、全てが繋がっている。

 中央に鎮座する巨大な湖から流れ出た水が川となり、周囲の窪地に溜まり、それが湖となり今の形を形成したそうだ。


 エーテル結晶体を燃料にした川登り専用の船の上で、俺は吹き抜ける風の中、舞い散る吐瀉物に目を覆った。


「おろろろろろろろろろろろろろろろろろ…………」


 ガッツリ船酔いしたイノリは、せめて船は汚すまいと甲板から身を乗り出し、それはもう盛大に吐き散らしていた。


「深呼吸だぞー、ゆっくり息吸ってー、はいて……あ、吐いちゃった」


 そして、特に酔わなかった俺はイノリの背中をさすりながら吐瀉物の行方を死んだ目で追いかけていた。

 わあ、水面に魚がうじゃうじゃ寄ってきてる……。


「魚、好きだけどアレは食べたくねえな……」


 見境なく喰らいつく魚たちを引いた目で見ていると、横に人の気配。カツ、と甲板を鳴らしたレギンスが目に入った。


「フッ……俺は美少女の吐瀉物ならウェルカムだぜ?」


「………………」


「まあ待て、剣を握るのはやめろ。ここは穏便に行こうじゃないか! な!?」


 出会い頭にとんでもねえ変態発言を繰り出した男に軽蔑の視線を投げかける。

 燃えるような赤髪。黄金色の瞳には妙な引力がある。「キラン」と謎の効果音を発してはにかむその表情はイケメンそのものなのだが、初対面でファーストエンカウントの印象が酷すぎて何も情報が入ってこない。


 赤髪の変態男は腰のポーチから銀の登録証を取り出して俺に見せた。


「ラルフだ。そこの子と同じ銀五級の冒険者だよ!」


「それがどうかしたか? 変態」


「お前当たり強えな!? いや待て! その剣はまずいだろ! 落ち着け! 俺はただ同業者に挨拶しにきただけだ!!」


 ラルフは両手をあげて降参の意を示し、俺も俺でこんなやつ斬りたくないから鞘に収めた。


「アンタらアレだろ? 変異個体イレギュラーを討伐したっていう二人組」


「……なんで知ってんだ?」


 眉を顰めた俺に、ラルフは「知らないのか?」と意外そうな顔をした。


「昇級会議ってのは月に一度、定期的に行われてんだよ。で、昇級したやつは各世界のギルドに張り出されてんだ。注目の的だったぜ、特にアンタ。登録三日で危険度4を倒したって話題になってた」


 そう言ったラルフは、悲しそうに空を眺めた。


「なんでだろうな……俺だって登録一ヶ月で銀に上がった有望株なんだぜ? リズベンドの異界を一人で二つ踏破したってのにさ」


「一人でか、そりゃ凄いな!」


 実際、驚くべき、賞賛すべき記録だ。

 冒険者登録から一ヶ月足らずで単身、穿孔度スケール3の異界を二つ踏破するなんて凡百の人間にできるものではないだろう。


 自分を指標にするのは少し憚られるが、イノリと二人で踏破を成した俺ですら「辞めておけ」と紅蓮に止められたのだ。ラルフはそれを成したのだから、彼は現状、俺たちの一歩先を行っていると考えるのが自然だ。


 俺の純粋な、心からの賞賛が刺さったのか、ラルフはおいおいと泣き叫んだ。


「そうだよ! 俺は凄いんだ! なのに! なのにアンタらが話題掻っ攫っちまったんだよ! なんだよ登録三日で危険度4を討伐って! なんだよ飛び級昇格って! ズルすぎんだろ!!」


「……なんか、ごめん」


 確かに、側から見ればイノリとラルフは同じ銀級昇格。そして、同じ穿孔度スケール3の踏破となれば、討伐した魔物に目が行くのは自然と言える。


 本来であれば十分に注目してチヤホヤされたであろうラルフは、俺とイノリによって話題を掻っ攫われたのである。


 おいおいと情けなく涙を流すラルフ、未だに酔いが治らず最早無を吐き出すイノリ。二人の頭と背を撫でさする俺。

 そんな俺たちを遠巻きに見つめる他の乗船客。


「……地獄だ」


 景色を楽しんでいる余裕は、ぶっちゃけなかった。

 簡易地獄はラルフが泣き止み、イノリが気絶するように寝るまで続いた。



「……弱小世界の騎士ねえ。風の噂で聞いて眉唾物だって思ってたけどマジだったんだな」


「本当に残念ながら真実だよ……はあ」


 その後、眠ったイノリを背負いながら、俺はラルフと甲板で手すりにもたれかかり雑談に興じていた。


「できれば一生、リステルに引きこもってたかったんだけどなあ……」


「なら、なんで冒険者始めたんだ?」


「上の命令だよ。今、財政がヤバくてな。んだと」


「そりゃまた、とんでもねえ命令だな」


 言葉の正しい意味を一度で把握したラルフは、俺の行先に待ち構える困難を思ったのか「うへえ」と舌を出した。


「んじゃ、そっちの嬢ちゃん……イノリちゃんは?」


「イノリか? イノリはアレだ、逸れた兄貴を探してんだと」


「へえー。冒険者ってのはいろんなもん背負ってんのな」


 どこか他人事のようにラルフは呟き、ぼんやりと憂を帯びた表情で空を眺める。


「そういうラルフは、なんで冒険者を?」


「可愛い女の子たちにモテてチヤホヤされたい」


「いっそ清々しいほど欲に忠実だなお前」


 その欲望にあの変態発言はかなりの足枷になるのではないだろうか。

 ラルフの未来を勝手に案じていると、そのラルフが肩を縮こまらせ顔を寄せ、内緒話をするように口元に手を寄せた。


「真面目な話さ、冒険者の女ってみんな可愛くてエロくないか?」


「…………まあ、確かに」


「だろう!?」


 ラルフの発言に偽りなく。


 冒険者は、だらしない体型では決して生き残れない。

 死線を乗り越えるために鍛錬と実践を重ね、肉体は徐々に理想形に近づいていく。

 当然、皆スタイルが良くなるのだ。


 今気絶しているイノリも健康的な肉付きをしており、異界の行軍で鍛えられた臀部やすらりと伸びる脚はかなり魅力的だ。本人には絶対言わないけど。


 俺の同意がよほど嬉しかったのか、ラルフはノリノリで自らの想いを力強く語る。


「俺はさ、思ったんだよ。『冒険者の女にモテたい』って」


「……なるほど?」


「俺は特に気の強い女が好きだ。年下も年上も関係ねえ。エロい体をした気の強い女にチヤホヤされてえんだ……!」


「そこまで貫けるの、お前すげえよ」


 初対面の相手に恥ずかしげもなく自分の欲望を開示する様はいっそ男らしかった。


「だから俺は鍛えた! 自分の体を、剣技を、体技を、可能な限り! 同時に異界のこと、魔物のこと、冒険者としての心構えも調べ尽くした!」


「なんでやつだ……!」


 性欲一つで、人はここまで戦えるのか。

 俺は人間の可能性に感動すると同時に、こんなのが同期であることにある種の虚しさを覚えた。

 なんというか、学園時代の同僚に似ていて悲しくなる。


「俺の準備は完璧だった! デビューの舞台はリズベンド! 二つの異界を踏破し、一足飛びに銀級へ! そしてフォーラルで『噂の新人』としてチヤホヤされて始まるモテモテライフへの第一歩……そうなるはずだった!! なのに!!」


「俺たちがぶち壊しちまったのか……」


「顔が良い男女のパーティーってのも話題性に事欠かなかった!……俺は憎んだ!!」


「ええ……」


 いきなり隣のやつから憎悪を向けられ、俺は困惑するしかなかった。

 情緒が不安定すぎる。


「俺が一人過酷な道を進んでいた頃に、コイツらはイチャコラと仲良く異界デートを楽しんでいたんだと考え、俺は憤った……!」


「八つ当たりがすぎる!」


「まあ違うなってことはすぐにわかったんだがな」


「そ、そうか」


「それでも羨ましかった!!」


「そうか……」


 その後も、ラルフによるモテモテ計画の演説は続いた。

 恐ろしいことに、この男は熱量に比例した知識量をちゃんと持っており、俺たちなんかよりよっぽど異界と魔物に詳しかった。

 こんなのに学ばされるのは正直悔しくて仕方ないが、知識に対する貪欲さは見習うべきなのだろう。


「……ところでエト、お前、どんな女がタイプだ? 因みに俺は、ぽわぽわしていてのほほんとした優しい女だ」


「さっきと真逆の趣味を提示すんな。守備範囲広すぎるだろ」


 ツッコミながらも、この短時間でラルフに毒されてしまったのか。俺の脳は勝手に俺の好みをピックアップしていた。屈辱だ……。


「……俺は体鍛えてる子が良いな。全体的に引き締まってると良い」


「ほう、話がわかるじゃねえか」


「あと……胸はでかい方が好みだ」


「ほう、話がわかるじゃねえか!」


 なぜ、騎士にもなってこんな学園時代の頃のようなアホの会話をしているのだろうか。

 勝手に脳が懐かしんで、俺自身結構楽しんでいることが何より悔しい。


「因みにエト、お前交際経験は?」


「ないぞ。一人だけ嫁を自称する奴はいたが」


「なんだその羨まけしからん情報は!? お前は……っ! お前はどこまで俺の先を行くんだ!?」


「お前はどこを目指してんだよ……で、ラルフは? 経験あるのか?」


「フッ……あると思うか?」


 ラルフの目尻に浮かんだ涙があまりにも哀れすぎて、俺はゆっくり目を閉じ、空を見上げた。


「大丈夫。これからだ……!」


「ああ。俺のモテモテライフはこれからだ……!」


 多少欲望は隠すべきかと思うが、このポジティブさはコイツの立派な長所だろう。見習わないが。


「そういやエト、お前体鍛えた胸のデカい女が好みって言ってたけど、そんじゃイノリちゃんは対象じゃないのか?」


「ん!?」


 突然ぶっ込まれ、俺は思わず反射で答えてしまった。


「あー、そうだな。というか、イノリはパーティーメンバーだし。特にそんなことは考えてな——」


「……ふぅん。そうなんだ」


 ミシ、と。

 首に回されていたイノリの両腕が俺の頚骨を圧迫した。


 俺とラルフの顔が物理的に青くなる。


「エトくんは胸の大きい子が好きなんだー。へえー、ふーん?」


「あの、イノリさん?」


「んー? なに? エトくん」


 締め落とされそうになりながら必死にタップする俺の抵抗を無視して、イノリは俺の背で奇妙な“圧”を放つ。

 俺は視線でラルフに「お前気づいてたのか?」と訴えかけると。ラルフは必死に首を横に振った。


『——湖畔・ウェラルージに到着しました。乗船中のお客様は、お忘れ物になきよう、係員の指示に従い下船を開始してください。なお、乗り換えにつきましては———』


 アナウンスが鳴るや否や、イノリはあっさりと俺の拘束。解き、一人づかづかと下船してしまう。


「ちょ、イノリ! 船酔いはもう平気なのか!?」


「平気だよ!」


「それなら良いんだが……ってちょ、一人で行くなよ! 後ラルフ……あいつ逃げ足速えな!?」


 事態の悪化を察知し遁走したラルフを次会った時に処すことを心に誓い、俺は大急ぎでイノリの後を追った。

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