第95話老舗酒蔵の次男、麹で覚醒する 其ノ陸
ほんの数週間不在にしていただけにも関わらず、下の町は眩暈がするほど懐かしかった。いつもの野菜売り、いつもの蕎麦屋……喜兵寿は笠で顔を隠し店に向かう。
「太陽がまぶしくて堪える」と直には言ったが、本当は誰とも会いたくなかったからだった。今話しかけられたとて、苦しさが増すだけなのは目に見えている。
港から数十分。柳やは、出発前と変わらぬ佇まいでそこにあった。戸を開けると、シンっと冷たい空気があたりを包む。思わず「ただいま」と言いかけて、喜兵寿は言葉を飲み込んだ。
つるは、もうここにはいないのだ。
その事実が喜兵寿を貫く。肌の表面が泡立ち、手先指先から血が抜け落ちていくようだった。
「……っ」
唇を噛む喜兵寿の横で、しかし直はあっけらかんと「たっだいま~」と店の中に入っていった。
「ああ、やっぱりここは落ち着くな。ってか麦芽!できてるじゃん!」
そういって台所の中に駆け込んでいく。そこにはたらいに入った麦が置いてあった。直は麦芽を手に取ると、日の光にかざす。
「さすがつる!ちゃんとできてる」
のぞき込むと、そこには茅色の麦があった。手を差し込むとサラサラと指の間をすり抜けていく。しかしその一つひとつに、爆ぜるような不思議な生命力があった。
「頑張って作ったんだな……」
喜兵寿は、麦芽を一粒口の中に放り込む。それは噛みしめるごとに香ばしさが広がっていき、気づけばぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……うまいな」
「うん、うまいな。よく一人でここまで仕上げたよ。つるは大したもんだ!」
直が喜兵寿の背中を叩きながらいう。
「でもこれをビールにしたら、もっとうまいぞ!さ、泣いてないで、ちゃっちゃとビール造りに取りかかろうぜ」
「……ああ。そうしよう」
喜兵寿は大きくひとつ深呼吸をすると、立ち上がった。
「まずは酒蔵にびいる造りを開始する旨、伝えてくる。その他びいる造りに必要なものはあるか?」
「いよいよだな!」
直はにやりと笑う。
「大きな鍋と竈、はここにあるだろ」
台所を物色しながら、直はビールの醸造工程を思い浮かべていく。ミリング(麦芽粉砕)や糖化など機械を用いて行う現代の醸造方法とはもちろん勝手が違う。しかしその事実がたまらなく直を奮い立たせた。
「あ、ビールは温度管理が重要になんだけど……ここではどうやって温度を測るんだ?!」
温度計はさすがにちょんまげの時代にある気はしない。しかし日本酒を造っているということは、なんらかの手段で温度を把握しているはずだ。
直が聞くと、喜兵寿は手のひらをこちらに広げて見せた。
「手だよ」
「は?」
「温度とは火の加減のことだろう?それだったら手のひらでわかる」
喜兵寿の言葉に、直は目を丸くした。
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