(2)不可能犯罪

 ヘンフリーがローバー邸を弔問に訪れたのは、平民とはいえ年長者のベテランである政敵に対する敬意もそれなりにはあったが、敬意を払える自分をアピールするという、無意識の意図もわずかにあった。貴族は平民と違って度量が大きくあるべきだ、というだいぶ偏ったプライドが彼にはあった。

「私は議員とは政敵の関係にあったとはいえ、真っ正面から論戦を挑まれる氏には常に敬意を抱いておりました。ローバー氏の無念は、我らが誇り高きメイズラント警視庁が必ず晴らしてくれましょう」

 下院議員夫人にデイモン警部と同じような事を言って、ヘンフリーはローバー邸を辞した。帰りの馬車の中でヘンフリーは秘書にたずねた。

「捜査は始まったばかりとは思うが、何者の仕業であろうか」

「はい、名刑事であるデイモン警部率いる捜査班がすでに動いているそうですが、まだ我々の耳には進展の報はございません。いずれ都度報告が上がってくるでしょう」

「一人の政治家が殺されたのだ。私とて他人事ではない。犯人を早く捕らえて欲しいものだ」

 ヘンフリーの心配は、他の議員たち全ての心配であった。



 まず、デイモン警部率いるメイズラントヤード重犯罪課の捜査員たちは、怪しい人物の目撃情報についての聞き込みから始めた。


 ローバー邸の人間はメイドが二人と男性の使用人が一人という、それなりに収入がある議員としては比較的質素なものだった。

「はい、私は、その時間にはいつものように邸内の掃除をしておりましたわ」

「私も、朝食の後片付けのあと、洗濯をする予定でした。二人とも邸内におりました」

 やや年のいったメイドと、若いメイドがそれぞれそう答えた。聞き込みの刑事は、聞いたままメモを取る。

「では、使用人の方は?」

「奥様に言われて、台所で棚だとかの配置換えをしていたはずです。ほら、この小さい棚。これはもともと、そっちの壁につけてありました。洗い物をしている時、見ていました」

 若いメイドは、そうローバー議員の夫人と使用人のアリバイを証明した。つまり、証言を信用する限りでは、ローバー邸の人間にはアリバイがあるという事だ。


 次に聞き込みが行われたのは、事件の前数日間にローバー邸に出入りしていたという、リンドン市内に事務所を持つ画商だった。


「では、あなたは事件の三日前に、ローバー邸へ注文の絵画を届けたのですね」

 画商の事務所の豪華な応接間で、重犯罪課の刑事がメモ帳を手に訊ねた。やや太った、細いカイゼル髭を生やした中年の画商は手短に答える。

「そうです」

 画商は言いながら、チラチラと時計を気にしている。

「すみません刑事さん、あと15分ほどで大事なお客様がいらっしゃるので、日を改めていただくか、手短にお願いします」

「わかりました。では、あなたは狙撃銃の扱いの経験などはございますか」

「なんですと?」

 画商は、目を丸くして相手の正気を疑うように見た。

「私が殺人事件の犯人だとでも?」

「いえ、参考までにお聞きしたのです。形式的なものです」

「形式ね。いいでしょう、猟銃なら扱えますよ。猟のクラブに所属していますので。護身用の拳銃も扱えます。しかし、狙撃銃などは触った事もない」

 憤慨しつつ、画商はのけ反り気味にそう言った。

「だいいち、仮に私が狙撃銃を扱えたとして、どうしてお得意様のローバー議員を殺害しなくてはならないのです?冗談じゃない、ローバー議員は商売上の事とはいえ、懇意にしていただいた方です。お買い上げいただいた絵まで銃弾で穴を開けられて、私だって犯人をこの手で絞め殺してやりたい」

 捲し立てたうえに物騒な事を言ったので、慌てて刑事は制止した。

「わ、わかりました。ご質問は以上です。ご協力ありがとうございました」

 ふん、と鼻息を荒らす画商を横目に、刑事はそそくさと事務所を後にした。


 けっきょく最初の聞き込みの段階では、不審な行動を取っている者も、怪しい人影を見かけたという者もいない事がわかった。

 聞き込みを捜査員たちに任せているあいだ、デイモン警部は犯行現場の状況を確認していた。狙撃銃を扱える人間というのは、そうそう多くはない。弾丸も壁から回収できたので、あとは狙撃地点の割り出しができれば、目撃情報などから犯人の特定は可能であろうと、老刑事は見込んでいた。


 ところが、である。警部らは早々に頭を抱える事となった。

 警部の前には報告書を携えた捜査員たちが立っていた。だが、彼らもまた一様に、首を傾げていた。

「確かなのだな」

 警部は、問い詰めるように捜査員の目を見た。

「間違いありません。鑑定の結果、弾丸は9x19mm弾。つまり使われたのは、拳銃です」

「ばかな」

 警部の驚きは、他の刑事たちも同様であった。警部は唸った。

「状況から見て、ローバー氏は二階の窓の外から長距離狙撃されたとしか考えられんのだぞ。窓の南側正面方向に、拳銃の射程距離を確保できるような足場は存在しない。それとも犯人は窓に梯子をかけて、窓まで登って撃ったとでも言うのか」

「あり得ませんね。そんな事をすれば、梯子をかけたり登ったりする物音で邸宅のメイドか誰かに気付かれたでしょうし、部屋にいるローバー氏は気付くはずです。だいいち、事件の前後に何者かが立ち入った形跡は今のところ見当たらないのです」


 捜査員の報告によれば、全体の状況は次のようなものである。窓の正面外は向こう700メートルに渡って、直線状に建物が存在しない。ローバー邸の南側は狭い庭になっており、木や柱はなく、子供が隠れる程度の高さの生け垣を越えると道路があって、ミラーやベル線の柱が立っている。

 あとは草原と極めて背の低い茂みがいくつか見え、650mあたりに建物の二階にやっと届くかという高さの木がある。狙撃に使えそうなポイントといえば、700mを超えたあたりに、ようやく農家の小屋か何からしい、円錐状の屋根を持った円筒状の建物が見えるのみである。最高性能の狙撃銃でどうにか900mの射程距離を持っているので、それを使えば理論上はその農家の建物から弾丸が届かないわけではない。だが、鑑定では銃弾は拳銃のものであった。警官隊に支給されている拳銃でも、有効射程距離は最大でせいぜい50mである。

 窓から左手方向の南東方向も草原で、800mほど行くとやや広く浅い川がある。右手方向の南西300m位から小さな森があり、そこを過ぎると農道や農地、住宅地があった。

「あの、正面奥の円筒状の建物は調べたのか?」

「はい。しかし、人が立ち入った痕跡はありませんでした。そもそも中は二階までゴミ置き場になっていて、まともに歩く事さえできません。屋上からの狙撃も考えましたが、あの円錐状の屋根では狙撃は無理でしょう。しかもです」

 捜査員はさらに続けた。

「君、ちょっとそこに立って西を向いてくれ」

 一人の捜査員が指示されて、ローバー議員のデスクの後ろに立ちカレンダーの方を向いた。

「彼がローバー議員とほぼ同じ身長になります。窓ガラスの弾痕を見てください」

 デイモン警部は、窓ガラスに開いた弾丸の貫通した穴を見た。それは、立っている捜査員のこめかみと、水平に一直線の高さにあった。

「そして、壁にある弾丸が埋まっていた穴も見てください」

 デイモンは言われるままに、反対側の壁を見た。これもまた、窓ガラスの弾痕と、被害者のこめかみを結んで一直線の高さにあった。

「あり得ない」

 デイモン氏は唸った。

「弾丸は必ず放物線を描く。外から距離を取ってこめかみに当てようと思うなら、それよりも高い位置か、低い位置から斜めにガラスを突き抜けなくてはならない」

 頭蓋骨を貫通したなら、弾丸の速度は急激に落ちるはずだ。つまり、被害者の銃創よりも低い位置に壁の弾痕はできるはずである。だが、これは完全に水平の高さにある。

「その通りです。しかし、弾丸はこめかみの真横から水平に一直線に入って、同じ高さを保ったまま壁に深くめり込んでいるのです。仮にあの建物からここまで届く拳銃があったとして…ある筈はありませんが、あったとしても、こんな弾道はあり得ません」


 要約するとこうだ。被害者を貫いたのは、700m以上にわたって水平な弾道を保ち、かつ硬い頭蓋骨を貫通して壁にめり込む速度を持った拳銃の弾丸、ということになる。

「そんなものは存在しない」

 デイモン警部は壁の弾痕を睨んだ。

「ではなんだ、狙撃した犯人は魔法でも使ったというのか!」

 そこまで叫んで、デイモン氏は口をつぐんだ。

「魔法…」

 デイモン氏は何やらぶつぶつと呟いたすえ、部屋の中をうろうろと歩き、そして振り返った。

「ひとまず現場はいい…怪しい人物の目撃情報がないか聞き込みを進めろ。それと、弾丸と狙撃地点についてももう一度調べるんだ。本当に拳銃のものなのか… 犯人像については、被害者が政治家である以上は政敵という線もあるが、愉快犯の類も有り得る。各チームにそのように伝えろ」

 デイモン氏にしては歯切れの悪い指示だったが、捜査員たちは了解すると仕事を続けるのだった。


 市内外での聞き込み捜査の結果は芳しくないものだった。狙撃銃などを扱う業者から最近の利用者を全て洗い出し、何人もの猟師や農家などが取り調べを受けたが、いずれもアリバイがあり、動機なども全く考えられなかった。今回の事件で使われたと思われる銃器を購入した者は一人もいなかったし、そもそも拳銃を所持している人間じたいが、多くはないにせよ別に珍しいわけでもない。

 警察や軍の狙撃銃を扱う人間に対しても、当然取り調べは行われた。しかし狙撃銃を扱うような部門じたいが特殊で該当者が少なく、配備されている狙撃銃も通常の拳銃より厳しい管理がなされているため、およそ犯人がいるとは考えられない、というのが大方の見解だった。


 不審者関連で唯一それらしい目撃情報があったのは、ローバー邸から南西方向に二区画も離れた通りを、散弾銃を背負った猟師が歩いていたという話だけであるが、周囲には山も川もあり、釣り師や猟師のたぐいが歩いていても特段不思議ではなかった。


 ローバー氏の政敵の線も調査は行われたが、氏は政敵は多いとはいえ人格者としても知られており、論敵からも一定の敬意を払われる存在であったため、いかに政治的意見が異なろうとも、やみくもに殺害するような暴挙に出る政治家がいるとは考えにくい、というのがおおかたの議員たちの見解でもあった。もちろん、どんな人格者であろうと、一方的に逆恨みされる事はあり得るが。


 狙撃地点に至っては、皆目見当がつかなかった。推測の弾道上でほぼ唯一ローバー氏の書斎の窓を確認できる農家の塔のような高さの小屋は先の報告どおりである。そのずっと向こうには小高い丘陵があるものの、そこまで行くとローバー邸までの距離は1kmを越えてしまい、最新の最高性能の狙撃銃でもまともに狙える距離ではない。

 あらゆる可能性が検討された。中には、ローバー氏の書斎の上の屋根から落下しつつ拳銃で撃った、などという説まで飛び出したほどである。


 捜査の進展が怪しい事に、次第に新聞社などが気付き始めた。デイモン警部には焦燥の色が見えるようになり、捜査員たちも困惑し始めていた。


 かくして事件が迷宮入りの様相を見せ始めた時、誰が言い始めたかわからないが、ひとつの可能性が囁かれるようになっていった。デイモン氏はその声に耳を塞ぎたかったが、大きくなる声は手のひらを通して、否応なく聞こえてくるのだった。


「これは、"魔法犯罪"ではないのか?」

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