第一章
ある晴れた春の日のこと。私は庭へと出て、椅子に座り、ただ茫として、空に浮かぶ細々とちぎれた雲をながめていた。……その隣には、一人の青年が立っている。この場所に歩いてくるまでのあいだに、私が使っていた杖を私にかわって手に持つ彼は、私にこう言った。
「先生、御機嫌はいかがですか」
彼……否、私は彼を、彼などという他人行儀な、そうして何か一線を引くような、そのような呼び方をするべきではないだろうと考えている。
つまり、彼は――
果して、あいつは一体どこから来たの
明らかに、あいつはその荒野から来たのである
あいつは、私が呆けていると考えたのか、このような話をする。
「先生は空を見る時間が増えましたね。……ですが、私は信じていますよ。先生はきっと何かしらの深謀遠慮をその眼の裏に隠し持っていて、ただ今はそれを表に出さないという、……それだけのことなのでしょう。ですから、先生。私にだけは本当のことを話してください。私だけは絶対に――先生を裏切りはしませんから」
あいつが言ったそのことについて、私が何か答えを返そうとすることはない。あいつの言うこと、――それを、私は理解出来ていない。私は、その意味は解せぬが、あいつは私に、本当のことを話せ、と言った。そこで私は、本当の
――私は未だに考える。
あの時私が、当初の予定通りに事を進めることが出来たなら――私は後世においてどのような評価を得ることになったのであろうか? 今やそれは永久に知ることのできない想像上の世界での出来事となってしまった。あの時の私は四十五歳で、英雄を名乗るにはあまりに年を重ねすぎていたのかもしれない。けれども、人間の永い人生において四十五歳とはまだ若い頃というに相応しく、今の世間では人生百年を唱える人々もいることを考えれば、現在においてそれは若年と呼んでしまっても相違ないであろう。……
そのようなずっと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、夢との堺目は一そうおぼろげになってしまう。それほどうつろいやすい現実の記憶とは、もはや夢と次元の異ならぬものになった
現在にいたっても、あの裏切りが誰によって齎されたのかが私には分からない。妻か? 楯の会の会員か? それとも誰か他の、私の身辺にいた誰かか……もし仮に、会員の誰かが密告をしたのであったなら、私のあの時代における活動のすべては幻にひとしいものであったということになる。
私はあの時、たしかに、楯の会の面々と血盟を交わしたはずであった。しかし――私はふと考えた。もしかすれば、『血盟自体が裏切りを呼ぶのだろうか』……これは最もぞっとする考えだった。
人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか? どこかに確乎たる人間性の不文律があって、人間同士の盟約は禁じられているのだろうか?
彼は敢てその禁を犯したのであろうか?
ふつう人間関係では、善悪や信不信は、混濁した形で少量ずつまざり合っている。しかし、一定数の人間が、この世のものならぬ純粋な人間関係を成就すると、悪も亦、その一人一人から抽出され蒐められて、純粋な結晶体になって残るのかもしれない。そしてその純白な玉の一群には、必ず漆黒の玉の一個がまじるのかもしれない。
この考えを、しかし、もう一歩押し進めれば、人は世にも暗い思想に衝き当るのだ。
それは悪の本質は裏切りよりも血盟自体にあり、裏切りは同じ悪の派生的な部分であって、悪の根は血盟にこそあるという考えだった。すなわち、人間の到達しうるもっとも純粋な悪は、志を同じくする者が全く同じ世界を見、生の多様性に反逆し、個体の肉体の自然な壁を精神を以て打ち破り、折角相互の侵蝕を防いでいるその壁を空しくして、肉体がなしあたわぬことを精神を以て成就することにあったかもしれない。協力や協同は、人類的なものやわらかな語彙に属していた。しかし血盟は、……それはやすやすと自分の精神に他人の精神を加算することだった。そのこと自体、
「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね。……どうか幻でないものがほしいと思い
脳裡によぎるのはいつか私が書いた台詞。その文言……私は言葉によって常に何かを捨てようとしているように見せながら、実際には誰かに――今のような状況へ至るようにしてほしかったのかもしれない。何にせよ、随分昔の話になってしまうので私はあの時のことについて、正確な記憶を引き出すことができないでいる。
ただ不幸なのは、かの青年が――あの激烈なる荒御魂を心に宿した青年。森田必勝が、私が法廷における審判を下されるその前に割腹自殺を遂げたという事実である。
思えば私はあの頃にも、あの戦争の時代にも非常に似通った経験をしていたことを思い出す。
私がその躰の薄弱さから徴兵を逃れた時、蓮田善明氏は戦場にいて、そうして終戦時、皇国を侮辱した上官を射殺し、自らも自決した。……あの時たしかに、私の中で一つの時代が終った。――蓮田善明氏も、青年・森田必勝も、至らず、殉ずることをしなかった私に対し、自ら死の規範を示すことで私に諫言するかのような、壮烈極まる死を遂げたのである。
こうした一連の私の記述はまったく他人行儀な、当事者としての目線を欠いたもののように見えるのも又、事実である。しかし、彼らが――死の規範を示し、青年的な人物の激情を示した彼らがその若さと肉体の美しさを永久に賛美し続けることができるのに対し、私は彼らに老いという弱さを強さに転じた小狡い、鈍らの、しかし確かに効果的な武器を一つ持つことができるようになった。――私は老いて、ついにその自意識は、時の意識に帰着した
考えてもみるがいい。一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々は何という稀薄な生の意識ですりぬけるのだろう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊され具わっていることを学ぶのだ。稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のような、美しい時の滴たり。……そうして血が失われるように時が失われてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせていたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。
そうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときにはすでに、酩酊に足るほどの酒は失われている。なぜ時を止めようとしなかった
⁂
思えば、妻には随分と苦労をかけた。
あの事件以後、私は法廷にて裁きを受け、刑期を終えた頃には誰も、私の起した事件のことなど覚えておらず、こうした事件があった上でなお出版社の人々は私に執筆活動の再開を求めるため挨拶に来た。
何か壮大な――私が得てきた人生全ての解答を出そうと失敗し、何もかもが
以後の私の文学は、たしかに世間一般には高く評価されたようであったし、海外の好事家たちは執拗に私のいわば後期文学を持ち上げ、そうした私の後期文学に対する栄誉の全ては一九九四年のノーベル文学賞受賞によって象徴されている。……
あの事件のときから妻は私のために非常によく尽くしてくれた。私の作品の版権管理に尽力した妻には今も頭が上がらない思いがある。妻が私に先立って臨終を迎える間際になっても、妻は私を責めるようなことは何一つ言わず、ただ一言「ありがとう」とだけ遺して、この世を去った。
「お兄ちゃま、ありがとう」
想起されたのは――妹の死に様。その最後の一言と、妻の言葉とが重なるとは、何たる偶然であろうか?。
正午に近づいて、天頂に昇る太陽の日の強烈さにたえられなくなった私は庭を後にし、テレビのある居間へと移動した。テレビでは
『幻のノーベル文学賞作家 大江健三郎』
と題された特集番組が組まれている。曰く、一九九四年の三島由紀夫氏によるノーベル文学賞受賞の裏には、幾度となくノーベル文学賞受賞候補に名前が上がりながら終ぞ受賞することなく、一九九四年の三島由紀夫氏受賞が決定した半年後に、自身の息子である光氏と無理心中をして死去した文学者・大江健三郎の存在がある。彼は果して、どのような人物であったのだろうか……と導入がなされている。
そこであいつは、かの青年は私の後ろに立ち、一緒にテレビ番組を見ているようで、彼は滔々と私に話を持ちかける。
「先生は後悔していらっしゃるのではないですか」
「どういうことだね」
「つまり、本来ノーベル文学賞を獲得するべきは大江健三郎氏であって、自分ではない……とお思いなのではないですか」
「なぜそう思うのか」
「なぜって……先生は、
「そうかもしれないね」
「それはあなたが、後期に書かれた自作を評価していないことの証左ではございませんか?」
あいつからそのように問いただされ、私はかつての記憶を一つ想起し、手を震わせながら、怒りに満ちた言葉を返した。
「それはお前が……私を、スパナで」
直後、屋敷のインターホンが鳴る。「もうそのような時間か」と小さくつぶやき、私は玄関へと歩き出す。その後ろで青年はふりむいてもう一度ちらりとこの老作家を
「先生。なぜ本当のことを話して下さらないのですか」
と言った。
⁂
午後正午を過ぎた辺りに、週何回か私の屋敷には家政婦がくる。彼女は名前を聡子と言い、彼女の両親が熱狂的な私の作品のファンなのだと言う。聡子という名前も、私が書いた豊饒の海の三作品のうち、『春の雪』に登場するヒロインの名前からとっているのだそうだ。
しかし、言ってしまえばどこか陰気で、純和風な湿ったい性格をしている『春の雪』の聡子と違い、彼女は朗らかで明るい性格をしており、彼女の両親が良い教育を施したのだろうと思う反面、名と実がここまで乖離しているという実例もそう多くは見られないであろう、とも思う。
「先生、おまたせしました」
と玄関口で聡子がいう。
「お薬はしっかりと飲んでいらっしゃいますか」
「飲んでいるさ。しぬほど、たくさん」
「それはよかった」
「君は毎回、私が薬を捨てていないか心配をするね」
「当然です。私も先生の読者ですから」
このような返しをされるたび、私は何か据わりの悪いような感じがしてしまう。思えば、私が過去に作った楯の会でも、私の作品の熱心な読者は極力排除していた。幾人かは面接時に嘘をつき通して楯の会に入ったようで、あの森田必勝もまたそうした嘘をついた青年の一人であった。
「先生の作品を読んでいれば、先生が薬を飲んだり、健康診断をしたりするのを嫌がる性格なのはよく理解できることですから」
「もうそういうのはやめにしたんだよ」
これも毎回言っていることだった。
例の事件以後、私の精神・肉体の双方を管理するようになった妻の手で、私は健康馬鹿のような生活を送ることになった。夜中心の生活が改められ、食事はボディビルのためのものではなく、健康のためのものに切り替えられた。後期における私の文学を生み出す原動力となったのは、そうした妻の甲斐甲斐しい配慮の数々である。
思えば、この家政婦の聡子を雇ったのも、妻が歳をとり、私の身辺の世話をできなくなった時であった。妻はその時点で自身の死期を悟っていたようなところがあり、いわば彼女の存在は二人の子に次ぐ妻の忘れ形見なのであった。
家政婦の聡子は家に来ると、作り置きのおかずをつくり、前に来た時からたまった洗濯物を洗濯する。あとはせいぜいが話し相手になってもらう程度で、日常の殆どは自分の手で行うことにしている。
一九五九年に建設したこの白亜の屋敷は四十の時分には何か誇らしい、自分の勲章のようなもののように思えていたが、歳をとった今ではこの屋敷はあまりに広すぎ、手に余る。息子も娘も独立して自ずから家庭をつくり出ていった今ではまったく、このコロニアル様式の無闇矢鱈に巨大な屋敷は完全な無用の長物であった。私という作家の前期作品の収益がこの屋敷を産み落としたのだとすれば、そうした産物が現在の私にとって無用の長物であるのも致し方ないことのように思える。
私の世代の老人はもう殆どが風呂やその他日常の行動に補助が必要になってしまっていて、場合によっては施設に入っているということも増えた。しかし、そうした晩年を迎えるのは若い頃にはおぞましいもののように思えてならなかったし、現在でもそうまでして生き延びる必然性はないと考えていたが、それでも風呂に入る前に姿鏡を見れば、その老醜極まる貧相な肉体を見、若い頃の自分が持っていた老いらくへの憎しみがほんの少しだけよみがえるような気もする。
私は今日もまた、風呂に入る前に鏡に映る自分の躰を検めた。胸の肋がことごとく影を刻み、腹が下へゆくほど膨れ、その膨れたかげに、萎え切った白隠元のようなものを垂らし、削れたように肉の落ちた仄白い細い下肢へとつづいている。膝頭が腫物のように露われている。この醜さを見て自若としていられるには、どれほど永い自己欺瞞の年数が役立っていることだ
肉体とは果して何なのであろう? 精神と肉体は大抵において二元論的な対比的なものとして考察されるものだ。しかし、苦悩は肉体にも精神にも宿り得る。もし仮に精神の病があったとしても、その元凶は肉体にこそあり、肉体上の不具や苦悩が精神に異常を来すこともある。この相互関係……もし仮に今の私の身体の老いが病なのであれば。衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉髄の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われていることに他ならなかった。
人はどうして老い衰えてからはじめてそのことを覚るのであろう。肉体の短い真昼に、耳もとをすぎる蜂の唸りのように、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れてしまうのであろう。たとえば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のようにたばしる水滴を眺めているとき、その生命の汪溢自体が、烈しい苛酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであ
風呂に入り、シャワーの湯をその身に浴びても、今の私の肌は水をはね返さない。その温度が肌を伝って染みていくように、水それ自体が肌を通じて肉体に染み込んでいくかのような錯覚すらおぼえる。ありとあらゆる非業の死は寧ろ人の精神を安らかにするが、老いは常に人々に不安をしいるものだ。何故ならば、老いから逃れる手段は夭逝にしかなく、自ずからそれを求めるには自殺以外の手段は残されていないからである。
⁂
この白亜の屋敷は私の手に余るほどに広いが、夜にはその闇が屋敷の中へ、中へと滲出し、その広さは昼間の光の束縛から逃れ、無限大に広がっていく。そうした夜闇の暗さが、私に押し迫る死の、それがもたらす暗闇の暗示であるように思えてならず、この闇の中に一人取り残された私は、自身から発狂の兆しが見えることを察した。
そうした時に、彼は――
あいつがその姿を現した時、あいつは夜闇の中の、薄暗くなった螺旋階段の上にいた。立っているのは、痩せぎすの、薄色のジャンパーを着た、かなり背の高い青年で
その時にも彼は、このように言ったのであった。
「本当のことを話して下
その問いかけに、私はこう答えたのだった。
「本当のこととは何
思えば、彼と似たような、否。殆ど同一と言っていい人間と私は出会ったことがあるような気がする。しかし、現在に至るまでのような親密な関係性を結ぶに至ったのは、この時からのことだった。
あいつはこの屋敷のあらゆる場所で私に声をかける。私とあいつとは、日常のあらゆる動作を共有している。……あいつが朝起きる。おそらく歯ぐらいは磨いたろう。その歯磨粉にむせかえるときに、すでにあいつの口のなかは、孤独の灰でいっぱいになっていた。(それも私は知らぬではない。)
あいつが自炊の味噌汁を炊く。味噌汁が吹きこぼれて、瓦斯の焰がいやな匂いを立てる。そのときもうあいつの鼻孔は、孤独の匂いでいっぱいに充たされたのだ。
便所の中も、満員電車の中も、ごみ箱の中も、どこも孤独で充満していた。あいつが煙草を買えば、その煙草は決って湿っていて、なかなか火がつかなかった。あいつが馬券を買えばみんな空籤だった。そしてあいつが勤めに出れば、輪転機の機械油の匂いは、世界終末の匂いを立てていた。
あいつが机の抽斗をあければ、そこからも孤独がすぐ顔をのぞかせた。そして孤独と共に、そこにはいつも私がいた
あいつは常に、私の耳が痛むようなことを言う。しかし、自分の過度の明晰を慰めるには、他人の狂気が必要だ
「君は私が死ぬべきだと思っているのだろう」
あいつは答えない。しかし、どうでもよいことだ。夜の闇の中に彼が立っていることを、私は知っている。
「だが、考えてもみ給え」
彼は答えない。
「死は事実に過ぎぬ。行為の死は、自殺と言い直すべきだろう。人は自分の意志によって生れることはできぬが、意志によって死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自殺哲学の根本命題だ。しかし、死において、自殺という行為と、生の全的な表現との同時性が可能であることは疑いを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これは逆証明が可能だと思われる。
生者の表現の最高のものは、たかだが、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
このα、これを人はいかに夢みたろう。芸術家の夢はいつもそこにかかっている。
生が表現を稀めること、表現の真の的確さを奪うこと、このことは誰しもが気がついている。生者の考える的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとっては、われわれが青いと思っている空も、緑いろに煌めいているかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。こうして表現に絶望した生者を、又しても救いに駆けつけて来るのは美なのだ。
生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教えてくれる者は美なのだ。
ここにいたって、美が官能性に、生に、縛られており、官能性の正確さをしか信奉しないことを人に教えるという点で、その点でこそ、美が人間にとって倫理的だということがわかるだ
闇の中から、ようやく声がする。
「それが――あなたの、言い訳ですか?」
私は敢てそれに答えなかった。答えないまま幾らかの時間が立ち、私は眠気に襲われる。
⁂
歳をとってから、私はよく夢をみるようになった。大抵は妻や、先に死んでいった人々の記憶であるが、時おり、私自身が人生の栄華の頂点にいたときの夢をみることがある。
この日の夢は……ノーベル文学賞を受賞した時の夢だった。
決起に失敗した文学者が、文学以外のありとあらゆるものを捨てて、そうして獲得したとされるノーベル文学賞の栄誉を、様々な人々が称賛した。文学者としての位を極めたはずの私の思考にあったのは、全く逆のものであった。確かにそのときの私は高みにいる。そう、俺は高みにいる。目のくらむほどの高みにいる。しかも権力や金力によって高みにいるのではなく、国家理性を代表するばかりに、まるで鉄骨だけの建築のような論理的な高みにいる
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