甘い運命~極上パティシエの強引な誘惑~
碧野葉菜
誘われる。
第1話
例えばそれが病ならば、完治を目指して治療に励んだかもしれない。
例えばそれが貧しさならば、裕福な暮らしを夢見て懸命に働いたかもしれない。
手と手を取り合う人がいたなら、支え合える基盤があれば、どんな苦難でも希望を見出せたかもしれない。
一筋縄ではいかない、悩みと呼ぶにはあまりに軽い、そんな境遇の中で、一人彷徨う人物がいた。
二十五歳の
コシのある黒髪を二つの三つ編みにして、黒縁の厚いメガネをかけている。グレーの長袖シャツに、くすんだブルーのジーンズ、スニーカーと背負ったリュックまで黒なので、全体的に重い印象になっている。
駅の階段を上がり、ふらりと足を踏み入れた電車。いつもと方向が違うとか、次の駅で降りなきゃとか、なにも考えられなかった。いや、考える必要がなかった。
目的地を失くしたくるみは、乗客を避けて電車の片隅に身を寄せた。ぼんやりと立ったまま、電車が停まっては動いてを繰り返す。
いつの間にか満員電車の一部となったくるみだが、窮屈だとか息苦しいとか、そんなことを考える気力も湧かず、人混みに流されるがまま電車を降りた。
幾人かがくるみの肩にぶつかり、急ぎ足でエスカレーターや階段に向かう。カッチリしたスーツや、今風のオシャレな格好をした人たち。
十月の夜風に体を固くしたくるみは、ゆっくりと目だけを左右に動かした。高いビル、夜を照らす数多の光。ホームから見える景色だけでも、煌びやかな雰囲気が伝わってくる。こんな場所は知らない。こんな街に用はない。自分には、一生関わることがないキラキラした世界。
――帰ろう。
そう思って、たじろぐ足が止まる。
――どこに?
『アンタ、もういらないから』
リュックのショルダーストラップを、両手でギュッと握る。スマホの通話口から聞こえた、無慈悲な言葉。その一文字一文字が、反響してくるみの精神を食い潰した。
――なんか、疲れちゃったな。
分刻みで行き交う電車が、くるみの視界をかすめる。
――飛び込んだら、楽になれるかな?
ふと、そんな考えがよぎるものの、すぐに思い直す。
――いろんな人に迷惑をかけちゃダメ、死ぬならもっと別の、誰にも影響が出ないやり方にしよう。
心に決めたくるみは、とぼとぼとホームを後にした。
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