野良犬のワルツ

ミクラ レイコ

第1話 野良犬のワルツ1

 第二次世界大戦の爪痕がまだ色濃く残っている頃の事。広沢ひろさわ雪子ゆきこは、通っていた高等女学校から自宅へと帰った。

「ただいま」と言って玄関の戸を開けると、男性の靴が揃えて置いてあるのが見える。

「またか」

「またかとは何だ」

雪子の独り言に反応しながら玄関に出てきたのは、堀宮正太郎ほりみやしょうたろう。二十歳の学生で、将来医師になるべく勉強している。

「私、もう十五歳ですよ。勉強の手を抜く事だけしか考えていなかった頃とは違うんですよ。わざわざ自宅まで勉強しているか見張りに来なくても、大丈夫です」

「お前の成績が心配なんだ。今日も勉強を教えてやるから、早く来い」

そう言って、正太郎は自然に雪子の部屋へと足を向けた。


 溜息を吐きながら、雪子も部屋に向かう。その途中で、居間にいる叔母の寛子ひろこと目が合った。

「……叔母さん、助けて下さい」

「あらあら、勉強を教えてもらえるだなんていいじゃないの。それに、あちらの家から学費を援助してもらっているんだから、しっかり勉強しないとね」

寛子が、のほほんとした雰囲気で言う。

 雪子の家は元々は貧しくなかったが、十歳の時両親が亡くなり、叔母の寛子に引き取られた。寛子は洋裁をして生計を立てていたが、雪子の学費を払う能力は無かった。

 そこで学費を援助してくれたのが、近所に住む堀宮家である。堀宮家は、以前から雪子の両親と親交があり、援助の申し出をしてくれたのだ。


 それは良いのだが、ここ数か月、正太郎は暇さえあれば雪子の面倒を見たがるようになった。正太郎の事は嫌いではなく、むしろ好ましく思っているが、煩わしいと思う事もある。

 もう一度溜息を吐きながら、雪子は部屋に入った。


「計算が早くなったな。しかも正確だ」

勉強を教えながら、正太郎が褒めた。雪子としても、悪い気はしない。

「じゃあ、今日はこのページまで終わらせようか」

「詰め込み過ぎじゃないですかね、正太郎さん」


 二人が言い合っていると、窓から二人の少年が顔を出した。

「また正太郎さんに捕まっているのか、雪子」

そう言ったのは、柴山しばやま康太こうた。年齢は雪子と同じ十五歳。大工である父親を手伝っているが、近所の悪ガキだった頃の面影が残っている。

「相変わらず仲良しだねえ、雪ねえちゃん達」

そう言ったのは、山本雄介やまもとゆうすけ。年齢は九歳で、実家は農業をしている。


「どこが仲良しに見えるのか、ぜひ聞かせてもらいたいもんだわね」

雪子は、幼馴染である康太や雄介と話し込んでしまった。そうなると、もう勉強に集中できない。

「……休憩にしよう」

正太郎はそう言うと、部屋にあった蓄音機に近づき、曲をかけた。雪子の好きな曲だ。

「この曲、なんていうんだ?」

「ショパンの『子犬のワルツ』」

康太の質問に雪子が答える。

「ふうん、お前は『子犬のワルツ』っていうより『野良犬のワルツ』って感じだけどな」

「失礼な事言うよね」

 音楽を少し聞いた後、雪子と正太郎は勉強を再開し、康太と雄介は、勉強の邪魔にならないように庭で遊び始めた。


「今日はここまでか。じゃあ、また今度」

夕方、そう言って正太郎は帰っていった。

 まだ庭にいた康太は、窓から顔を出しながら言った。

「俺、あの人苦手なんだよな。……なんか堅苦しくて」

「悪い人じゃないんだけどね」

雪子が苦笑する。

「まあ、お前が苦しくないんならいいけどさ。……話は変わるけど」

康太は、急に真剣な顔つきになった。

「……雄介の事、少し気にかけてやってくれないかな」

雄介はとっくに家に帰っているが、康太は小さめの声で言った。

「どうしたの?」

「あいつの家、野菜の不作とか色々あってさ、経済的に苦しいみたいなんだよ。それで、雄介もあんな歳だけど、悩んでるみたいでさ……」

「そっか……」

夕陽が、少し悲しげな色を帯びている気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る