野良犬のワルツ
ミクラ レイコ
第1話 野良犬のワルツ1
第二次世界大戦の爪痕がまだ色濃く残っている頃の事。
「ただいま」と言って玄関の戸を開けると、男性の靴が揃えて置いてあるのが見える。
「またか」
「またかとは何だ」
雪子の独り言に反応しながら玄関に出てきたのは、
「私、もう十五歳ですよ。勉強の手を抜く事だけしか考えていなかった頃とは違うんですよ。わざわざ自宅まで勉強しているか見張りに来なくても、大丈夫です」
「お前の成績が心配なんだ。今日も勉強を教えてやるから、早く来い」
そう言って、正太郎は自然に雪子の部屋へと足を向けた。
溜息を吐きながら、雪子も部屋に向かう。その途中で、居間にいる叔母の
「……叔母さん、助けて下さい」
「あらあら、勉強を教えてもらえるだなんていいじゃないの。それに、あちらの家から学費を援助してもらっているんだから、しっかり勉強しないとね」
寛子が、のほほんとした雰囲気で言う。
雪子の家は元々は貧しくなかったが、十歳の時両親が亡くなり、叔母の寛子に引き取られた。寛子は洋裁をして生計を立てていたが、雪子の学費を払う能力は無かった。
そこで学費を援助してくれたのが、近所に住む堀宮家である。堀宮家は、以前から雪子の両親と親交があり、援助の申し出をしてくれたのだ。
それは良いのだが、ここ数か月、正太郎は暇さえあれば雪子の面倒を見たがるようになった。正太郎の事は嫌いではなく、むしろ好ましく思っているが、煩わしいと思う事もある。
もう一度溜息を吐きながら、雪子は部屋に入った。
「計算が早くなったな。しかも正確だ」
勉強を教えながら、正太郎が褒めた。雪子としても、悪い気はしない。
「じゃあ、今日はこのページまで終わらせようか」
「詰め込み過ぎじゃないですかね、正太郎さん」
二人が言い合っていると、窓から二人の少年が顔を出した。
「また正太郎さんに捕まっているのか、雪子」
そう言ったのは、
「相変わらず仲良しだねえ、雪ねえちゃん達」
そう言ったのは、
「どこが仲良しに見えるのか、ぜひ聞かせてもらいたいもんだわね」
雪子は、幼馴染である康太や雄介と話し込んでしまった。そうなると、もう勉強に集中できない。
「……休憩にしよう」
正太郎はそう言うと、部屋にあった蓄音機に近づき、曲をかけた。雪子の好きな曲だ。
「この曲、なんていうんだ?」
「ショパンの『子犬のワルツ』」
康太の質問に雪子が答える。
「ふうん、お前は『子犬のワルツ』っていうより『野良犬のワルツ』って感じだけどな」
「失礼な事言うよね」
音楽を少し聞いた後、雪子と正太郎は勉強を再開し、康太と雄介は、勉強の邪魔にならないように庭で遊び始めた。
「今日はここまでか。じゃあ、また今度」
夕方、そう言って正太郎は帰っていった。
まだ庭にいた康太は、窓から顔を出しながら言った。
「俺、あの人苦手なんだよな。……なんか堅苦しくて」
「悪い人じゃないんだけどね」
雪子が苦笑する。
「まあ、お前が苦しくないんならいいけどさ。……話は変わるけど」
康太は、急に真剣な顔つきになった。
「……雄介の事、少し気にかけてやってくれないかな」
雄介はとっくに家に帰っているが、康太は小さめの声で言った。
「どうしたの?」
「あいつの家、野菜の不作とか色々あってさ、経済的に苦しいみたいなんだよ。それで、雄介もあんな歳だけど、悩んでるみたいでさ……」
「そっか……」
夕陽が、少し悲しげな色を帯びている気がした。
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