夜の部 五杯目
夜の部 五杯目
その夜のサキコはとても嬉しそうだった。いつもよりキラキラと笑顔が眩しい。まるで、最初から口など裂けていなかったかのように本当の人間然とした振る舞いだ。怪異らしい妖しさはもはや消え失せていた。
今夜は口を縫ってから六日目の夜だ。明日が七日目、深夜の零時には完全に口が接合されてしまい、二度と「口裂け女」には戻れなくなってしまう。
サキコは今日の「恋愛相談」で注文したコーヒーに角砂糖を三つも入れた。これは太一の飲み方だ。
「いらっしゃいませぇい、サキコさん。とてもキラキラって感じですね」
翼はカウンター席、そのいつもの場所に座ったサキコの向かいに立っていた。
サキコは翼と目を合わせると、とても機嫌が良さそうにそうなんです、と答える。
「昨日、太一さんと直接会ってまた話しました。彼、聞いてくれました。私のこと、いろいろ」
どうやら太一は『昼の部』での宣言通り、サキコとしっかり話をしたらしい。出会って丸六日しか経っていない二人だが、相性というものなのか。その話し合いは上手くいったようだ。
「私、彼に呼び出されて、話をしたんです」
──。
その日、サキコは例の人間界への『仲介業者』に用意してもらったホテルで休んでいた。駅前の寂れたビルだが案外快適であり、ずっと住んじゃおうかしらとそんなことを考えていた。
時刻は午後の四時前、部屋にも午後の西日が差す頃。ベッドの枕元に置いてあった携帯電話に着信が入った。因みにこの携帯電話も人間界での生活のために業者が用意したものだ。
サキコはすぐに電話に出た。相手が太一だったからだ。
「はい、もしもし」
『──あ、おれです。太一です。サキコさん? 今いいすか』
何の用だろう、サキコは一抹の不安を覚えた。しかし断る理由も浮かばなかったし、話したいと思ったので、サキコは了承した。すると電話の向こうにいる太一は間髪入れずに話し出した。
『今日は俺、サキコさんの話を聞きたいなって思って』
「え?」
『ほら、サキコさんと話すとき、俺自分の話ばっかりで、ちゃんと聞いてなかったなって思って。だから良かったらいろいろ話を聞かせてもらえないっすか。知りたいんです、サキコさんのことが』
──少なくても、サキコにはこの電話がとても「情熱的」なものに感じられた。私のことが知りたい。それは興味があるということだ。一方通行な思いでも、暇つぶしでもなく、知り合いたいのだと、そう言ってくれている。サキコは受け取った。
「はい、はい! 私なんかのお話でよろしければ、何でも聞いてください。お話できる範囲で、お答え致します」
サキコは人間ではない。
故に、人としての思い出らしいものも家族もない。だが好きなものくらいは当然ある。食べ物の話、動物の話。さらに、経歴はビザと共に「人間用」の偽経歴が用意されていたので出身大学などは適当に答えておいた。太一は特に疑問に感じなかったらしい。その電話は実に和やかで、素敵な時間として過ごすことができた。
そして、ついに太一からある提案があったのだ。
『良かったら、今から会えたりしないすか?』
◯
サキコは太一から駅前のハンバーガーショップに来るよう呼び出されていた。そして、急いで約束の店まで到着した頃には既に太一がテーブル席で待機していた。
「あ、サキコさん」
手を振る太一に微笑みを返し、サキコはその向かい側の席につく。
「お待たせ致しました」
「いやいや、俺もマジで今来たとこなんで」
太一は頭をかきながら落ち着かなさそうにそわそわしていた。それを見つめるサキコも鼓動が早くなる。そうだ、これは緊張だ。以前は裂けていたはずの口元を無意識に触ってしまう。良かった、今は裂けてない。
「あの、良かったらなんすけど」
太一は咳払いを一つしたあと、サキコと目を合わせた。
「近いうち、で良いんで。どっかで夕食とかどうかなって。ほら、ファストフードじゃなくて、もっといい感じのとこ」
“もっといい感じのとこ”。
それは人間たちがいわゆる、デートで行くようなレストランのことを指しているに違いなかった。
サキコは食い気味に、少しうわずった声ですぐに答えた。
「はい、もちろんです。私で良かったらぜひ」
今日は六日目、明日で七日目。口を縫ってからそれだけ経過した。明日の夜には縫った口が完全に接合され、二度と口は裂けない。人間になるのだ。「口裂け女」という自らのアイデンティティを捨てる。
しかし、それも良いかも知れないと思われた。この一週間、太一と過ごすうちに本当の気持ちに気づいた。自分は憧れていたのだ、人間に。試してみて、とても素晴らしいものだったと確信できた。短い生を捧げるに相応しい人に出会えた。そして今それは手の届くところにある。
「明日にでも、私はいつでも、あなたと一緒なら」
微笑みとともに、サキコはそう答えるのだった。
──。
宇蘭もいつの間にか加わり、その甘い話は続けられた。
そして語り終えてから、サキコはまたうっとりとコーヒーカップを眺めた。しかし、実際見ているのは空になったカップではなく、きっと別の大切な何かだろうというのは、宇蘭にも分かった。
「へえ、じゃあサキコさん。あなた、人間になるのね」
宇蘭は穏やかな表情でサキコに語りかけた。
「しっかりと、覚悟は決めた?」
覚悟、それは「口裂け女」を捨てて人間になる覚悟だ。彼女は人間としては赤ん坊も同然だ、身の証も偽装された作り物しかない。むしろ大変なのはこれからだと思われた。それに万が一、太一と上手くいかなければ、別れが訪れたなら全てを失う。
だが、サキコはそれらを全て承知したうえではっきりと答えるのだった。
「はい、私はそれで良いと思います。たしかに世の中には嫌な人間もいるでしょう。ですが、太一さんのような素敵な人もいます。“口裂け女”として怖がられ、嫌われ、避けられる。そんな存在は嫌なんです。私は愛されたいのです」
宇蘭は太一の気持ちも「昼の部」で相談に乗っているので既に知っている。故に自信を持ってこの決断に太鼓判を押せるのだ。最も、守秘義務があるのでサキコに太一のその胸の内は明かせない。しかし、前向きに言ってやることにした。
「サキコさんが決めた答えなら良いと思うわ。人間として暮らす手続きはややこしいけれど、素行の良いサキコさんなら申請はすんなり通ると思う。私も協力するから何でも言ってね」
「ありがとうございます、本当に宇蘭さんたちには大変お世話になりまして」
宇蘭の厚意に対しサキコは小さく何度も会釈した。宇蘭の横で聞いていた翼も嬉しそうに祝福の言葉を贈る。
「はあ、とっても素敵! 愛する人のために“人間になる”なんてまるで夢の国の映画みたい。おめでとサキコさん」
「いえ、まだ気が早いですよう。お付き合いすると決まったわけではないですから」
そう言いながらもサキコは照れたようにはにかんでいた。
すると、今度は厨房から駆がのそのそとやってくる。持ってきたいちごのショートケーキをサキコの前に出した。
「サービスです。良かったな、上手くいきそうで」
「へえ、珍しいじゃん。いつも愛想悪いのに」
得意気にケーキを差し出した駆を、翼が指先で小突いて茶化した。弟が生意気に格好つけようというのだ。姉としては全力で邪魔をしなければ。
言われた駆は眉間に皺を寄せる。そして、鋭利に研ぎ澄まされた言葉でぼそりと反撃した。
「クソデカ女」
「ちょっと!」
手痛い反撃だ。翼は顔を赤くして怒った。
翼は日本人成人女性の平均身長より十センチほど背が高く、学生時代をバレーボールに全力で捧げた為にスレンダーだが逞しく、体育会系の雰囲気を漂わせていた。イメージされるような可愛らしい「女の子らしさ」とは少々距離があるのだ。しかも、それをコンプレックスに感じていた。もちろん刺激されたら穏やかでない。
「この、馬鹿、馬鹿弟、あんたこそ巨人じゃん。屋根に頭ぶつけて死んじゃえばいいのに!」
「そんなにデカくねえよ!」
サキコはぽかんと口を開けて双子の罵り合いの喧嘩を眺めるしかなかった。しかし、放ってはおけない。目線で宇蘭に助けを求めた。
宇蘭の方はサキコと目が合うと、慣れたようにため息をつくのだった。
「当店の名物よ、定期イベントみたいなもの。だから“これ”が誕生したのよ」
宇蘭は缶の貯金箱をカウンター端から取り寄せ、喧嘩する翼と駆の前にわざと音を立てて置いた。すると二人はぴたりと罵り合いを辞め、貯金箱に視線を動かした。
「二人とも、言葉使いが汚いわ。マナー違反よ。罰金、払いなさい」
宇蘭が断固とした雰囲気で詰め寄ると、駆も翼も渋々とそれぞれの衣服のポケットから財布を取り出し、五百円玉を貯金箱に納めた。チャリンと小気味の良い音が聞こえてくる。
「だって、カケルが生意気だから悪いんだよ」
「ツバサがくだらねえこと言って吹っかけてきたからだろ」
二人は納得がいってないようだが、営業中の、しかもお客様の前だとやっと思い出したことで大人しく喧嘩を治めるのだった。
「いい加減にしないと、二人とも私のオーナー権限でアルバイトに降格しちゃいますからね」
宇蘭が子供を叱りつけるように両手を腰にあててふん、と鼻を鳴らすと、サキコは何だか愉快な気分になった。
この人たちのおかげで自分は今、幸せな気持ちになったのだろうか。
「ふふ、本当に、皆さまには感謝しても、しきれません」
突然、笑い出したサキコを、今度は従業員三人がぽかんと眺めた。こんなお見苦しいところをお見せしたにも関わらず楽しんでもらえたのだろうか。
「太一さんとのことも、私、本当に大丈夫だと思えてきました。まだ知り合って日が浅いですが、明日の晩には私、人間になります。きっと、一緒に生きていけますよね」
憑き物が取れたようなサキコの笑顔に、宇蘭も嬉しくなった。願わくば、何も起こらず、サキコの未来は明るいものであってほしい。
「ええ、きっとね」
宇蘭は微笑んで答えるのだった。
──夜の部 六杯目に続く
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