夜の部 四杯目
夜の部 四杯目
サキコは注文したブレンドコーヒーを美味しそうに啜り、はあと息を吐いた。ため息だ。
既に太一とサキコが「人間同士」として再会してから三日が経過していた。あと四日でサキコが人間でいられる期限がきてしまう。
カウンターを挟み、サキコの向かい側にいた駆は仕事をすることにした。腕を組み、サキコに向かって言う。
「どうしたんですか」
駆に聞かれると、サキコは美女特有のどこか儚げな雰囲気を放ちながら、ゆったりとした動作で頬杖をついた。
「この三日間、毎日、太一さんとやりとりしてみて、最近、太一さんとは合わなかったのかもと思い始めたのです」
だと思ったよ、駆はその言葉を飲み込み、充分に準備してから応えた。
「へえ、そんな、どうしてまた」
これが駆の精一杯である。姉の翼ならもう少し気の利いたことの一つも言えるかもしれない。
だが、サキコには丁度よかった。
「実は、価値観の違いのような、そんなものがありまして」
「価値観ですか」
駆がわざとらしく両方の眉毛を上げて驚いた顔をすると、いつの間にかカウンターの、駆の左隣に現れた宇蘭が吹き出した。
「ちょっと、嫌。カケルその顔なによ」
「うるせえ。恋愛相談中だ、邪魔すんな」
駆は苦虫を噛み潰したような顔をした。サキコはそんな駆に笑いかけた後、宇蘭に向けて軽く会釈をする。
「宇蘭さん、こんばんは」
「サキコさん、いらっしゃい」
二人は挨拶もほどほどに、恋愛相談を再開した。
──。
「要はその、家族のことを聞かれたのです」
「家族?」
駆は聞き返した。サキコは「はい」と短く答えるだけだった。
サキコに家族はない。
妖怪や怪物たちに「群れ」を形成する種族もあるが、都市伝説であるサキコにはそれがなかった。
ただ、『口の裂けた女、夜道に通りかかった人に顔を見せて襲って殺す』という概念でしかなかった。そんな人々の噂話が輪郭を持ち、いつしか生まれた存在だ。
「だから、私には父も母もいません。先輩方もみんなそうなのです」
「言い方は悪いけど、口裂け女の“全個体”共通でそれぞれ血縁関係はないってことね」
宇蘭が捕捉した。
血縁関係はない。あるのは「バリエーション」だけだ。個体ごとの個性はあるが、彼女らは家族ではない。
「いえ、そのとおりです。なので、家族の思い出の写真、記憶など。いいえ、『家族』というもの、そのものが私には、分からないのです」
太一はとても仲の良い家族のもとに生まれたらしい。
春休み、夏休み、年末年始など、大型連休には祖父の民宿に集まって家族みんなで食卓を囲んで過ごしたのだ。そして、祖父亡き今も、太一はその家族を繋ぐ民宿を守り引き継ごうとしている。
「彼、よく話してくれるんです。家族の話。とっても楽しくて、嬉しくて、幸せな話」
だが、そんな話を聞くたびにサキコは悲しくなってしまうのだった。家族とは何か、それはそんなに良いものなのか。
自分に家族はない。どこか不完全は存在になってしまったかのように感じて、太一の顔を見れなくなってしまうだろう。そして、やはりまた悲しくなるのだ。
サキコは飲み干したコーヒーカップに視線を落とした。
「私は、彼に嘘をついています。“サキコ”は人間ではありません、化け物です。ほんの少しのつもりでした。でも、あんまり楽しくて、三日間も過ごしました。そして、過ごせば過ごすほどに、彼との世界の隔たりを感じずにはいられないのです」
「サキコさん」
駆は思わず声をかけてしまった。何か気の利いた台詞が浮かんだわけではない。自然に口から出てしまった。
しかし、宇蘭はあくまで現実的思考を持っていた。
「それで、サキコさんはどうしたいわけ?」
宇蘭は表情を変えず、じっとサキコを見つめた。
「太一さんと会って話してみたかったのよね。そして、それは叶った。一緒に過ごしてみて楽しかったのは良いけれど、貴女は人間ではない。あと四日で『口裂け女』に戻るのでしょう?」
「ええ、まあ」
「お別れか、人として生きるか、そういう問題だわ」
縫った口は七日間で完全に接合され、二度と裂けることはない。そうすれば口裂け女に戻ることができなくなってしまうのだ。しかしそれは、言い換えれば「人間になれる」ということでもある。
「このあと、サキコさん。貴女が決めないといけないわ。七日間の美しい思い出にもできる。まだ太一さんとお付き合いしたわけじゃない、連絡を絶てば終わりよ。でも、もし──」
「七日間を超えて、共に在れば貴女は人間になれる。それを決めるのはサキコさん自身よ」
口裂け女という自己を捨て去り、ただの人間「サキコ」になる。しかしそれで全てが上手くいくとは限らない。むしろ失うものの方が多いのかもしれない。もし“人間”としても愛されなかったら? どうすれば良いのか、サキコにはまだ答えが出せない。
「まあまあ、慌てる必要ないんじゃないですか」
サキコが黙って俯いていると、駆が優しくそう言ったのだった。
「まだ四日あるじゃないですか、明日でも明後日でも店来てまた話聞かせてくださいよ」
「あ、はい。そう、ですよね」
サキコは前髪を触りながら空返事をするのだった。
──夜の部 五杯目に続く
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