第1話 プロローグ
世界の中心にある潤沢な資源に恵まれた大陸、ゼレス大陸。
山地、平原、海洋によってもたらされる恵みは人々を繁栄へと導いた。
しかし反面、人類の脅威たる魔獣にもその手は差し伸べられた。
人類と魔獣、両者の争いは小国を滅ぼし、また小国同士の結託を生み、やがて四つの大国を生み出した。
その四大大国の内で最も南に位置する国、アルケミア王国、首都テルミア。
ここで今、一つの生命が誕生しようとしていた。
―――――――――――――――――――――――
「私だ、入るよ」
火のくべられた暖炉で暖められた部屋に、ノック音、男性の声、ドアを開ける音が響く。
入って来たのはさらさらとした鮮やかな金髪、穏やかな顔、一目見て鍛え上げられたそれと分かる体躯を持つ男性だ。
彼の名前はヴェイク・フォード・シルベスター。
アルケミア王国下独立騎士団『
「あらヴェイク、お帰りなさい。帰ってたのね」
ぐったりとベッドに横たわりながらヴェイクの声に応えたのは、ヴェイクの妻にして
月の光を返すような見惚れる銀髪を腰の辺りまで流し、美しく整った顔をやや青白くしている。
今彼女は妊娠九か月で、騎士団長・貴族としての業務に支障が出る為、あらゆる公務を夫のヴェイクに一任している。
普段の彼女ならば内政程度部下に指示を出し、妊娠していたとしてもテキパキとこなすくらいなのだが、アルシリーナは現在ある問題に頭を悩ませていた。
ヴェイクはベッドの側にある椅子に腰掛け、左手でアルシリーナの手を握り、右手で大きく膨らんだ腹をさするように撫でながらながら話す。
「リーナ、また体調がすぐれないのかい?」
「ええ、この子ったらまだまだ栄養も元気も足りないみたいなの」
ヴェイクの問いに、くすりと笑いながら答えるアルシリーナだが、やはりどこか覇気がないように感じられる。
その理由は、彼女の頬などに手を当てればすぐに分かるだろう。
――体温三十二度前後。
アルシリーナの普段の体温から考えれば、低体温症の中等度に分類されてもおかしくない程の低体温だ。
今の王国の季節は秋、夏に比べれば冷え込む時期とはいえ、普通の人間低体温症になる程気温は低くない。
ましてや部屋には暖炉の炎が輝き、アルシリーナは三枚も毛布を被っているのだから、低体温は外的要因によるものではない。
外部の医者に見せれば原因不明としたであろう謎の病、だが既にその原因は判明している――アルシリーナの胎に宿る胎児である。
遡る事一か月前、丁度妊娠八か月になり、出産に向けての準備も
アルシリーナの保有魔力量が、体調に異常をきたす程に大きく減少したのだ。
健康体の人間にはおろか、妊娠中にもあまり見られない現象である。
数日後、次に現れたのが満足に歩けなくなる程の倦怠感だ。
移動もままならず、思考は鈍り、言葉を紡ぐ事すら億劫になる倦怠感。
重度の病に罹ったように寝たきり状態になったアルシリーナだったが、しかしその食事量だけが激増した。
元々アルシリーナは健啖家という訳では無い、成人女性の平均食事量は確実に上回っていただろうが、夫のヴェイクや所属する騎士達とは比べるべくもなかったのだ。
妊娠中の食欲の増加はよく見られる現象だが、食事量が元の二倍を優に超えるとなれば話は別だ。
ヴェニクやメイド達もその事を心配していたが、多いとはいえ食事はきちんと摂れている上、アルシリーナ自身が心配無いと言い切った為そこまで問題視はしていなかった。
――しかしその数日後、胎児の宿る腹部以外の体温が異常な程低下し、最低で三十度にまでなった事で周囲も危機感を露わにした。
すぐさま専門家と医者を呼びアルシリーナを診せる、だが原因は分からず仕舞い。
王都でも名の知れた名医すら匙を投げる正体不明の症状の数々。
誰もが謎に頭を抱える状況で、アルシリーナは気付いた。
失っている魔力が胎児に流れているのを、微かながら感じ取ったのだ。
普段であれば魔力の流れを完全に把握している優秀な魔術師、アルシリーナも妊娠中となれば慣れない身体に感覚が鈍ってしまう。
気付くのが遅れたのはその為だ。
それからアルシリーナの報告を聞いた医者が改めて推測した結果、体温や魔力などのアルシリーナから失われているエネルギーが胎児に流れ込んでいるか、あるいは胎児の存在そのものがエネルギーを吸収しているのではないかとの結論に至った。
もし医者の推測通り原因が病ではなく胎児にあるというのであれば、打つ手立てなどありはしない。
最悪の場合アルシリーナと胎児の命、この二つを天秤に掛ける判断をしなければならないのかと覚悟した日もあった。
しかし、彼等には唯一残されていた、自分達
それはシルベスター家に仕える占星術師、ミヤという女性の存在だ。
ミヤは過去に起こったある事件でアルシリーナ達に助けられ、以来客人の立場でシルベスター家に居候し、依頼されれば運命を視る占星術を行使していた。
そんな彼女曰く、
「旦那様と奥様の御子は…無事産まれます。そしてその御子は…大いなる結末をもたらすでしょう。世界にとっても…――そして…私にとっても……」
と、普段滅多な事では浮かべない笑みを浮かべながら占星を終えたのだ。
ミヤの見た運命が外れた事は無いと本人は言う、結果の全てを話す事は滅多に無いが、彼女を信じるアルシリーナとヴェイクは様子を見る事に決めた。
だが不安が完全に解消される事は無い、ただでさえ命を落とす可能性のある出産に、更なる危険を背負って臨まなければならないのだ。
次の世代に繋ぐのは貴族の義務、だがだからといって愛する妻を犠牲にしてまで責務に殉ずる気概を、ヴェイクは持ち合わせてはいない。
いざとなれば……そんな覚悟すら抱き始めたヴェイクに、アルシリーナはふっと微笑む。
「大丈夫、この子はきっと元気に産まれてくれるわ。不思議な感覚だしなんとなくだけど、分かるのよ」
「……ああ、そうだね、きっと」
心の奥底に燻る不安を押し殺すように二人寄り添い、慰め合い、祈る。
星にではない、月にではない、今は亡き神にではない、具体的な何かにではなかった。
それでもただ祈る。
この子がどうか、この世界に無事に産まれてきますように、と――
―――――――――――――――――――――――
「あああぁぁぁ!おぎゃあぁぁ!」
助産婦やメイドが慌ただしく走り回る暖かい部屋で、ヴェイクやアルシリーナが見守る中、赤子の元気な泣き声が響く。
母親にもまして輝く銀色の髪、父親譲りの穏やかで整った顔立ち。
二人の初めての子供だという事もあり、愛おしさがこれまでの不安感を押し流すように湧いてくる。
「無事に産まれてくれて、良かった……」
無事にこの世に生まれて来てくれた事への感謝と安堵がないまぜになった涙を流しながら、アルシリーナは割れ物を扱うかのように赤子を抱き締めている。
その光景を見るヴェイクは先程から涙を堪え切れず、メイドから渡されたハンカチをしっとりとさせている。
そんならしくないやり取りに笑みを浮かべつつ、アルシリーナもう一度胸の中の愛し子に目線を落とす。
まだ目も開いていないだろうに、こちらの指を握って笑いかけて来る愛しくて愛しくて堪らない吾子。
楽しい事ばかりではないだろう、笑える日々ばかりではないだろう。
シルベスター家は貴族の中でも特殊な立ち位置にある家、沢山苦労を掛けるだろう。
だがそれでもと、我が子の幸せな未来を願う自分の気持ちを伝えるように、アルシリーナはそっと額に口づけ、我が子の名前を囁く。
「――レイドヴィル、どうか健やかに」
――レイドヴィル・フォード・シルベスター。
それがアルシリーナとヴェイク、二人の間の子供に付けられた、未来の英雄の名前だった。
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