復讐の剣を(3)

     ※ ※ ※


 農村であれば死者は一人ひとり埋葬されたが、都市部でそれができるのは金持ちだけだ。

 貧乏人の死体は大きな溝に投げ込まれ、ほんの少し土をかけられるだけ。

 その上に次の死人が乗っかることとなる。

 申し訳程度に土で覆われた墓のあちこちから手足が突き出ていた。

 それは、ここウィーンでペストが猛威を振るった時の記憶である。

 あの時はグラシにその墓が作られたものだ。


 今はあの時以上に悲惨だ。

 市門の外へは出られない。

 市内は石畳で覆われていて、土が極端に少ない。

 従って、現在は街外れに位置する倉庫を仮の遺体安置所として使っている。

 夕べ起こったカプツィナー教会の爆撃で、そこは溢れ返ったことだろう。



     ※ ※ ※



 真っ白な紙の上を木炭がなめらかに滑る。

 淡い黒が重なって、徐々に立体的な像が浮かび上がってきた。

 男の繊細な指が規則正しく動くたびに、木炭と紙のこすれるシャッシャッという小気味良い音が耳朶をかすめる。

 その音階が心地良くて、女は目を閉じた。

 この音の中に身を沈めてしまいたい──そう思ったから。

 しかし、その願いは無残にも打ち砕かれる。


 あれほど活気に満ちていた──マリア・カタリーナから見れば、それはカラ元気に映ったものだが──市内は静かだ。

 品のある静寂ではなく、低く立ち込める黒雲に押し潰されそうな静けさ。

 空気が薄くなったようで息が苦しい。


 そこに、打音が響いた。

 大太鼓の音が無遠慮に市壁内へ降り注ぐ。

 それから金管楽器。不安を掻き立てる高い音色。


「この音……もう嫌だわ」


 オスマン帝国軍の音楽隊メフテルハーネの演奏である。


「音階も何もないこの音楽……苛々するわ」


 マリア・カタリーナはぎりぎりと唇を噛んだ。

 普段から感情を表に出すことは苦手だ。

 だが、苛立ちと不安を彼女は素直に口に出していた。

 何故なら受け止めてくれる人がそこにいるから。


「何でもないよ、マリア。こんな音でオレは壊されない」


 アウフミラーは優しい。

 少なくとも、ここ数日は。

 マリア・カタリーナの言いようのない不安の発作が鎮まるまで、帳面を置いてこうやって背を撫でてくれる。


 いつもの路地裏。

 しかし見上げるシュテッフルの塔は、無残にも抉れている。


 夕べのことだ。

 飛距離云々については彼女は分からなかったが、それでも体感として理解できる。

 攻囲軍はいつもとは違う大砲を撃ってきた。

 飛来する砲の唸り声が違う。


 何よりシュテッフルとカプツィナーというウィーンっ子の精神的な支柱を破壊したその威力。

 シュテッフルの塔には常に人がいるわけではない。

 今回も人的被害はなかったという。

 だが、カプツィナーは……。


 屋敷が避難民に解放されており居場所を失ったマリア・カタリーナ。

 仕方なく身を寄せていたカプツィナー教会には、同様に多くの民が避難してきていた。

 市長も多くの時間をこの教会で過ごしていたし、他都市から逃れてきた修道女の姿もあった。

 市の中では、立地的にも恐らく一番安全な場所だと考えられていたからだ。


 そのカプツィナー教会は、今や見る影もない。

 多くの人と共に崩れてしまったのだ。


 いち早く父、シュターレンベルクがオスマン帝国軍に奇襲攻撃をかけ報復を果たしたらしいことを、彼女は市民の口から聞いた。

 そのおかげであろう。

 砲撃は今朝からまたいつものシャーヒー砲の締まりない音に戻った。

 そして物理的な攻撃を諦めたかのように、気持ちをかき乱す音楽隊の演奏が続く。


 撫でてくれる手を失えば、きっと恐慌をきたすに違いない。

 彼女はそう確信していた。


 マリア・カタリーナだけではない。

 耳慣れぬ音楽は壁の中の人々の心をかき乱す。

 市民らも妙に苛ついたり、何でもないことに怒鳴ったり。

 感情が高ぶっているのが分かる。


 兵の血を流さず、金もかけずに相手の戦意を挫く──音楽は攻城戦にとって有効な戦法だと父なら言うだろう。

 戦場慣れしたあの人には、か弱い市民の気持ちなんて分かりっこない。


「甘いものでも食べたら? 落ち着くよ、マリア」


 背中から手が離れた。

 物足りないという表情をしていたのだろう。

 マリア・カタリーナの顔を見て、アウフミラーが唇を歪める。


 笑われたのだと察して、彼女は自身の頬が冷たくなるのを感じた。

 《陰気なマリア》が人の優しさなどを求めてどうするというのか。

 生まれた時から決まった星の巡りだ。

 自分には人並みのものなど与えられる筈がないのだ。


 ほら、と差し出された物を反射的に受け取ってから、マリア・カタリーナはいじけた考えが溶けるのを感じた。

 鼻孔をくすぐる甘い香り。

 これはガレットだ。

 平時においても贅沢品である甘い焼き菓子。


「あのおかしなパン屋をさ、手伝うふりしてくすねてきたんだ」


「あんた、本当にずるいのね」


 ガレットを齧りながら彼女は地面を見つめた。

 鼻に抜ける甘い香気の中に、マリア・カタリーナはお得意の言葉の毒を包む。


「くすねているのはお菓子だけじゃあないでしょう」


「………………」


 一瞬黙り込んだアウフミラーだったが、仕方ないというように小さく声をあげた。


「あたし見たの。あんたが夜中にこっそり門から出ていくのを。パンを沢山持っていたわ」

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