復讐の剣を(1)

 「空気」というものは大切である。

 オスマン帝国軍など怖れるに足りぬ。

 何故なら、ここは「ウィーン」なのだから。

 ヨーロッパ最大の城塞都市に喧嘩をふっかけようなど、無謀を通り越して憐れですらある──その強気が包囲中の都市生活を支える。

 市民の精神を、そして市中の活気を。


 オスマン帝国内の不穏な動きを察知してのち、ウィーン防衛司令官がほぼ一年かけて市民に浸透させたこの楽観論。

 壁の中にいる限り、自分たちに手出しできる者は皆無だという確信──それは根拠のない優越感といっても良い。


 だが、その自信はたった二発の砲で脆くも崩れた。

 ウィーンの象徴ともいえる荘厳なるシュテッフルの塔が砲に穿たれ、そしてカプツィナー教会が多くの市民を巻き込んで半壊した。


 オスマン帝国の行う戦争とは略奪、そして奴隷作りというのが、多くの民が敵勢力に抱く印象だ。

 もしもウィーンが堕ちればどうなる?

 自分たちも容赦なく殺され、慈悲なく奴隷の身に堕とされるのか?

 その思いは、人々から抵抗する意志を麻痺させる。

 虚勢が崩れた以上、市内を恐慌が満たすのは時間の問題であった。



     ※ ※ ※



 ウィーンの夏の夜明け──白みだした空の下、裂けそうなほどに空気は冷たい。

 だが大気は明瞭で、地平の向こうまで見通すことができた。

 軍靴と鐙が触れる金属音。

 馬の鼻息までがはっきりと耳に届く。

 深く呼吸すると、肺まで浄化されそう。


 騎馬の列が、静かにウィーンの市門を出た。

 出撃前の緊張感を楽しむ余裕のある者しか、今回は連れてきていない。

 従って手勢は百名弱。


「十分だ」


 ウィーン防衛司令官は口元を歪めた。

 笑みであるとするならば、それは壮絶な表情である。

 敵軍に気付かれぬようにドナウ河沿いに位置する規模の小さな市門から出て、彼らは市壁の外側をぐるりと回ってウィーンの西側に出てきていた。


「兄上、参りましょうぞ」


 グイードが声をひそめる。

 別に小さな声にならなくとも、グラシを挟んだ向こうにいる敵軍に聞こえはすまい。

 だが、当のシュターレンベルクも黙って頷いた。


 明け方とは襲撃には最適な時間帯である。

 夜の間、張りつめていた神経が太陽の光を感じた瞬間、ふと緩む。

 夜警の者にとっては交代まであと少し。

 一気に眠気が押し寄せる頃合だ。

 そこをつく。


 そんな中でもやはり起きて、しっかりこちらを見張っている者もいよう。

 ウィーンの市壁の前に居並ぶ騎馬の姿に肝を潰すと慌てて周囲の者を起こし、上官に報告するために奥のテントへと向かうだろう。

 夜間の砲の守りを命じられた僅かな者たちも急いで大砲に弾を込め、手持ちの銃を準備して銃口をこちらに向けるだろう。

 だが、そんな時間など与えてやるものか。


「俺に続け。いいな、決して馬から降りるな」


 指揮官の声は低い。

 だが背後の壁に反響し、空間に響く。


 シュターレンベルクの軍靴がポンと馬の腹を叩き、それが合図となった。

 騎士たちは隊列を組んで駆け出す。

 陣形と作戦は既に伝えてある。


 指揮官を中心に左右に一人ずつ。

 馬体の幅と同間隔の距離をあけて、突き刺すようにグラシを駆ける。

 最初の七十五メートルはゆっくりと、次の百五十メートルは速歩(トロープ)で。それから全速力(ガロップ)、最後の三十メートルは更に早く。


 僅か数瞬の後、迫る敵陣。

 馬が巻き上げる砂塵が、まるで朝霧のようにこちらの姿を覆い隠してくれる。

 轟く馬蹄の響きが聴覚を奪った。


 シュターレンベルクのすぐ後ろ、グイードのいる二列目には四人。

 先頭の三騎の隙間に顔を出すように布陣し、やや速度を落としてついてくる。

 三列目はまた三人。次は四人。

 交互に並び速歩で続いた。


 狙いどころは分かっている。

 オスマン帝国軍の主要人物たちのテント周辺は、塹壕と柵に囲まれていた。

 兵らの宿泊用テント周りにも簡易的な柵が設置されている。

 標的は、それらが無いところだ。

 つまり、移動式大砲の周囲である。


 放たれた矢のように。

 騎馬はオスマン陣営に突き刺さった。


 慌てふためく重砲警備の兵士らを馬が踏み殺そうとする瞬間、急速に速度をあげて迫った二列目が前列の三人の間に滑り込む。

 疾走する七騎に穿たれ、文字通り蹴散らされたオスマン兵ら。

 踏み殺されなかった者も、襲撃者の剣であっけなく喉を掻き切られて果てた。


 さすが精鋭と呼ぶべき男たちだ。

 手負いの指揮官が剣を抜くのに一瞬まごつく間に、彼らは馬上からもう数人を切り捨てている。

 一、二列目が剣を振るっている間に、今度は三、四列目が更に敵陣奥深くへ突き刺さる。

 そして五、六列目も。

 抉れるように、オスマン砲兵の陣形が崩れた。


 コロンボルナ砲が予想以上の効果をあげてくれたことに、カラ・ムスタファは満足したのだろう。

 ありったけのコロンボルナを、グラシを挟んでケルントナー門の真正面に並べていた。

 朝になれば、これを使って一斉に砲撃をするつもりだと窺うことができた。

 夜間ということもあり、今は僅かな砲手と守備隊を置いただけの布陣である。


 そこを、シュターレンベルクたちウィーン守備隊がついたのだ。

 七列目以降は前者のように攻撃は行わなかった。

 狙いはひとつとばかりに、それぞれ手近なコロンボルナの足元に黒い粉を撒いていく。

 それが火薬であることは、八列目によって点けられた火によって小規模な爆発を起こしたことで明らかだ。


 忌々しいコロンボルナを無力化する。

 夜明けの突撃の目的はそれだ。

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