鉄壁(5)

「リヒャルト君とマリアさんもすごくショックを受けてたよ。友だちだったから」


「友だちって……」


 息子と娘には一言も言葉をかけていない。

 狭い市内のこと。

 今日だって早朝と昼前に顔を合わせる機会はあったが、頑なに無視を決め込む。

 何も知らないフランツはそれを心配している様子だった。


「二人とも、変な子だけど良い子だよ? 僕、友達になったよ」


「……良い子なものか」

 笑う気力も失せた。

「もう息子と娘の話はするな」


 自分で思ったよりきつい口調になってしまった。

 フランツが見る間に落ち込む様子が見て取れる。


「……みんなおいしいパンを食べたらいいのに」


「は?」


「甘くて楽しくてワクワクするパン。みんなが仲良くなれるパンがあったらな。僕がそんなパンを作れたらな」


 夢でも見ているかのようにポソポソと呟く。

 それをシュターレンベルクは無視した。

 爪をギリギリと噛みしめる。

 これ以上踏み込まれて、俺の精神を抉られてたまるか。


 ほんの一瞬。

 思考が奥深くに潜っていた。

 だからだろう、反応が一呼吸遅れたのは。


「閣下、どうしますか?」


「えっ?」


「だから閣下、追い払いますか?」


 見るとケルントナー門に陣取っている見知った顔の門兵が大きく手を振っていた。

 指揮官の元から門まで、さして距離があるわけではないのだが間に市民らがいることもあり、声も届きづらい。


「んん? 分かった。閣下、制止の声も聞かずにどんどん近付いてくるって言ってます」


 前半は上方を見ての言葉だったので、陵堡にいる見張りとのやりとりであると分かる。


 何者かが門に近づいてくる?

 グラシを通ってか?

 まさか敵兵がそんな大胆な行動をとる筈がない。

 ならば、皇帝からの書状を携えた使者か?

 援軍の目途がついたとか?

 もしかして、援軍の先発隊が到着したとか……いや、そんな馬鹿な。


「敵か味方か報告しろ。とにかく皆はそこを退け。どこでもいいから建物の中に入ってろ」


 後半は群がる市民らに向けた言葉だ。

 指揮官の思いがけず鋭い語気に、彼らは渋々といった体でケルントナー通り沿いの民家や商店に入っていく。

 空いた道路をシュターレンベルクは走った。

 陵堡への階段を登り、見張り兵の肩越しにその一団を見やる。


「避難民か?」


 付いて来たバーデン伯が唸る。

 眼下。門の向こうから、とぼとぼといった歩調でグラシを歩いて近付いて来るのは、憐れなまでのぼろ布を纏った者数人であった。

 少し間をあけて更に数十人。

 小柄な体格のように見受けられるが、全員、頭巾を被っているため性別までは判断できない。


「た、助けてください……」


 先頭の者が憐れな声をあげる。

 張りのある声だ。

 男、それも若い男であろう。


「村を焼かれ、命からがら逃げてきました」


 どうしますか、と下から門兵が叫ぶ。

 避難民が助けを求めているように見受けられる。


 包囲されている以上、ケルントナー門の巨大な扉を開けるわけにはいかない。

 太い鎖を陵堡の上から数人がかりで巻きあげて鉄扉を引き上げるという手法は、とにかく時間がかかるのだ。

 避難民を入れている間にオスマン兵がすぐ際まで迫るのは間違いない。


 巨大な鉄扉の少し向こうに設えてある通用門的な小門を開けるのが現実的か。

 そうするならば、それは下の門兵たちの仕事となる。


 だが──。


「本当に避難民か? それだったらすぐに小門を開けてやれ……」


 これ以上、避難民を市内に入れるなという、グイード硬い表情が脳裏に蘇る。

 それでなくともこの時期、余程のことでもない限り勝手口といえども扉は開けたくないのが確かだ。


「何かキナ臭いよ……」


 袖を引く手。フランツである。


「お前、まだいたのか。さっさと陵堡から降りろ。どこでもいいから家に入れてもらえ」


「やだよ。僕、シュターレンベルクの役に立つんだからッ!」


 勝手にしろと言い放つ。

 今は小僧に構っている間はない。


 市内へ入り込もうとする敵にしては大胆すぎる。

 だが、避難民がオスマン帝国軍の囲みをくぐり抜けてここまで到達できるだろうか。


「お前、キナ臭いって言ったな」


 集団を見下ろして、シュターレンベルクが呟く。


「うん。パン・コンパニオンの嗅覚だよ」


「パン・コンパニオンの嗅覚か何かは知らんが……だが、俺もそう思う」

 そして声を張り上げた。

「駄目だ。門を開けるな。絶対に奴らを入れるんじゃない!」


 下からの返事はない。


「おい、聞いてるのか?」


 陵堡から市内の方へ身を乗り出したシュターレンベルクの耳に、空を裂く鋭い音が届いた。

 その音が告げる「危険」という感覚。

 同時に、下から銀色のきらめきが放たれる。

 ナイフだ。

 常であれば身をかわすか、あるいは剣か銃身で容易に叩き落とす類の攻撃である。


 だが、今日は反応が遅れた。

 下を覗きこむため重心を片足に移したばかりだったため、とっさに身を引くことができなかったのだ。

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