眼鏡を踏む

@tatibana_meme

第1話

 その男は無職であった。姓は近藤、名は慧。半年ほど前に妻子と離別した後、東京都は某区の6畳半にて、半ば引きこもりのような生活をしていた。薄手の布団にちゃぶ台1卓、小さな冷蔵庫とドラム式洗濯機、これらが彼を取り巻く全てである。

 いつの間にやら夏秋が過ぎ去り、死を身近に感じるような冷え込みであった。近藤はエアコンのリモコン操作すら気怠く感じ、頼りない布団に身を包みながらスマートフォンの奴隷となっていた。

 時折の面会交流に関する連絡と、両親からの生存確認以外に、彼を煩わせるものはない。ただ無心でAIの推薦する動画を、劣等感に抵触しないよう吟味するだけである。腹が減るとコンビニに行き、この世界へのささやかな抵抗としてなるべく不健康な食品を手に取る。1日3回の入浴と毎日数時間の深夜徘徊が、彼の生活を彩っていた。

 そんな彼の貴重なアイデンティティの一つが、孤独感である。このまま孤独に死んでいく事こそ、彼の唯一の人生計画であり、ある種の救済でもあった。誰かの価値観に晒される事は、もはや耐え難い事象であった。しかしながら、近藤も人の子である。双方向コミュニケーションの一切を断てるほどには悟りきっていなかった。

 当初はSNSで自己の存在を叫ぼうとしたが、時折遭遇する不可抗力的劣等感に耐えきれず、利用は限定的となった。そこで彼が選んだのは、ブラウザ上のチャットサイトだった。

 チャット開始のボタンを押せば、ランダムな相手と1対1でチャットができるという代物だ。日本全国の見知らぬ相手と、心の内を晒しあうことができる、というコンセプトである。

 互いに挨拶から始まり、心の内を吐露し、感想を述べあい、互いの幸福を祈りながら会話を終了する。などといった理想的かつ平和的な邂逅が一般的になるはずもなく、現実には破壊衝動や性的衝動の押し付け合いが常である。男女の肉体的結合を目的とする者も多い。

 9割方は人類愛の欠片もなく数分以内に会話が終わり、そこで生産されたストレスをぶつけるために再度開始のボタンを押すのであった。

 最初の挨拶が済むと多くは自らの性別を明かす。その9割は男であるが、それに対してこちらが男であると返すと、ほとんどの場合は会話終了となる。

 近藤の目的は孤独感に対するアヘンであったから、自身の性別を使い分ける事に抵抗はなかった。相手が男と名乗れば女になり、女に対しては男となった。繰り返すうちに彼の中には、10代の少女や20代の女性会社員などの人格が同居するようになった。

 小学校から大学に至るまで受けた教育や、会社員時代の社会経験、家庭人としての様々な教訓を活かし、近藤は多くの男に夢を見せた。彼は夢の続きを与えてやれない事に一定の罪悪感も感じたが、嫌悪対象である自己を薄める喜びが勝った。

 このような自我の辻斬りを繰り返す日々の中で、その出会いはあった。日付の変わる頃である。

 通り一遍の挨拶を終えたが、今回の相手は性別を明かしてこない。まるで理性を持った人間のように、無難な話題から互いの自己開示へと会話が進んでいった。

 不快感のない衝撃から、近藤は偽らぬ我を語ってしまった。相手の語る相手の姿は、偶然にも共感する部分の多いものだった。そして相手は、年若き女性だと語る。彼は久々に、性別への感想を抱いた。

 会話とは、こうも快楽を伴うものだっただろうか。彼は寝食を忘れて自我を発露した。空が白み始めた頃、彼の心は別れを惜しみ、連絡手段を交換するに至った。

 近藤の精神構造は、確実に変化を始めた。己の発言に対して継続的に反応する人間の存在は、彼の孤独感を癒していった。実体のない何かに怯え、存在しない誰かを求める状態から、実存する彼女への憧憬および依存へと歩を進めたのだ。

 彼女が彼であるかもしれないし、アルゴリズムにより生成された存在である可能性も否めない。しかし、そんなことは些細な問題である。何日か彼女を崇めていると、会う約束を取り付けるに至った。彼にとっては2週間が永遠のように遠く感じた。

 近藤は努力した。何を求めているのかも理解せぬままに。信者が神の住む世界に一歩でも近づこうとするように。再度の拒絶への恐怖から逃避するように。

 髪を切り、ひげを剃り、爪を切り、保湿をし、においを抑える。マッチョに囲まれ体を鍛え、食事を見直し、再就職に向けて活動した。

 この極めて人並みな努力は、しかし彼の自尊心を回復させ、自己を肯定させるに至った。

 自己肯定は未来に対する期待感を増幅させ、彼に不純な妄想も植え付けた。それは彼の、子供に対する罪悪感にも繋がったし、元妻の未来の事象に対する自己の傷心も連想させた。

 その日が近づいてきた深夜である。近藤は彼女から相談を受けた。生理が来ないとのことである。そして、心当たりを頼れぬ状況であると言う。

 近藤は自身の経験からアドバイスを送り、やや混沌とした通話を交わした。共感とも哀愁ともつかぬ感情から、婦人科を調べ、提案し、道中を付き添う事にした。

 翌朝の近藤は、やけに醒めていた。出勤時のような心持ちに、ほんのわずかな期待感が混ざっていた。

 約束のカフェでエスプレッソを啜っていると、彼女が現れた。偶像崇拝はしていなかったため、その姿にイメージとのギャップはなかったが、眼前の女性が己と言葉を交わしている状況に彼は新鮮な困惑を抱いた。

 目を見て話せ、と近藤は幼少期より教えられている。よって目を見て話した。それだけが彼の記憶する全てである。

 カフェを出ると病院へ向かった。せいぜい徒歩10分ほどの道中が、やたらと長く感じられた。病院の入り口まで彼女を送り、彼はまたカフェに入った。エスプレッソを啜りつつ、彼は感情を整理した。

 彼はまず、彼女の作成する文字列への信仰と、彼女自身に対する好奇心を分離した。また、それらを構成するのが自身の孤独感や発散機会を失ったリビドーであると考えた。

 そして、好奇心の具現化は不可能であるという客観的正解を導き出した事にある種の誇らしさを感じていた。

 それでもなお、ささやかに抵抗したくなるのが男の性である。近藤は彼女の身に何も起こっていない事を願うのであった。

 2時間ほど経った頃、彼女から近藤に連絡があった。診察が終わり、病院を出たようだ。

 手際の悪い通話の末に再会し、またカフェに入った。彼女から事の経過を聞いた彼は、祈願の成就を知った。

 しばらく話を聞いていると、どうやら彼女の元には幸福な連絡があったらしい。その表情は少し明るくなっていた。

 そろそろこの邂逅が終わりに近づいている事を悟った近藤は、最後の抵抗に打って出た。彼はおもむろに眼鏡を外し、かばんにしまった。

 美しい終わり方にするための、締めの言葉を交わす中、近藤の裸眼は彼女の瞳を真っすぐに見つめた。

 「今日はありがとう。」

 彼はそう言って立ち去った。

 帰路、彼は視界の異常に気付いた。眼鏡を取り出すも、なぜか掛けようとは思えない。彼は眼鏡をそっと地面に置き、両足でしっかりと踏みしめた。

 軽やかにスマートフォンを取り出し、爽やかに電話を掛けた。

 「コンタクト、今日作れますか?」

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