第26話 「俺は、二人の望月小雪、どちらも好きだ」
3
「おそらくなんらかの形で脳に負担がかかり、一時的な失神のような症状だと思います」
医者はそう言った。
望月さんが倒れた後、救急車が来て、今は病室のベッドで寝ているが意識はまだ戻っていない。
今俺は、望月代理で先生から今回の病状について説明を受けているところだ。望月さんのお父さんは、仕事の関係で遠出していて到着には時間がかかるみたいだ。
「失神は、数分で目が覚めると聞いたことがあるのですが、望月さんは本当に大丈夫なんですか?」
「脳へのダメージが一般的な失神よりも少し大きく、一時的に脳の機能が衰えている状態ですね」
「命に別状はないので安心してください」
「脳、ですか…」
脳に、負担がかかる事はしていないはずだ。俺たちは、公園に行っただけだ。
「とりあえず、望月さんが目覚めてから詳しい検査をして様子を見ましょう」
「わかりました。ありがとうございます」
「お大事にどうぞ」
そうして、病室を後にする。少なくとも、今俺にできることは望月さんのそばにいる事だけだ。
望月さんがいる、病室のドアを開ける。ベッドの隣に、椅子をおいて目覚めない望月さんを見守る。
さっきまで晴れていた天気は、今では曇天になって空には富士山の姿が見えないくらいに雲がかかっていた。
ただただ時間だけがすぎていく。
俺も、気持ちの整理がついていない。望月さんが突然倒れた驚きと困惑。そして、公園が壊されていく悲しみと、何もできない非力さへの絶望。そんな感情が、俺の中でぐるぐると渦巻いていた。
昨日の出来事も、現実じゃない何かだったのだろうか。あれは絶対に夢ではない確証はある。夢にしては、感覚がはっきりしているし、鮮明に覚えている。でも、俺たちの公園は、3年前から時間が止まったかのように変わっていないどころか、時間の流れを止めることはできず、俺たちの手の中にはもうなかった。昨日の楽しかったことも、全部現実じゃない…?
俺の心は、望月さんが倒れ、公園が変化してと悲惨なこと続きで、そんなことを考えるくらいに悲観的になっていた。
俺の過去を否定するように、何もかも壊れてしまった気分だった。
『はぁー』と思わずため息が漏れる。
その後は何も考えず、『ザー』という雨音だけを聞いて意味もなく時間を過ごす。
やはり、時間は際限なく進んでいく。現実はこんなものだ。時間は、大切なものを奪っていく…
「うぅ…」
そんな時、望月さんが声を上げる。
「望月さん!?」
「こ…こは?」
「大丈夫か、望月さん!?」
「あれ、私…。確か、公園について、ラベンダー畑を歩いて、えっと、それから…」
「公園で急に倒れたんだよ。意識が戻って本当に良かった」
「倒れた?うぅ…」
望月さんは、目を覚ますなり頭を痛たそうに抱える。
確か、医者が脳にダメージを負ったと言っていたはずだ。
本当に、脳へのダメージがあったのか。じゃあ、なんで急にダメージが?
「頭が痛むのか?そうだ、なにか冷やすもの…」
頭が痛い時は、冷やすと良いとよく聞く。辺りを物色して、冷たいものを探す。
「ありがとうございます。湊音くん、もう大丈夫」
「とりあえず、これ飲んで」
そう言って、水の入ったペットボトルを渡す。
「ちょっと、起き上がれないから飲ませて欲しいです」
意識の戻ったばかりの望月さんは、意識がはっきりしていないのか少しふわふわとしていた。
寝ている望月さんの口にペットボトルの先を当てるようにして、水を飲ませる。
望月さんは、こういつも通り振る舞っているが、本人も何が起こっているか分からず混乱していると思う。
とりあえず、いまは話を聞く前に望月さんのことを最優先にするべきだ。
「体調はもう大丈夫なのか?」
「はい。少しぼーっとするけど大丈夫」
「頭は、もう痛くないか?」
「私は大丈夫ですよ。湊音くんは、心配性すぎますって」
「心配に決まっているだろ。突然倒れたんだから。本当に良かった」
俺は、安心して胸をなでおろす。
「ずっと近くにいてくれたんですよね?本当にありがとうね」
そんな慈愛の顔でこちらを見つめてくる望月さんを見て、心は少しホッとしたような気持ちになった。
大切な人が元気で目の前にいる。それだけで、今は十分だった。
俺は一度病室を後にして、望月さんが目覚めたという旨を看護師さんに伝えにいく。
病室に戻ると、ベッドの背もたれにもたれ掛かる形で望月さんは、身体を起こしていた。
「身体、少しよくなったか?」
「はい。身体もさっきよりは軽いし、頭ももう痛くないです」
「そうか。良かった」
意識を取り戻して、数十分だったからかだいぶ意識が戻ってきたようだ。
「それで、公園での出来事はどこまで覚えてる?」
体調も安定してきたところで、本題を切り出す。
「えっと、あんまり覚えてないんですけど…」
「大丈夫。覚えていることだけでいいんだ」
「ラベンダー畑のことはよく覚えているかも。それ以降は、ごめんなさい。わからないです」
「意識が戻ったばかりなんだ、仕方がないよ」
「広場のことは覚えているか?」
「広場?」
「いや、なんでもない」
広場での出来事は何も覚えていない様子だった。
望月さんは、倒れる前に俺に対して口ずさむように『湊音』と言った。湊音と呼ぶのは、俺の記憶の限り小雪と叶翔だけだ。
それに、涙を流しながら『私たちの公園』とも言った。私たちとは、望月さんと誰を指すのだろうか。
もし『私たち』が指す相手が、俺だとしよう。そうすると、この2つの発言から、俺のことを下の名前で呼ぶほど親しい人で、工事中の公園を見て涙を流せほど八木崎公園に思入れのある人だと予想できる。
俺の知る限り、そんな相手は小雪しかいなかった。
小雪と望月さんは何かしらの関係があると考えていたが、それはもう確証に変わっていた。
少なくとも、全くの他人というわけではないと思う。
「望月さんは、公園について何か感じた?」
「え、何か?」
「なんか綺麗だなーとか、なんでも良い」
今はとにかく情報が必要だった。今までで一番、望月さんが小雪と関係している出来事が起きた。今のうちにできる限り情報を集めたかった。
「えっと、ラベンダーがすごく良い香りでした。次から柔軟剤はラベンダーにしてみようかなと思いました。こ、こんな感じでも大丈夫…ですか?」
「うん。大丈夫。あとは、何か感じたか?」
「後は、そうだ。なんだか、懐かしいような来たことあるような感覚でした。名前すら知らない公園だったんだけどな…」
そう不思議そうに、望月さんは話していた。
「懐かしいってなんで?きたことなかったよな」
「私にもわからないです。ただ、なぜかそんな感じがして…」
懐かしいなんて感情は、一度来た人の言う感想だ。
望月さんは、公園に来たことはないはずだ。俺が公園の名前を出した時、全く知らないような反応だったはず。
なんらかの形で、一度公園に来たことがあるのか?
そんなことを考えていると、ドアが突然ノックされる。
「望月さん、検査の時間です」
看護師さんが病室に入ってきて、望月さんを呼ぶ。
「わかりました」
そう言って望月さんは、ベッドから身を下ろす。
「じゃあ、行ってきますね」
「うん、行ってらっしゃい。頑張って」
病室には、俺だけが取り残された。
とりあえず、望月さんが元気そうで良かった。
安堵で無意識に、胸を撫で下ろす。
望月さんが検査に行ってからのことだった、数分後ドアが開く。
もう検査が終わったのか?早いな。
「あれ?望月さんもう終わったの?」
そう言って、ドアの方に振り返る。
「すまない。遅くなった。小雪は大丈夫か?」
「マ、マスター!?」
ドアを開けて病室に入ってきたのは、なんと小雪と喧嘩した時にお世話になったカフェのマスターだった。
「な、なんでマスターがここにいるんですか?」
望月さんの病室に入ってきたのは、なぜかマスターだった。
「えっと、どこかでお会いしましたか?」
店員は、基本的にはいちいち客の顔など覚えていないだろう。
でも、俺の場合は話が違った。カフェで小雪といざこざがあって、マスターにはとてもお世話になった。
それに、その出来事があったのは2日前だ。流石に、そんな客をすぐに忘れてはいないと思うが…
「えっと、ここのカフェのマスターですよね?」
そう言って俺は、スマホをポケットから取り出し、2日前に小雪と訪れたカフェの名前をネットで調べる。
「嘘だろ?」
しかし、何度調べても『検索条件と十分に一致する結果が見つかりません』と画面に表示されていた。
まるで、2日前に訪れたカフェは最初からこの世界に存在していないみたいだった。
「どうかなさいましたか?」
マスターらしき人は、俺のことを不思議そうに見つめる。
「すみません。勘違いみたいです」
背格好、立ち振る舞いといい、この前のマスターだと思うのだが…
そんな一連の出来事の最中、病室のドアが『ガラガラ』と開く。
「戻りました」
望月さんが検査から戻ってきたみたいだ。
「お父さん…」
「小雪、遅くなって申し訳ない。体調は大丈夫なのか?」
「うん。もう大丈夫だよ」
お父さん?小雪?
一連の少ない会話でも、この人は、望月さんのお父さんだということが容易にわかった。
「なんか、久しぶりだね。4ヶ月ぶりくらいかな…」
「前回帰ったのはそのくらいか。あまり帰れていなくてすまない」
「しょうがないよ…お父さんもお仕事大変でしょ?私は、平気だから…」
そう言うが、望月さんの顔はさっきから暗いようにも思える。
「この方が、望月さんのお父さん?」
「うん。そっか、湊音くんは初めてだよね?。私のお父さんは、こっちに滅多に帰ってこられないから…」
さっき俺が話した人が、望月さんのお父さんみたいだ。
しかし、滅多に帰ってこないと言うことは、出張の多い仕事なのだろう。
見れば見るほどマスターにしか見えないが、やはりマスターではないみたいだ。
「望月さん、診察のお時間です」
看護師が、そう言って部屋に入ってくる。ちょうど望月さんのお父さんが来たタイミングで、検査結果が出たみたいだ。
病室を後にして、診察室に入り医者の前に置いてある椅子に座る。
「頭部ct検査を行ったところ、今回の失神は、大脳皮質、つまり記憶を保管する場所にダメージを負たことにより起こったものだと思います。望月さん、もしかして昔の記憶が一部思い出せないなどの症状がありませんか?」
「えっと、3年前の記憶が、抜け落ちたみたいに思い出せないです…」
望月さんは、やけに言い淀んでそう言った。
「やはり…解離症。昔、記憶のことに関して検査していませんよね?」
「はい。病院に行く、機会がなくて…」
「記憶の空白が見られるのは、解離症の一種だと考えられます。お父さん、解離症は自覚しにくい病気です。少しでも娘さんを気遣ってあげてください」
解離症って確か、自分が自分でないような感覚に陥ってしまう、こんな感じの病気だったよな。
望月さんが、解離症…?
「はい。わかりました」
望月さんのお父さんは、終始とても驚いた表情だった。3年前の記憶がないことや、解離症について知らない、そんな様子だった。
「倒れる前、なにか昔のことを急に思い出したりしませんでしたか?」
「えっと、特には」
確か公園が懐かしく感じた、それ以外に思い当たる節はないと言っていた。
「今回の失神は、今後3年前の記憶が戻る前兆かもしれません。解離症にもいくつか種類があるので、今後は、解離症について重点的に検査していきましょう。これからは定期的に診察を受けに来てください
望月さんは、うつむいたまま何も言わなかった。
「頭の痛みなどはもう大丈夫ですか?」
「今は、大丈夫です」
「では、診察はこれで終わりです」
3人で診察室を後にして病室に戻る。病室には、気まずい空気が流れる。
「なんで、知らないんですか…?。なんで、望月さんのことを3年も放置したんですか」
そんな空気を、ギザギザと荒く切り裂くように口を開いて、望月さんのお父さんの胸ぐらを掴む。
火に油とは、今の俺のことを言うのだと思う。
でも俺は、大切な人を簡単にあしらう、そんな望月さんのお父さんが許せなかった。
「いいの、湊音君いいから…」
望月さんが、俺の手を軽く引っ張る。その手は、辛さ、悲しみからか、少し震えていた。
「良いわけがないだろ。あなたの娘でしょ?父親が娘のことを見てあげないで誰が見てあげるんですか?」
「3年間も望月さんはずっと一人で抱え込んできたんだ。これじゃあ、あまりにも望月さんが可哀想だ…」
そんな中、病室に携帯電話の着信の音が鳴り響く。望月さんの、お父さんの電話のようだ。
「もういいです」
そういって、突き放すように望月さんのお父さんに背を向ける。
「すまない。はい。私だ。その件は、私のデスクにまとめておいた書類の…」
望月さんのお父さんは、電話をしながら病室を後にした。
なんで電話にでるんだよ。娘が、病気だったんだぞ…。父親なら心配が先だろ?
「娘が大変だって言うのに、仕事優先って…」
望月さんのお父さんは、娘が病院にいるのに関わらず電話をとった。
それに、先ほどからまるで他人事みたいだ。「大丈夫か?」の一言もない。
「あはは、お父さんいつもあんな感じなの。あくまで、仕事が第一優先。もう、慣れているから平気だよ...」
望月さんは、無理に笑いを顔に浮かべて、窓から遠くの景色を眺めながらそう言った。
そんな、望月さんの無理に作った表情は、少し悲しそうに見えた。
「慣れていても、辛いものは辛いよ」
人間の慣れは、適応しているとも言う。でもその反面、すり減っていく自分の心の傷にも気づけなくなってしまう。
俺は、それをよく理解していた。3年間小雪と会えなくなって、もう慣れてしまっていた俺がいた。
でも、久しぶりに小雪と再開して、いままで自分の心がすり減っていたことに気がついた。
だから、慣れていても辛いものは辛いのだ。
「ありがとう。そう言ってくれてすごく嬉しい」
「でもね、今は湊音くんが近くに居てくれるから私辛くないよ。湊音くんは、私にしっかり向き合ってくれる。私は、それがすっごく幸せなんだ」
いつも辛い時にそばにいてくれて、何度も助けられた。俺も、望月さんが辛い時は、一緒に痛みを感じで寄り添っていきたいと思う。
俺の肩に、望月さんの頭がゆっくりと触れる。二人で、病室の大きな窓から雨が降る外を眺める。
俺は、元気で危なっかしくて、支えたくなるような小雪も、イタズラ好きで子供っぽいところもあるけど、甘やかし上手で大人っぽい望月さんも好きだ。
でも、どちらも選ぶことはできない。どちらと一緒にいたいか。これは決めなければいけないことだ。 自分の心と向き合っていくしかない。
「体もまだ万全ではないし、そろそろ寝たほうが良いんじゃないか?」
「そうですね、そうします」
そう言って、望月さんはベッドに横たわる。
「湊音くん、わがまま言ってもいいですか?」
「お手柔らかでたのむ」
「今日は、寂しいのでずっと一緒にいてほしいな」
「ああ。そのくらいのことならお安い御用だ」
そう言って、望月さんを見守る形で椅子に座る。
「て、手握ってて」
今日の望月さんは、やけに甘えん坊だ。
今は、普段と同じように接してくれている望月さんだが、病気だっとわかって一番辛かったのは本人だと思う。
俺は、望月さんの3年分の心の傷を、俺のできる形で癒していきたい。
布団の横から、ちょこんと差し出された白くて綺麗な手を握る。
「安心してくれ。今日は、ずっとここにいるからな」
「ふふ、私は幸せものですね」
そう言って、望月さんは幸せそうな顔ですやすやと眠ってしまった。
解離症…
望月さんの、3年前の空白の記憶。今日の公園での一連。
望月さんと小雪は、俺でも見間違えてしまうほど見た目がそっくり。二人が入れ替わるように現れる。
望月さんは、まさか…。いや、でも。うんん、やっぱり二人の関係って…。
最悪の仮説が、より鮮明になろうとしていた。俺は、二人の望月小雪とどう接していけば良いのだろうか。
俺は、二人の望月小雪、どちらも好きだ。
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