影夜の宴

 鏡台の前に座る真理の顔には、蝋燭の灯火がゆらゆらと踊り、真理の顔に影と妖しさを落としていた。筆を一本でも落としてしまったら、それがとんでもない衝撃音に聞こえてしまうくらい、静寂が真理の部屋を支配している。


 不安気な手つきで真理は化粧道具を収納する大きな木箱の蓋へと、手を伸ばす。木の温かみが手の感覚器官を刺激し、パカっと開いたその蓋からは懐かしい白檀のお香が鼻腔をくすぐる。


 その濃密な香木の芳香に誘われ、真理はありし日の思い出を蘇らせた。


  十五年前、真理は吉原の遊郭で母の変わり果てた姿を発見してしまった。その騒動に便乗するかのように、何者かが近隣の妓楼で放火をし、やがて吉原全体が火の海となり、避難を余儀なくされた吉原関係者は、政府からの特別許可を得て、再建期間中は一般市街地に店を構えることを許された。


 吉原のように囲われた空間ではないため、当然脱走を試みる遊女は少なくなかった。真理もそのうちの一人ではあったが、真理には協力者がいたのだ。東京の田舎に位置する石田寺で住職をしている、清照と名乗るいかにも優しそうな中年男性だった。


 母の知り合いだったらしく、真理は彼のその人懐っこく、穏便な雰囲気に背中を押され、差し出された救いの一手を握ったのだった。


 妓楼では叩かれ、叱られてばかりだった真理にとって、石田寺での生活はまさに天国だった。


 質素ではあったけど、毎日四季折々の旬野菜を使った精進料理。心の邪念を追い払ってくれるお経。手が真っ赤になるほど冷たい水で行う雑巾がけ。最初は馴染めずに苦労した寺子屋での刺激的な勉強。そして、清照和尚に読んでもらう西洋の物語。どれも、真理が過ごしてきた石田寺での楽しい思い出の一つだった。


 真理は清照和尚のことをやがて、本当の父親のように慕っている自分に気づいた。真理のことをいつも特別に気にかけ、毎晩のように真理の部屋にやってきては面白そうな本をたくさん準備してくれていた。そんな彼が大好きだった。


 西洋の翻訳本を特に好んで読んでいた清照和尚の影響もあり、少しでも彼と何かを共有したかった幼い真理は、子が親の真似事をするように同じ本ばかりを読んでいた。


 そんなある日、十三歳の真理は、吉原での生活を全て忘れたかのようにのんびりと過ごしていた。


 清照和尚はその日、近隣町のお茶会でお説法を頼まれていて、外出する旨を真理に伝えた。


「いってらしゃーい!」


「真理ちゃん、何があってもわしの部屋の箪笥の中を見るでない!あそこには毒が入っておる。絶対開けるでないよ!わかったかね」


 愛嬌たっぷりで送り出す幼い真理に対して、清照和尚は顔をわざとらしくしかめ、どこかふざけたような声で言った。そして、よちよちと、真理の頭を撫で回してから行った。


 お茶目な清照和尚は、『臭い足を洗わないと、きのこが生えるぞ』とか、『へそを出して歩いたら河童に食べられるぞ』というように、子供騙しなことを言うことが多かった。そのため、真理も最初はそのことをあまり気に留めることもなく留守番をしていた。


 だが、色々と考えているうちに「見るな」、「開けるな」という言葉が真理の好奇心を掻き立ててしまったのだ。


 一直線に清照和尚の部屋に向かい、勢いよく箪笥の中を覗いてみると、その中にあったものは……


(何これ?)


 真理は呆気に取られてしまった。箪笥の中には、女性の裸体や情事に励む男女の浮世絵が数枚入っていたのだ。


「小雪?」


 一つの浮世絵の右上に小雪と書かれていた。それは、真理の母親の名前でもあった。


 真理の体はぷるぷると震え出す。今までは遊郭がどのようなものなのか漠然としか理解していなかったが、枕絵に生々しく描かれている男女の営みを見て、頭の中でぼんやりと残っていたあの妓楼での断片的な記憶の意味がようやくわかってきた。


 夜な夜な聞こえていた男女の苦しそうな声や、真理が六歳になったのを機に毎日練習させられていた、あのお尻に力を入れる妙な練習。


 真理は吐き気がした。妓楼のみんなも、母も、清照和尚も皆が皆はしたなくて、許せなくて、真理は逃げることを決意した。


 荷物を持って寺から飛び出た真理は、不運なことに清照和尚と鉢合わせてしまった。肩を捕まえられ事情を吐き出された真理の話を聞いていた清照和尚の目に水分が溜まり、申し訳なさそうに謝ってくれた。


「本当にすまん。わしは真理ちゃんのお母さんに出会った後に、僧侶になったんだ。じゃが、忘れたくても忘れることができなくてのう……弱いわしは誘惑に負けてしまって、医者のふりをして通っていたのじゃよ」


 懺悔のように、彼は今まで隠していたことを洗いざらい真理に話した。


 母の借金のことや、母を騙していた黒田源蔵という男の存在。包丁が突き刺さった状態で母の遺体を発見したあの日、黒田源蔵が登楼していたこと。母から相談を受けていた清照和尚もその当日登楼していたことも。


 全て聞き終えた真理は何も言えなかった。


 彼を軽蔑さえした。


 だが、冷静になり始めた真理は、次第にお寺以外に身を寄せる場所がないことに気づき、葛藤を抱えながらも石田寺に残ることにした。


 それからというもの、真理は清照和尚と距離を保ちながらお寺での暮らしを続けていたが、一度壊れた二人の信頼関係の復元はできず、時間だけが過ぎていった。


 石田寺では衣食住に困ることもなく、あの日以来、清照和尚の秘密を握ってしまった真理は自分が道徳的に優位な立場にいるつもりで、平気で清照和尚の言い付けを破ったりして自分の反抗的な態度を正当化していた。


 二人の仲が改善することなく、真理は大人になってしまった。石田寺に残るか、去るかという明確な選択を迫られるなか、竜之介という寺子屋で知り合った男と再会する。


 彼は再建築された吉原の引手茶屋で働いていて、彼は自慢のように接待した客の名前や職業を話してくれたのだが、その中に「黒田源蔵」という名前があったのを真理は逃さなかった。


 竜之介に事情を全て話した上でこの復讐計画に協力してもらうことになったのだ。


 白昼夢から覚めた真理は、錆によって部分部分黒く変色している鏡が映す自分の姿を見て驚いてしまった。


(……誰これ?)


 白粉で雪のように白く映る肌に、鮮血を連想させる甘美な真紅色の唇。上瞼を縁取る、墨で描かれた優美な曲線に可愛らしい桜色の頬。


 自分ではない自分に違和感しかなかったが、あの浮世に描かれた小雪に似ているような気がして、もしかしてお化粧をした母はこのような顔になっていたのかも、と真理は思う。


(……ま、浮世絵の顔ってみんな同じに見えるけどね)


 橘屋から貰っている給金をほぼ全て使い込んで買った上質な着物に身を包み、真理は自室の明かりを消し、短い間お世話になったこの部屋に感謝の念を込めて、丁寧に障子を締める。


 隣室の北陽の部屋の前を通りかかったとき、真理は何か言うべきかどうか迷った。


 無事に黒田を自白させ警邏隊に突き出せば、目的を果たした真理はここにいる必要はなくなる。逆に失敗でもしたら、真理が逆に警邏隊に捕まるかもしれない。


 どのみち真理がここにいるのは今晩が最後になる可能性がある。


「……松下さん?」


 鼓動の早まった真理は、障子の外で北陽がいるかいないかわからない部屋に、上擦る声で呼びかける。


 北陽に返事をしてほしいという淡い期待と同時に、逆に真理の言動を不審に思って止めに入るかもしれないという不安が胸の中で渦を巻き、真理は北陽の部屋の前で動けずにいた。


 返事がない。


「短い間でしたけど、ありがとうございました。……松下さんと一緒に過ごした時間は楽しかったです。……何かと生きづらい世の中ですが、めげずに、ありのままの北陽さんでいてくださいね」


 北陽がいないことに半分安堵した真理は、偽りのない気持ちを言い残し、橘屋の正面玄関へと向かった。


 明かりの付いていないお店は真っ暗で真理は手探りで、店長がいつも薬の調合をしている作業台を探す。


(店長には文でお別れの挨拶だけはしないと)


「何をしておる?」


 暗闇の中から突如吐かれた質問に、真理は飛び上がる。


「へっ!橘さん?何をしているんですか?……あっ、それよりも、私、今日で辞めさせていただきたいと思っております。急で大変申し訳ございません」


 真理は姿の見えない店長に頭を深く下げる。


「これ、また処分してくれ」


 真理の言葉を無視するかのように差し出されたのは、消費期限の近い、長命丸を含む何種類かの薬だった。


 処分をするくらいなら安くして売ればいいのにと真理は最初思っていたが、安売りしていては、安くなるのを待つ客が増えることに気づき、真理も納得した。


「わかりましたよ。……今まで、お世話になりました、橘さん」


 薬を抱えて玄関を出た真理の背中に向けて店長が「ありがとう、真理ちゃん」と言った気がしたのは、気のせいだったのか、真理にはわからなかった。


 吉原を監獄のように囲う大きな塀の近くまで来ていた真理は少し急足で橘に指定されていた処分場に向かっていた。


 かつては遊女のお歯黒で真っ黒に染まっていた水溜まりまで来て、真理はきょろきょろと辺りを見渡す。


 誰もいない。ここは人気がなく、ゴミ処分は人目に付かずに済む。


 すぐ近くには古い井戸と小屋があり、もう何年も使われなくなったような寂れた雰囲気を醸し出していた。さすがにお歯黒の汚染もあるだろうし、誰も井戸の水を飲まないだろうと思い、真理は水溜まりに一気に薬を流し込んで、目的の場所へと走っていく。



              ♢ ♢ ♢


「やらかすなよ」


 耳打ちしてきた竜之介の声が真理の鼓膜を伝い、緊張を一気に増幅させていた。


「……なんかあったら、俺が何とかするするから」


 真理の緊張に気づき、優しい声で言う竜之介に申し訳ない気持ちを抱えながら、真理は素直に感謝を伝えた。


「うん……ありがとう」


 昇陽楼の三階の部屋に通された真理たちは、今晩登楼する黒田源蔵たちをもてなすため、吉原を一望できる景色の良い広間に連れてこられていた。身元を隠すべく、真理は三味線の弾ける異国から来た謎めいた芸者という設定に基づいて、行動を取るよう心がてていた。


 あくまで黒田が遊女たちと会う前のほんの一、二時間のおもてなしまでが引手茶屋の役割であるため、真理は早めに行動を起こす必要があった。


 和洋折衷な広間には、濡れた艶を持つ上質な緋色の絨毯が敷かれ、初めて足を乗せた真理は、その柔らかく、滑らかな踏み心地に驚いてしまった。


 既に並べられていた漆塗りのお膳は五膳ほど用意されていて、黒田が四人連れてくる予定であることを初めて知る。


 竜之介に誘導されるがまま、真理は部屋の隅の定位置につき、不慣れな手で三味線を一度持ち上げると、じんわりと不安が募ってきた。禿だったときに習わされた三味線は、石田寺に住み始めてから一度も練習したことがなく、上手く弾けるかどうかかなり怪しかった。


 しばらく座って待機していると、緊張で硬直してしまった全身の筋肉が、部屋に隣接する廊下を踏みつけて近づいて来る複数の足音に、小刻みに震え出していた。


 深呼吸で震えを抑えながら、部屋の前で止まった足音を合図に、膝の前に丁寧に手を重ね、頭を深く下げる。竜之介もそれに倣った。


——すぅー


 襖が敷居の上を滑らかに滑る音がした。


「お待ちしておりました、黒田様。本日はご登楼いただき、誠にありがとうございます。こちらは本日の演奏を担当させていただく、鬼百合タイガーリリーでございます。異国では大変評価されている芸者ですが、日本語はあまり得意ではないため、通訳も兼ねてこの私もお供させていただきます」


「や、よろしくオネガイシマス」


 訛った日本語の演出をしようとするあまり、「よろしく」が「いやらしく」に聞こえたのではないかと、真理は心配した。


「ほう。顔を上げてくださいな。そのままでは、そなたの顔が見えないではないか」


 真理は嘔気がした。その声に何処か覚えがあったのだ。


 十五年以上も前に聞いた声に比べるとやや低く老化を感じさせる掠れもあったが、あの丁寧で抑揚のある特徴的な話し方は、なぜか忘れることはできなかった。


 化け物と目を合わせるのが怖く、恐る恐る顔を上げた真理は、視線をゆっくりと上げていった。


 妙なざわめきが真理の心臓を支配し、黒田と思われる男性の顔の全容を捉えた瞬間、ついにそれが暴れ出すように体の芯までもが震えだす。


 目の前にいた中年男性の顔は、やや中性的な顔立ちで、かつてはなかなかの二枚目だったと考えられるが、経年の贅肉によって顔の輪郭がやや不鮮明になっていた。


 今でも女性受けしそうな顔ではあったが、真理は彼のその目の虚な表情に強い嫌悪を覚えた。まるで、魂が宿っていなような、そこ知れぬ空虚を孕んだ目だった。


「……綺麗な子だ。異国の曲を奏でてくれよ」


 話しかけられた真理は言葉に詰まり、返事の代わりに一度頷く。


 黒田を含む五人組はお膳の前に座り、運び込まれた上等な日本酒をお猪口に注がれながら、真理に不快な視線を送った。


 鉛のように重くなった手を持ち上げ、三味線を膝に乗せ、目を一度瞑る。


 深呼吸をし、撥を手に取り、それを三味線の糸に振り下ろす。


(っ!)


 ジャン、と勢いよく弾かれた糸の音が響き、真理はその汚い音色を誤魔化す方法を必死に探る。


 客と目が合って、緊張と動揺が悟られてしまうことを防止するように、真理は目を閉じたまま、誰とも共有し得ない、見えない音の世界に浸っている演奏者の演技をする。


 そのまま、数本の指で弦を押さえ、記憶に埋もれている懐かしい歌を奏で始めるが、楽器の振動から発生する不協和音がやがて空気に運ばれ、皆の鼓膜を襲撃した。


 真理の演奏に疑問を抱くものが出てきたのか、辺りが少しざわめきだし、真理は少し焦った。


 だが、できないことをできるように見せるには、まずは形からと言うように、真理はいまだ一人だけの音の世界に溺れる、異色の芸者になりきるべく、上半身をゆらゆらと前後させ、有無を言わせない雰囲気を作ろうとしていた。


 その演技に納得したというか、騙されたというか、やがて一人の男性が


「……異国ではこのような曲が流行っているんだな」と言ったのを真理はしっかり聞いた。


  真理は内心安堵した。目を閉じていた真理は、視覚のない分聴覚がいつも以上に働き、部屋の外の小さな音にも気付けるほど、音を敏感に聞き取っていた。


——タッタッタッ


 特徴的な足音が杉板の軋みとともに外の廊下でこだまする。


(……あれ?この足音は、あのときの「英雄さん」!)


 襖の開く音とともに、使用人の声がした。


「失礼致します、黒田様。お楽しみいただいているところ、大変申し訳ございません。実はこちらの手違いにより、本日のご登楼される人数を正確に把握できておりませんでした。残り一名様のご膳をすぐさまご用意させていただきますので、少々お待ちくださいませ」


 演奏を止めた部屋に変な沈黙が流れる。


 そして、使用人の後ろに構えていた人物に一斉に視線が行く。


(……ま、松下さん?!こんなところで、一体何を?)


 眼窩から眼球自体が飛び出そうな目で廊下に立つその男を凝視している真理は、ふと化粧で自分の顔が変わっている影響できっと北陽も自分の存在に気づいてはないのではないかと思った。


「黒田さん、本日もこのようにお呼びいただき、ありがとうございました。……先日も本当にお世話になりました。首相も大変お褒めになっていましたよ」


 北陽と思われる男性の声は、北陽特有の柔らかな優しい色調を帯びておらず、それは低く透き通った、男性らしいものだった。


 会話中に、「首相」などといった単語が突如その男の口から発せられたことに真理は戸惑った。北陽は、実は政府の役職に就いており、それを何らかの理由で隠しながら橘屋で働いているということが些か信じかたいものだった。


「……」


 黒田以外の男たちは状況を理解するのに至ってはおらず、招いていないはずの客が来てしまったときの、どこか気まずい空気があった。


「……いいえ、こちらこそありがとうございました。首相からのお褒めの言葉、光栄に存じます。……どうぞ、お座りくださいな」


 黒田は北陽と思われる人物を部屋の中へと招き、真理は廊下の陰ではっきりと見えていなかった彼の顔を見て、狼狽えた。


 最初は北陽に見えたその人物は、北陽のようで、まるで別人だった。


 その男性の端正で精悍な顔は、目と鼻の位置や形などは北陽と全く一緒なのに、その顔の奥にある、滲み出るものが北陽でないことが一目でわかった。


 目の前の男は眼鏡を掛けておらず、額に被さるはずの前髪が全て顔の横に流されていて、その男らしい額と強烈な黒曜石の瞳が激しく主張をする。


 すらっとしている真っ黒な着物には目立たないな模様が施されていて、胸元が少しはだけている着こなしがひどく色っぽく、蠱惑的だった。


 得体の知れない感情が真理の中で渦巻き、知らぬ間に彼の姿に釘付けだった。 


「ありがとうございます」


 着席したその男性がふと、真理の方を見る。 


(……!)


 もはや冷静ではいられなくなった真理は、鼓動の早まった心臓に手を当て、捉えられたその目から逃げるように視線を逸らした。


(誰なの?松下さんなの?)


 本来の目的を忘れそうになった真理は、その男の正体が気になって仕方なかったが、ここでは異国から来た芸者という役割を全うすべく、すぐさま三味線の演奏を再開した。


「タイガーリリー、そなたは面白い歌を知っているのだな……」


 褒め言葉かはわからなかったが、真理は異国人のふりをするため、一度竜之介に訳してもらう形を取った。


「 Don't bite the hand that feeds you(恩を仇で返すな)」


 その言葉の意味は全く知らなかったが、異国の言葉で間違いないし、真理は他に知っている異国の言葉がなかった。


 それに加え、北陽に似たその男性が北陽であることを確認するためにも、真理はその言葉を選んだのだった。もし、彼が少しでも動揺を見せたら、その男が北陽である証拠にもなる。


 だが、彼は全くその言葉に反応を示さなかった。


 聞き取ったふりをした竜之介が口を開き、「ありがとうございます、だそうです」と適当に言う。


「タイガーリリーさん、と言いましたか……面白い選曲だと思いました。ブラボ!」


 その北陽に似ている男はいきなり意味深な笑みを浮かべ、ゆっくりと拍手をしながら真理を見つめる。


(この男、私を茶化している?)


 その男性の正体と真意の探りに気を取られていると、真理の背中には竜之介の手が当たり、促すように数回叩かれる。


 いよいよその時間になったようだ。


 いきなり登場した男に計画を邪魔されるのではないかと危惧し始めた真理は、緊張がいつの間にかほぐれていることに気づき、やや自信を持って次の計画を実行に移そうとした。


「Don't bite the hand that feeds you(恩を仇で返すな)」


 真理は再び同じ言葉で、竜之介に通訳を促すような表情を浮かべる。


「鬼百合さんが、別室にて特別に黒田様にお見せしたいものがあると仰っております。他の皆様にはこちらで続けてお接待させていただければと思います」


 竜之介の言う「お接待」には、それ以上の何かを期待させるような妖しい響きがあり、部屋に取り残された男たちも不満一つこぼさなかった。


「楽しみですなあ……」


 同意するように立ち上がった黒田の姿に安心しつつも、この後の展開に不安が膨らんだ。


 北陽に似た男性も続けて立ち上がり、「では、私はこれにて失礼させていただきます」とだけ言い、退出しようとする。


(来たばかりなのに、もう帰るんだ)


 彼の目的が掴めない真理は、何も言わずただ彼の動向を見張っていた。


「……あの……もう帰られるんですか?まだまだこれからなのに」


 そう言った黒田の言葉からは、北陽に似た男を何と呼べばいいのか迷いが感じられた。もしかすると本当は誰一人、彼の知り合いではない可能性さえあると、真理は疑い始めた。


「ええ、今晩はお呼びいただきありがとうございました。お陰様で異国の美しい曲を聞かせていただきましたので、大変満足いたしました」


(……!……私を揶揄っている?)


 有無を言わせず、先に部屋を去ったその男の背中を目で追っていると、ある疑問がまた浮上する。


 彼の向かった方向は出口ではなかった。


 彼もまた、真理のように何かを企んでいるのではないかという考えがふと真理の頭をよぎり、これから大事な局面を迎える真理の思考を散漫としたのだった。



 鼻の下を伸ばして真理についてきた黒田と一緒に足を踏み入れたのは、同じ階にあるややこぢんまりとした部屋だった。大名調度品が上品に飾られている円形の飾り棚が部屋の中心的な装飾になっており、広間ほどの華美さは感じられないが、あまり人が寄りつかない建物の端にあるこの部屋は、尋問にちょうど良さそうだと真理は思った。


「こ、コチラマデドウゾ」


 毒餌で害虫を誘き寄せるように、真理は慎重に部屋の中まで来るよう促す。


「……思っていたより、小さい部屋だなあ」


 彼は両足を部屋に踏み入り、襖を背にしたまま襖を勢いよく閉める。


(……)


 彼の目は暗い部屋の中で、獣のようにぎらつき、真理は恐怖に怯える自分を必死に抑えるように近くの灯りをつける。


 ここからが勝負だった。


 万が一何かあれば、隣の部屋に身を潜めているはずの竜之介が来てくれることが唯一の真理の心の救いだった。


「オスワリクダサイ」と真理は指示を出し、すでに準備されていた西洋式の椅子に指差す。


 好奇心か怪訝か判断できないような面持ちで彼は行儀良く着席する。


 黒田の舐め回すような視線を意識するように、真理は着物の合わせに隠していた冷たい金属質のものを避けて、そのさらに奥に忍ばせていた紐を色っぽい動作で出し、彼の座っている椅子の後ろに回る。


「タノシイコトシマショウネ」


 真理はそう言って彼の手首に紐を括り付けて動かせないようにしようとすると、黒田は何の抵抗もなく手首を差し出す。


「面白い子だね……そなたはこれから何をするのかな」


「ちょ、チョットネ……」


 誤魔化すように言った真理は又もや吐き気に襲われ、震える手つきで彼の手首と足首を椅子に括り付けて固定する。


(もうこれで大丈夫。彼は手が出せないはず。)


 真理が母の遺体を発見したあの日、黒田は登楼していた。彼が見世を去った直後に包丁が腹部に刺さった状態で発見された母は、状況からして、黒田に殺されたとしか思えなかった。だが、その後の火事の騒動にかき消されるように、母の殺害の件はまともに取り調べされず、 遺体までもが黒焼きになった母の無念を晴らすことはできなかった。


 人の命を奪っておきながら、豪遊をして何食わぬ顔で生きている男を野放しにすることを、真理は許せなかった。


 彼は真理の母以外の女性からも、詐欺に近いような形でお金を毟り取っていたと聞く。


 だから、真理にとって、これからすることはただの復讐ではなかった。


 仮にも国民の血税で働いているこの男が、人殺しや詐欺紛いのことをして、そういった不幸を被った人々の思いを踏み躙るように、平気な顔をして生きているのが許せなかった。


 世の正義のために、彼は来る制罰を受け止める必要があったのだ。


 無防備に動けない黒田を前にした真理は、義憤に燃えていた。


「十五年前、あなたはこの吉原で小雪という女性と知り合いだったわよね」


 訛りを捨てて普通に話す真理に彼は驚き、目を丸くする。


「……あっ、なるほどね……そなたはあの売女の知り合いだったのかあ」


(お母さんを売女呼ばわりするなんて!)


——パチン


 真理は、この状況が生み出した支配欲に抗えず、黒田の頬を思いっきり平手打ちした。


 男とは比べ物にならない力で叩いたものだから、出血はしていないはずなのに、黒田は唇に付いた血をを舐め回すような気持ち悪い動作を見せる。


「お母さん、いや、女性をそのように呼ぶのは許せない。……あなたは黙って私の質問に答えさえすればいいのよ!余計なことを喋らないで」


「ふん……小雪の娘ねえ。見たことのある顔だと思ったよ」


「黙りなさい!」


「さっさとそなたの質問を聞かせてくれよ」


「……吉原が火事になったあの日、あなたは小雪に呼ばれて登楼していたわよね?」


「知っているのなら、なぜ聞く?」


(憎ったらしい……)


「あなたが母のことを殺したのを知っているのよ。私はまだ幼かったけど、そのとき妓楼にいたから。あなたには今から洗いざらい全ての罪を吐かせてもらうわ。母の殺人だけでなく、詐欺のことを全て。最後にそれを書き留めた紙に署名してもらう」


「……」


 彼はなぜかニヤニヤしていた。そして、肉食獣のような鋭い歯を見せて、腹で大きく笑っていた。


「何が可笑しいの?」


 真理は苛立ちが隠せなくなり、眉間に皺を寄せて聞く。


「あっはっは……そなたは本当に面白い子。私は今、最高に楽しいです。今から私が言うことに、あなたが絶望する顔を見ることができるから」


「えっ……」


「その日、そなたが本当に私たちが会っているところを見たのなら、小雪を殺したのは私ではないことをわかっているはず……」


「嘘だ……」


 立場が不利なのに余裕な黒田が無性に腹立たしく、再び手を挙げる衝動に駆られる。


「可哀想な子だ……私への復讐のためだけにこれまで生きていたのなら、本当に可哀想な子だ」


 訳がわからず、混沌する思考を沈めるために真理は「黙って!」と罵声を浴びせた。


「これ以上可哀想な子にならないために、私の方から正直に申し上げよう。……私は小雪を殺していない。だが、殺されるところは見ているよ」


「えっ、どういうこと?」


「小雪自身の手でね……」


(えっ……)


 頭が真っ白になった真理は無意識に座り込み、何も話せずにいた。


「そなたの母は私にお金を貸しくれたのだが、見返りにともいうべきか、した覚えのない身請け話に責任を取ってもらうと、半ば脅されたのだよ。約束はそもそもしていないのだから、それはできないと言ったら、彼女、取り乱してね。……包丁を取り出すものだから逃げようとしたんだが、それは私に向けてではなく、自分に向けて、身請けしないのなら、自死を選ぶと私を脅したのよ。……彼女にその包丁を本当に使う勇気があるとは思わなかった……」


 真理は黒田の話を青ざめた顔でただ呆然と聞いていた。


「そなたはとても可哀想な子だ。母にも捨てられ、生きる意味を失い、我を忘却したようなその姿には……興奮するよ。そなたがもっと絶望する顔を見たいから、もう一ついいことを教えてあげよう……」


 真理の力尽きたような表情を一度確かめてから続けて言う。


「小雪の言う身請けは、そなたをその妓楼に残して、私と二人で暮らすことだったのよ」


(ああ……)


 何となく、真理も知っていたような気がした。幼い子にとって母が全てであることの反対に、母にとって子が全てではないようだ。望まれて、愛しい人との間に生まれた子ではない真理は、母にとってただのお荷物だったのだ。


 荒波のように押し寄せる深い悲しみと悔恨の感情に抗う術がなく、真理は全てを諦めたような無表情で床に張りつく。


「可哀想な子を楽にするのが私の仕事」


 その言葉の意味を探る余裕もない真理を見て、黒田は妄りがましいことを考えているような笑みを浮かべ、いつの間にか真理の結んだ紐を解いていた。


「紐もちゃんと結び方を学べなかった、可哀想な子」と言って真理の頭を撫で回した。


(!)


 怖気付く真理は、彼のその触り方が呼び水となり、過去に同じ触り方をされた記憶が鮮明に蘇る。


 恐怖の感情を堰き止めていた防波堤が崩れる音がして、真理は声も出せず、体も動かせない岩のようになった。


(この人に、幼いときに会ったことがあったんだ……)


 無かったことにしようとしていた記憶が一気に姿を現し、強い畏怖の念を通り越した、諦めのようなものに呑み込まれる。


 覆い被さるように真理は床に押し付けられ、生きた屍の如く、朦朧とする意識で天井を見つめていると、不快な重みが体にのしかかり、耳元で濡れた吐息で黒田は言った。


「そなたのこと、覚えているよ」


 絶望と諦めの感情を行き来している人間から反応を求めることなく、彼は真理の着物の合わせに手をかけ、真理の肌がひんやりとした夜の空気に晒されたその時——


——すぅー


 襖が開き、廊下の明かりが部屋に溢れ、真理たちを照らす。


 逆光で顔が見えず、隣で様子を見守ってくれていた竜之介が助けに来てくれたのだろうと真理は思ったが、その特徴的な足音と、彼のその纏っている冷暗な雰囲気が、やはりあのとき真理を助けてくれた「英雄さん」のものに違いなかった。


 羞恥さえも忘れるくらいの混沌のなか、真理の上にあった重みがなくなり、鈍い打撲音と黒田の呻き声が部屋で鳴り響いた。


(また、助けられた?)


 茫然とした意識のまま、真理は起きあがろうとすると、上から黒い布が真理の体の上に落とされ、真理はようやく自分が裸であったことに気づく。


「大丈夫か?」


 真理と視線を合わせるようにした「英雄さん」は、真理の顔を覗き込むようにして聞いた。


(不思議……松下さんと同じ顔なのに、別人)


「は、はい……ありがとうございました。実は、あなたに助けられたのは初めてではないんです。少し前に、松田楼の前で男に叩かれているところを助けてもらいました。あのときのお礼をずっと言えずにいて、すみませんでした」


 彼は思い出すように「あのときの?」とだけ言って、部屋の隅に転がる黒田を見る。


「……立てるか?」


 彼は弱く頷いた真理の上体を起こすように、真理の背中に大きな手を回し、座った状態の真理に背中を向ける。


(あっ、着物を着直す時間をくれるんだ……)


 ふらつく手で着物の帯を締め直した真理は「直しました」とだけ言って、真理の上に被せられていた黒いコートのような羽織りものを返す。


 力の入らない体を強引に立たせようとすると、体勢を急に変えたことに驚いた体はふらついた。膝が床に当たったときの衝動的な痛みで、自分が倒れかかったことに気づく。


 すると肩に男の手を感じ、抱き寄せるように真理はその手の補助を得て立たされる。


(あっ……)


 初めて間近で合わされた目には磁石のような引力を感じ、彼の瞳に潜む深淵より深い闇に吸い込まれたいと切に願ってしまった。


 その未知の感情に戸惑う真理は慌てて目線を外す。


「……大丈夫です。ありがとうございます」


 すると、部屋の隅で倒れていた黒田という男の肉の塊が動き出した。


「やっぱり、お前は、今日まで会ったことない……何を、企んでいる?……やるなら、さっさとやれー」


 黒田は痛々しい表情で上体を起こし、そう叫んだ。


 その姿は弱々しく、哀れで、真理の中の悪虐な感情に火をつけるものだった。


(許さない、許さない、許さない)


 髪女が例のあの男を殺したときも、同じような心境だったのだろうか。


 真理が幼い頃抱えていた、一種の男性恐怖症は全て、この黒田に起因するものだったと考えると、ただの憎しみ以外の感情が全て吹き飛んだ。


 布に包まって隠してあった刃物を抜き出し、一点を目掛けて直進する。


「やめろ!」と制止しようとする声を無視すると、真理の身ごと後ろから拘束されてしまう。


「やめて、離してください!黒田を殺さないといけないんです!ああいう根性の腐った人間を生かすのは、世のためになりません!あなたも言いましたよね?『悪い輩には制罰が必要』だと!」


 泣き崩れる真理の肩を後ろから抑えていた「英雄さん」は、真理を宥めるように言う。


「制罰を下すのは、俺一人でいい。お前は手を汚す必要ない」


「へっ?」


「悪行は悪人に任せろ。そのためだけに、俺は生まれたようなものだから……」


 耳朶を掠めるくらい近くに吐かれた彼の言葉が、悲しくも己の運命さだめを強く自覚したものに聞こえた。


「そんな……」


 そのためだけに生まれてくる人はいない、と言いかけたそのとき——


「きゃあああ」


 女性の叫び声が廊下から響いた。


 あまりにも尋常でない叫びだったので、黒田の存在を忘れ、二人で叫びのした方へ走っていく。


 廊下に出た二人は、目の前の光景を見て、その雑然とした様に理解が追いつくのに数秒を要した。


 廊下中に女性の長くて黒い髪の束が点々と落ちていたのだ。


 そして、その髪の毛の束に囲まれるようにして座り込んだ、慌てふためく様子の遊女がいた。


「か、髪女がいた!」


 と遊女は二人に叫び、驚いた表情の二人を大きな目で見上げる。


「どっちに向かった?」


 事態収拾の早い「英雄さん」は向かった先を問い、髪女を追う姿勢を見せた。


「あっちよ!」


 彼女は階段を差した。下の階に移動したようだ。


 二人でそちらに向かって走っていくと、真理は黒田を放置していたことを思い出す。


 走って部屋まで戻るも、そこにはもう黒田の姿は見当たらなかった。


 とりあえずは下の階に移動し、この妓楼の何処かにいる髪女を探すことに尽力し、黒田の件は後回しになった。


 同じ間取りの下の階の廊下には、同じく大量に髪の毛の山があったが、肝心の髪女の姿はない。


 そこで真理は落ちている髪の束に一つの疑問を抱く。


(あれ……これ……)


 持ち上げた髪の毛を目の近くまで運び、髪のとある不審な点に気づく。


「見てください。この山の髪、まるで切り落とされたように真っ直ぐな線が毛先にあるんです」


 その髪の山を彼に見せ、次に他の山の髪を拾い上げて見せる。


「こちらも見てください。こちらの髪は——」


 と言いかけたところで、先に答えを言われてしまう。 


「毛根がついている。毛根がついているのとついていないのがある」


 何かがおかしい。


 よく見れば、髪の毛が等間隔に落とされているようにも見えてきて、真理は強い違和感を抱き始めた。


 上階で会った遊女の様子も、改めて振り返ってみると、まるで真理たちに発見をされるのを待っていたみたいな雰囲気でもあった。


 ふと、昼間見たここの遊女たちの短髪の姿を思い出す。この髪女騒動が遊女たちによって捏造されたのなら、その動機は何なのだろうか。


——ガッサガサ


 廊下のちょうど真ん中に立っていた真理たちは、廊下左端の部屋から妙な物音がしたのを不審に思い、その部屋に近づいてみる。


 すると、鳥の巣でも被っているかのような、ぼわぼわとした長髪の人物が部屋から飛び出し、近くの階段を走って駆け下りた。


 白い夜着のような簡易的な服を着たその人物の顔は見えなかったが、その姿を一目見て一つの真実が浮かび上がった。


 今まで聞いていた髪女の証言では、髪女は四つん這いで床を這うように動き、さらには四肢が変な角度で折れ曲がっているとされていた。


 先ほど、正常な二足歩行で逃げていった人は髪女ではなく、ただのなりすましだった。


 共謀——その言葉が真理の頭をよぎった。今夜の昇陽楼での騒動は、全て遊女たちの共謀で実行された犯行の可能性が高かった。


 その動機は何なのだろうと、真理が推理していると、降りてきたばかりの階段に複数の足音がした。


(……!)


 黒田が真理たちに指を差し、連れの男性たちに何やら指示を出しているようにも見えた。


「行くぞ」


 真理の手を躊躇いなく握り、髪女のなりすましが駆け降りた階段を経て、妓楼の出口へと無事に辿り着く。


「帰る場所はあるのか?」


 彼は走りながら険しい声で聞くが、真理を安全な方へと引っ張るその手からは微かな優しい温もりを感じた気がした。


 橘屋が真っ先に思い浮かぶ。


 だが、真理は別れの挨拶も済ませていたし、このような事態になっては、迷惑を掛けかねない。


「……ない、です」


 彼に届いたか届いてないか、わからないような小さい声で言った。


 彼のため息が聞こえた気がして、真理は申し訳なさで胸がいっぱいになる。彼に掴まれた手を強引に引いて一人で行動をすることを試みるが、真理の手を把持する力がより一層強くなる。


「後は自分で何とかします。今晩は本当にご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫です」


 ぽたぽたっと、水滴が仄暗い天から落ち始め、湿気と土の混ざり合った独特の香りが鼻腔を掠める。


「いや、一人は危険だ……あまり女性を連れ込むのに気乗りはしないが、今はあそこに隠れるしかない」


 真理の要求は無視され、引っ張られた手を滴る雨水が肌と肌の密着感に生々しい人間の温もりを感じさせる。


 連れてこられた場所は、出逢い茶屋という恋仲の客が利用する宿だった。だから彼は連れてくるのを躊躇っていたのだ。


 部屋を借り、二人だけの空間に入った途端、彼は真理に背を向けて言った。


「俺は起きて見張っているから、お前は寝ていろ」


 この状況で真理が寝られるはずもなく、彼に思いつく限りの疑問をぶつけることにした。


「あなたは、誰ですか?」


「……」 


「松下さん、松下北陽さんではありませんよね?」


「……北陽の知り合いだったか。……まあいい。俺は影夜かげやだ」


(……影夜)


 真理は何とこの人らしい名前だと思った。この男は、夜風に揺蕩う幻想的な影の如く、真理をどこからともなく窮地から救ってくれる謎多き英雄だ。


「影夜さん、北陽さんをご存知なんでしょうか?」


 彼の背中からは表情が読めず、しばらくの沈黙を経てから影夜が答えた。


「俺はあいつのことを知っているが、あいつは俺のことを知らない……」


(どういうこと?)


「ご兄弟なのでしょうか?」


「……同じ血を分つ者だが、訳あって彼は絶対に俺のことを知ってはいけない。俺のことを知れば、きっとあいつは壊れる」


「……っ」


 事情をこれ以上明かすつもりはないというように影夜は気だるげに壁に寄りかかり、真理の目を捉えたまま「もう休め。何かあれば起こすから、安心しろ」と言う。


 だが、真理は目を閉じるのが怖かった。


 閉じた先の夢の世界が怖いわけではない。影夜を信用できないわけでもない。


 目を閉じてしまって眠りにつけば、目覚めた時には影夜がいなくなっている予感がしたのだ。


 何せ、彼は真理を窮地から救うために現れる幻のような存在だから、この夜を無事にやり過ごせたなら、彼の役目はなくなる。


 空漠たる不安が真理の胸を占め、喉が詰まるほどの淋しみが込み上げる。


「……また、会えますか?」


 行かないで、とは言えなかった。


 彼の反応を見るのが怖くなり、真理は重い瞼を閉じる。


「……ああ、……運命が許せば」


 彼のその言葉を聞いた真理は、深い深い闇の中を照らす孤独で美しい月の夢を見たのだった。



 

 


 

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