人は鏡

「松下さん、起きていますか?朝ですよー」


 北陽は重たい頭を枕から少し上げ、寝ぼけた様子で当たりを見渡した。


 廊下に面した障子からは柔らかい日差しが差し込み、その障子の向こうに立つ人物の女性らしい輪郭を映していた。


(……真理、さん)


 真理が起こしに来たのなら、よほど遅い時間に違いない。


「すみません、今行きます!」


 北陽は飛ぶように起き上がり、布団を丁寧にたたんで身支度に取り掛かる。


 昨夜、ひどく動揺した北陽の背中をぎこちなく摩ったあの優しい手の感覚を思い出すだけで、心に妙な異物感を感じるのは、あのような偽りのない、下心のない優しさに初めて触れたからなのか。


 あの庭での出来事の後、部屋に戻った北陽は数週間ぶりの深い眠りにつき、何事もなく朝を迎えることができたようだ。


 北陽は自分の体に張り付いていた夜着を脱ぎ捨て、ついでに全ての衣類を並べるようにして念入りに確認する。露わになった足や手、次に胴体に脛に太ももを順番に目で確認した……が、あざや傷ひとつなかった。


「はあ……」


 目を伏せながら、思わず安堵のため息をこぼす。


 十代半ばからだろうか、北陽は眠りから覚めると、全く違う部屋で目覚めたり、身体中に生々しい傷跡を発見することが多かった。


 最初は居候のうちの一人の趣味の悪い悪戯だろうと思っていたが、やがてそのうちの一人が北陽に『昨日の夜、お前どこ行ってた?お前が抜け出すのを見たぞ』と聞いてきた。北陽はどこにも行った記憶などはなく、話の内容を聞いているうちに恐ろしさを覚えた。


 自分の知らないところで、体だけが何かに乗っ取られ、その間に何をしていたのか予想すらできない。そんな自分が恐ろしくてしょうがなかった。


 数人の医者に診てもらい、一つだけしっくりとくる診断をもらった。それは、夢遊病というものだった。眠ってしまうと夢と現実の区別ができない体は、夢の中の自分と連動するように動く。夢の中で走れば現実で走り、夢の中で人を殺せば現実でも人を殺すことがあり得るということだ。実に、北陽は殺人を犯す夢を数回見たことがある。


 次第に寝るのが怖くなった北陽は慢性的な寝不足に陥り、情緒不安定な日々が続いた。そのうち、その夢遊病の症状は眠っている間だけではなく、何の前触れもなく、起きている間にも現れることが数回あり、さすがの北陽もいよいよおかしくなり始めたのだ。

 

 実親の顔も覚えていない北陽は、家族の愛や温かさを知らい幼いときに売り飛ばされ、その頃からすでに今の端正な顔立ちの面影があったせいで、歌舞伎の街に拾われたのだった。


 そこでの出来事を全て振り払うように、北陽は散らかった衣類を箪笥に押し込み、お店の方へと向かった。


「おそようございます、松下さん」


 新聞を真剣な表情で読んでいた真理は視線を軽く上げ、お店に顔を出した北陽を少し揶揄うように、いつもの悪戯な笑みを浮かべる。彼女のその言葉は、昨夜のことをなかったことにしようとしているようにも聞こえて、北陽は自分でもよくわからないモヤモヤとした気分になった。


(……松下さん、か)


 昨日の夜はたしか、『北陽さん』と一度だけ呼んだ。


「おそようでございます、真理さん。お待たせしてしまい、申し訳ございません」


「見てください!今日の新聞、あの髪女騒動を取り上げていますよ。最初、私たちの茶番劇の話かなと思って少し冷や冷やしましたが、どうやら、他の妓楼でも目撃されているみたいですよ」


 北陽は真理から新聞を取り上げるような勢いで掴み、活字に目を滑らせた。


「こんな記事を書かれては、もっと注目されてしまい、面白半分で遊びに来る見物客が増えそうですね……」


 調査の邪魔になるようでは北陽も困る。


「ああ、それより、今日は特別なご依頼がありますよ。……何と、あの昇陽楼の遊女が惚れ薬を買わせてくださいと言っているんです。買うだけならうちに来ればいいのに、わざわざ文を出して私たちに会いたいと言っていただいているのは、きっと相談事か何かあるんでしょうね」


「そうですね。真理さん大活躍していますから、きっと依頼主の耳にも入ったのでしょうね」


「松下さんも、ですよ。特に昨夜の件は松下さんなしではどうなっていたことか……あっ、そういえば、私、少し考えたんですけど、惚れ薬一袋を売るのに数時間にも及ぶ相談会って効率悪いと思いませんか?」


「たしかに、そう思いますが……相談料取ります?」


 真理の大きな瞳が怪しい輝きを放つ。


「そうしましょう!」


 詳しい料金や分配方法など全く話し合わないまま、二人は依頼主の遊女がいる昇陽楼へ向かってしまった。


               ♢ ♢ ♢


 人が行き交う吉原の大通り、仲の町は、異常なくらい熱気と興奮で溢れかえっていた。


「やっぱ、夜来るべきだったかあ」


「そうですよ。こんな真っ昼間から髪女が見れるはずありませんよー」


 行き交う人々の会話が真理の耳に入った。


 昼間は客と遊女だけではなく、業者やただの見物客がこちらに足を伸ばし、夜に比べるとやや異なる忙しさを感じる。


 昨日の夜の出来事が、二人の間の距離をより一層不確かなものにした気がした真理は、あえて何もなかったことにすると決めていた。


 だが、北陽の方はというと、いつもの爽やかな好青年の雰囲気を少し裏切るような、少し暗い影を感じさせる真剣な眼差しを時折見せていた。彼が常に醸し出していた、あの優男風の雰囲気は、ただの仮面に過ぎなかったのか、真理にとっては少し気になるところだ。


 北陽と二人で早速、昇陽楼に向かっていた真理は、一歩距離を置いて後ろを歩く北陽の顔をちらりと振り返ってみる。


 (えっ)


 振り返った先に見えた北陽は、まっすぐ前を見据えていたが、その瞳の表情は一瞬だけ、なぜだか彼のものには見えなかった。人が変わったかのような、異様さがその目に宿っていた。


「どうかされました、真理さん?」


 パチリっと、合わせられた黒曜石の瞳に捕らえられ、真理は胸のざわつきを隠すのに必死だった。


「あ、い、いいえ、ちゃんとついて来ているか、少し心配になっただけです。人が、多いですから……」


 その言葉に信憑性を持たせるため、周囲の人々に行儀の悪い指を向け、ほら、たくさん人がいるでしょ、と言うように真理は上手く誤魔化したつもりになった。


「そうでしたか……では、はぐれないよう、お隣失礼しますね」


 ぎゅうぎゅうと人の波に逆らうように道を進むなか、彼は真理と肩を並べ、その肩を覆う生地から漏れる、微かな熱を感じるくらい近くまで、肩と肩との距離を詰めたまま、同じ歩幅で歩み始めた。


(……なんだか、不思議な感覚だわ)


 側から見れば、真理が木箱を背負っていなければ、二人を普通の男女の仲と勘違いする人もいるかも知れないと思うと、真理はなんともいえない気持ちになった。


 恋仲の人と一緒に歩くのは、楽しいのかな、どういうものなのかなと、ぼんやりと考えてしまっていたことにひどく動揺していた。


(……北陽はもとよりあっち系だし、私はそういうのに、全然興味がない!)


 並んで歩く北陽の爽やかな横顔をまた盗み見しては、先ほどの、北陽に抱いた強烈な違和感がなんだったのか、余計にわからなくなった。


 やがて昇陽楼が視界に入ってきて、真理は少しばかり緊張をした。


 この吉原では非常に格式が高い大見世とされていて、普通の客は足を踏み入れることすらなかった。


 天華楼とは違って完全紹介制で、登楼する度に仲介人の引手茶屋が間に入り、登楼するまでに軽くお酒をもてなしたり、特別な部屋で登楼時間まで休憩をさせるなど、手厚くお客の世話をする仕組みができていた。


 もちろん、その分、手厚い仲介料も取る。だが、いわゆる大物や一つ格上のお客は必ずと言っていいほど、引手茶屋を通して吉原にやってくるのだ。


 真理の復讐計画は、その事実に全てかかっていたのだ。


「おい、真理!」


 人間同士の会話や、自然に発生する動作音の喧騒を掻き分けて、一つの聞き覚えのある男の声がする。聞きたくない声だったが、いずれ聞かずには通れない声でもあった。


 横断する人の波を掻き分けて近づいて来る男に真理は冷たい視線を送る。


 近距離まで来た彼は隣の北陽に不信な目を投げかけ、口を開く。


「真理、少し話がある。ちょっと来い」


 強引に真理の手を引く男は、真理と旧知の仲の田辺竜之介だ。引手茶屋に務める彼とは、同じ寺子屋に通っていたが、真理は寺に預けられた身だったのに対して、竜之介は近所の農民の子で、昔から真理は彼のことが苦手だった。


「あっ……」


 彼のゴツゴツとした大きな手に掴まれると、心臓を鷲掴みにされ、全身を無数の足のない虫に這われているような気持ち悪さが迫るが、真理は深呼吸をして、なんとか顔にその不快感を出さないようにする。


「ちょ、ちょっと離して!」


 勢いよく彼の手を振り払おうとすると、ほんの一瞬だけ彼は目を開き、傷ついたような顔をして手を離す。


(……勝手に触っといて、それはない……)


 真理は心の中で彼を厳しく批判するが、今後、彼の協力が必要だから何も言えない自分に少し嫌気が差していた。


 事情を知らず、隣でその様子を見ていた北陽は珍しく険しい顔をし、二人の間に割り込もうとする。


「あっ、松下さん。大丈夫ですよ。彼はそこの引手茶屋で働いている、私の知人です」


 真理は昇陽楼の向かいの建物を指しながら説明した。


「そうだったんですね。とんだご無礼をお許しください。僕は真理さんと一緒に橘屋で働かせていただいている松下と申します」


 北陽は春風を連想させる爽やかな声と、ハートの弱い乙女を射抜いてしまいそうな笑顔で言い、最後は気品を感じさせるお辞儀で文を結ぶ。


(……もしかして、彼を意識している?)


 たしかに、竜之介は見た目は別に悪い方ではなかった。日焼けを感じさせるその小麦色の顔の輪郭はシュッとしていて、口と鼻の形も整っている方ではあった。その目も大きすぎず、小さすぎず、一重瞼も顔と相性はいいように見えた。


 だが、真理はどうにも、その市松人形のようなのべーっとした、空虚感を孕んでいる目が好きではなかった。


「……田辺だ……行くぞ、真理」


 ものすごく簡略化された挨拶をした竜之介は、北陽に片目もくれず、すぐさま本題に戻ろうとする。


「少し、ここで待っててください!すぐ戻りますから」


「わかりました」と言った北陽を残し、竜之介に駆け寄る。


 二人になったところで真理は待ちかねていたように聞いた。


「もしかして、あいつが来るの?」


「そうだ。しかも、今夜だぞ。しっかり準備しとけ。今夜を逃したら、もうないと思え。あの大臣の視察の同行が多くて、全国を飛び回っているようだからな。今日がダメなら、もう諦めろ」


 強い口調で言い放った彼の声は、北陽とは対照的に荒々しい雄っ気のあるものだった。


「わかった。ありがとう」


 いよいよ、その時が来てしまったのだという緊張が全身を巡り、真理は全身が硬直した。


「もうお前のくだらない復讐劇に付き合うのは今夜までだぞ。問い詰めて、自白させる——それだけだ。馬鹿な真似はよせよ。下手したら俺の首が危なくなるんだからな」


 それは真理でもわかっていた。竜之介は下心があったとはいえ、真理の無理な要求に答えてくれていたことには、感謝していたし、迷惑を極力かけずに終わらせるつもりだ。


(……全てはお母さんのため)


 母の仇のため、真理はあの男を野放しにすることはできない。


 十五年前、まだ幼い真理はこの吉原で禿として、母と同じ妓楼で働いていた。どの客との間にできたかわからない真理は父を知らずに育てられ、妓楼という異色の世界の日常しか知らなかった。


 母はまだ遊女として働けない真理の衣食住にかかる費用を妓楼から借り、借金額は増える一方で、年季は遠のくばかりだった。


 そんな母に救いの一手を差し伸べたと思われる男がいた——黒田源蔵、現財務大臣の補佐官だが、当時はまだ下働きで名のつく役職は得ていなかった。そのため、お金の蓄えはそれほどなく、身請け金を用意するために、副業を始めたと母に話していた。だが、副業のためにはお金が少々必要で、母の身請けのためという口実のもとで、母にもっと借金を背負わせた。


 金をもらった彼は、やがてお見世から足が遠のき、いよいよ母も不信感を抱き始めた。半ば脅し気味に彼を登楼させたあの日——母は帰らぬ人になってしまった。


(……お母さんだけのためじゃない、これは世の正義のため)


 真理は自分を鼓舞するように、自分にそう言い聞かせた。 

  

「……わかってるよ。今晩は、またここで」


 背中に竜之介の視線を感じながら、真理は再び人の波に消えていった。



 昇陽楼を前に、真理はその建物の荘厳さにまず圧倒された。風情のある唐破風の玄関屋根のなだらかな曲線を囲うように、和洋折衷な木造建築が圧迫的な存在感を放っていた。


 通常の見世の二倍の面積もあるこの妓楼は、外からガラス張りの廊下が一望できるようになっていたが、なぜか人気は感じられなかった。


 玄関で人を呼び、事情を話して通されたのが、客間と呼ばれた部屋だった。


「どうぞ、こちらでお座りになってお待ちくださいませ」


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 座る前に、真理は客間を物珍しさに見回し、なかなか落ち着けない状況だった。


 四方に貼り付けられた上品なフローラル絵柄の壁紙や、飾り棚に煌びやかに置かれていた銀色の急須やお皿。天井から垂れ下がる、宝石のように角々しくカットされ、光を屈折させながら無数の光のビー玉を部屋中に撒き散らす照明器具。部屋の中央に置かれた光沢のある生地に包まれた寝具と思われるものと、その寝具の間に挟まれて置かれた木製の長椅子。


 どれも真理の目の関心を奪う、目新しいものだった。


「座りましょうか」


 着席した真理を、北陽は妙な顔で見る。


(ん?)


「あの、真理さん……そちらは座る場所ではありません。そちらは飲み物や物を置くテーブルでして、両側にある革張りの家具が、人の座るソファです」


 少し気まずそうに、少し笑いを堪えているように北陽は言う。


(かあああー!恥ずかしっ)


「な、なるほど」


 慌てて座り直した真理の隣に北陽が腰を下ろし、ソファに若干の沈みを感じる。


「お待たせしました。文を出させていただいた知香でございます。お忙しいところ、お呼びしてしまい、申し訳ございません。……うちでも昨夜、髪女が出現したというお話はお聞きしているでしょうに。……わざわざ、足を運んでいただき、本当にありがとうございます」


 部屋に入ってきた女性を見て真理は思わず目を丸くしてしまった。


  その女性は豪奢な茄子色の着物で身を包み、丁寧なお辞儀で登場する。鋭利な顎に、キリッとした細目はどこか知性を感じさせた。


 だが、真理が驚いたのは、その髪だった。短くサバッと切ってあるその髪は肩にも及ばず、ゆるやかなウェーブで頭に張りついていた。


(これが、最新の流行り?)


 小型の兜をしているようにも見えなくはないその髪型は、真理にとっては物好きとしか思えなかった。


 お互い挨拶を済ませ、ソファに腰を再び下ろすと、早速、知香は値踏みをするような、どこか猜疑と陰湿を含んだ眼差しを真理に向けたのは真理の気のせいだろうか。


「それで、今回は橘屋の惚れ薬の評判をお聞きし、このようにお呼びさせて頂きましたが……そちらで扱っている惚れ薬というのは、どのようなものでしょう?」


「うちの惚れ薬は、イモリを丸焼きにした粉末からできております。皆さん驚かれますが、求愛中のイモリというのは、節で隔たれた一つの竹筒に入れても、お互いを求めて節をも食いちぎって再び会うんですよ。その凄まじい恋の力を借りて、人間の恋も成就させるという原理です。……このように、粉末を自分と意中の相手にふりかけて使います。そうすることにより、イモリの力が発揮されて二人は結ばれるのです」


 熱心に語った真理は知香の顔を見ながら答えるが、彼女は謎の笑みを浮かべながら湯気の立ち登るティーカップを口元で傾けていた。


 なんだか、優越的な余裕にも見えたその仕草に、真理は居心地の悪さを覚えた。


「そのようなものが本当に効くのですか?さっきの説明では全く科学的根拠がないように聞こえましたけど、どうしてそれを振りかけるだけで恋に落ちるんですか?そのような説明では私は納得しませんね」


 そう言い放った彼女は、最終的には北陽と目を合わせ、まるで北陽に同意を求めているようにも見えた。真理とこれ以上話しても意味がないとでも言いたいのか。


 真理は得体の知れない感情で震えそうになった。


(……っ……こ、この女は何がしたいの?)


 最初から惚れ薬の効果を疑っているのであれば、このようにわざわざ呼び寄せる理由がわからない。


 どういうわけか、真理と初めて会ったときから、この女は真理には敵意を抱いていたようで、その向かいのソファに座る彼女からの挑発的な態度が不愉快だった。


 故意に真理を恥辱に晒そうとしていることが目的だと、直感が示していた。 


 その認識に至った真理は、次第に知香の髪型の好みだけでなく、彼女の人間性まで疑い始めた。


 ここで、北陽に話したプラシーボ効果について説明するか悩んだが、最初から彼女は聞く耳など持っているはずもなく、素早く撤退するためにも「はい、科学的根拠はありません」とだけ言って帰るつもりだった。


 真理は口を開け、「……科学的根拠は——」と言いかけたところで、沈黙を貫いていた北陽が遮るように口を開いた。


「これは僕の私観ですが、恋愛という科学では説明のできないものを、科学で制することは難しいと考えております。……ご自身の恋愛経験を振り返ってみればお分かりになると思いますが、その好きという気持ちや、人を好きになったきっかけを科学を持って説明できませんよね?」


「……まあ、そうですね」


 先の予想ができない北陽の誘導的な質問に渋々答えた。


「うちの惚れ薬は、薬という位置付けで販売させて頂いておりますが、こちらは薬の類というよりも、むしろお守りのように、それを使った人に希望や期待を持たせ、気持ちを明るくさせるものです」


「それではただの俗信に基づいて作られた、非科学的な気休め商品ではないでしょうか?」


 彼女は勝ったよう笑みを浮かべていた。


(……なんだか、すごく……憎ったらしい)


 負け惜しみとはわかっていながらも、真理は生まれて初めて女性に対してこのような嫌悪感を抱いたのだ。


 「では、知香様は科学では説明できないものは全て嘘で存在しないと?」


 攻撃に出ていた知香は、否応なく防衛に回る羽目となった。


「……」


「例の髪女騒ぎはどうですか?あのような怪談話にしか登場しないお化けを科学的に説明できますか?やはり、あの騒ぎは全部、全て嘘でしょうか?」


「いいえ……だって、嘘にしては証言者が多すぎますよ」


 知香の声は次第に自信のないか弱い声になっていった。


「それを証言できる人が多ければ、それは信憑性の高い科学的な事実になるということですか。その論理でいうと、うちの惚れ薬も使用者から多くの良いご報告をいただいておりますので、信憑性の高い商品になります」


(……松下さん……)


 今日の北陽は、やはりどこかが違う。あの弱腰な彼が、真理を庇うためか、珍しく会話の主導権を握って淡々と歯切れ良く語っていた。


 その頼もしい横顔を見ると、そこにはいつもの寛雅な雰囲気を纏った瞳が柔らかく細められ、彼はほんの一瞬だけ真理と視線を絡ませた。


(……!)


 ほんの一瞬だったが、それは少し悪戯心を含んでいるものに見えた。


「ですが、知香様のようにご教養のある方は、やはり確固たる科学的根拠を重視するのは理解いたします。今日はお時間をいただき、ありがとうございました」


 一方的に話を切り上げようとする北陽に知香は動揺が隠せなくなり、立ち上がった北陽を止めるために立ち上がる。


「……あっ、待ってください!せっかくこちらまで来て頂いておりますし、一つ買わせてください」


「よろしいのでしょうか?効果の保証はできませんよ……」


 購入後に苦情を言いにくる面倒な客になられては困るので、警告だけはする。


「ええ、いいですわ」


「保証はできませんが、惚れ薬の効果を高める方法はありますよ。もし、ご希望でしたら、お代をいただくことにはなりますが……一度、真理さんにご相談してみてはいかがでしょうか?真理さんは心理学に詳しく、毎日多くの方がご相談に来られるんですよ」


(『毎日』と『多く』は、話を盛り過ぎ!)


 心理学と聞いた知香は、またもや真理を恥晒しにするいい機会と思ったのか、彼女はにっと笑い、ふかふかのソファに深く座り直しながら戦闘体制に入ったように見えた。


「なるほど、真理さんは女学校で心理学を学んだんですか、藤井女学校で外国語を学んできた私にとっては、大いに興味があります」


 藤井女学校というと名門であったが、どちらかというと中堅ぐらいで、上のものからして見ればあえて自分の方から明かすほどではなかった。彼女の自慢に滴るその発言が、真理が本当は女学校に行って無いとわかった上で言っているように聞こえて、真理はその嫌味をそのまま返すことにした。


「ふ、藤井女学校?ですか……あっ、あの藤井女学校ですね」


 真理はあえて変な間を入れ、知香の気持ちを傷つけまいと、知らない学校を知っているような演技をしているをした。


「それと、女学校など行っておりません……全て独学です」


「あら」


 やはり、真理はあの変な髪型を見た時から、知香の本性を悟っていたのだ。真理の噂を聞きつけ、嫉妬に似た競争心で自分が真理より優位であることを確認したかったに過ぎない。


「外国語でしたか。Don't bite the hand that feeds you(恩を仇で返すな)」


「北陽さんもお詳しいのですね!どこで学ばれたんですか?」


「……昔、歌舞伎をよく見ていましたので、そこで自然と覚えました……」


 北陽曰く、政府による日本人の西洋文化の受け入れを促す一環として、歌舞伎の舞台ではあえて英語を使わせることがあるのだ。


 真理は北陽の会話の節々に使っている外国語の意味がわからず、ただ傍観していたが、なんとなく、知香が劣勢のように見えた。


「If you play with fire, you'll get burned. Okay?(火遊びをすれば火傷する。わかったか?)」


「おっけい!……あっはっ!……何だか久しぶりに聞く英語が新鮮だわ!真理さん、ぜひお相談させてください」


 北陽に負けを悟られたくなかったのか、彼女は話題を急変する。


「承知いたしました。今回はお薬も一緒にご購入いただいておりますし……

五圓でいいですよ」


「ま、真理さん?」


 北陽はきっとその額に驚いたのだろう。


「わかっていますよ、松下さん。でも、困っている彼女をどうしても放って置けないので、今回だけはこの特別価格で彼女のご相談に乗りましょう」


 人間は「今回だけ」、「特別」、「限定」という言葉に弱い生き物だ。この機会を失っては二度と手に入らないと思うと、焦りで理性が働かなくなり、冷静な判断が下せなくなる。


「ご、五圓で、お願いしますわ」


              ♢ ♢ ♢


 彼女によれば、なんと、知香を身請けしたいと申し出た男性が二人いると言う。どちらも中年齢で、こちらの妓楼に通うだけの財を持て余している経済的に豊かな男性たちだ。


 通常は先に楼主に身請けを申し出た方か、競売方式で身請け額を多く弾んだ者が見請けすることになるが、今回はその楼主に伝える前段階で、知香は双方にお互いの存在を知らせていて、身請け相手は楼主に任せるのではなく、自分で決めたいと言い出したそうだ。


 本当は二人の男を手のひらで遊ばせて自分の自己評価を高めたいだけなのではと、真理は密かに疑っていた。


 彼女の悩みというのは、どちらの男性にするか、ということだった。


「剛太郎様は……自慢っぽいんです。ことあるごとに自分はこれだけの物を持っているのだ、とかこれだけ使用人に慕われているんだとか言うですよ。そんな人と一緒にいては、疲れます。平吉様は身長が低く、あの細い目が好きになれません。あと、たまに私を小馬鹿にしたような眼差しで見てくるんですよ。面と向かっては、何も言いませんけどね」


(……なるほど、そういうこと)


「あの、先ほどから相手方の悪いところしか仰っていませんが、いいところはないのですか?どちらに対しても、好意的な感情は持っておられないのですか?」


 彼女は難しい顔をして、わからないとでも言いたそうに天上の方を見る。


「知香様が好意を抱けないのは、知香様自身が相手に投影しているからであると考えます」


「投影?」


「自分の影を、他人に投げることです。知香様が、ご自身の持っている資質、例えば性格や外見などを認めたくなくて、他の人がその資質を持っているように心が錯覚するのです。これはほんの一例ですが……傲慢な男がいたとします。その男は自分の傲慢さが本当は好きではなく、自分の傲慢さをないものにしようとしているとします。この場合の投影は、この男に周囲の人間を傲慢に見せ、嫌悪感を抱かせるのです」


 彼女は何も言わず、黙り込んだ。


 こうして説明している真理も一瞬、自分が知香に対して抱いているこの感情は、投影なのではないかという疑念が頭をよぎった。


(……そんなわけないか!)


 偏見のこし器を通った情報が参考になるとも思えないので、何か客観的に二人を測る方法はないかと真理は模索し始める。


「何か他に、二人を客観的に判断する材料があれば良いのですが……」


 知香は顔を上げ、少し思案ののち、「少し待っててください!」とだけ言って部屋を去った。


 すぐさま戻った知香は、二つの大きな包みのようなものを手にしていた。


「そちらは、なんでしょう?」


「彼らからの贈り物です。こちらを見て判断できますか?」


「……ええ、拝見させていただきます」


 二つの風呂敷は大きさからしてまず少し違った。一つは明らかに大きく、ぎっしりと詰まっているように見え、知香はそちらから開けていた。


 その風呂敷の中からは、ため息が溢れそうなくらい艶やかで高級そうな黒を色調とした着物だった。


(……あっ)


 濡れた光沢のある黒い生地には、波を想像させる優雅な銀色の曲線と、上品な菊花が散りばめられていた。そして、真ん中には大きく存在を主張するように、凛とした姿の鶴が描かれていた。


 知香は続けてもう一つの包みの中の正体を露わにする。


 中から出てきたのは薄い絹でできた布のようなものだった。知香がその布を広げてみると、それが枕に被せるための布だというのがわかる。


 生地自体は女性受けのする可愛らしい桃色になっており、裏面は単色になっていたが、表面の左下付近には一つの貝桶の絵柄が描かれていた。


(……なるほど)


「私はこの着物を贈ってくださった剛太郎様の方が太っ腹に思えますし、本当に美しい生地でできているので気に入っています……平吉様がくださった枕被せは色が可愛らしくて気に入ってはいますが、この着物と比べるとどうしても質素に見えてしまいます……それに……」 


 知香は服の端をいじりだし、言いづらそうに言葉を詰まらせる。


「?」


「枕ですよ……身請けしたら、毎晩枕を交わす覚悟をしろと言っているみたいです」


「なっ、なるほど……私の正直な意見を申し上げますと、むしろ知香様にこの着物を贈ってくださった剛太郎が、少し曲者である可能性があります」


「?!」


「女に衣類を贈る男というのは、実は結構自己中心的なんですよ。知香様の体格に合ったものであるとは限りませんし、まず女性にとって着物は好みの大きく分かれるところです。知香様の好みを無視して、自分の着て欲しいものを押し付ける。これは服に限った話ではありません。身請け後の生活に大きく影響しますよ……それにこの鶴は、美しさや高貴さを表しています。この後もずっと、美しく、高貴でいて欲しいという彼の押し付けがましい願望に見えてしまいます」


「……」


「対して、平吉様の枕被せですが、たしかに知香様の仰った意味も込められているというふうに解釈はできなくはありませんが、私はむしろ、知香様を慮って選んだように見えました。安眠ができそうですし、絹はお肌や髪にも麗しい艶を与えます。この左端の貝桶は、夫婦円満を意味しているんですよ。つまり、この枕であなたと共に幸せな夢を見たい、という彼の意志を感じました」


「あっ……平吉様」


 真理の目の前には、真理の推理上の話で淡い恋の甘風に揺蕩う乙女の姿があった。甘い期待に胸を膨らませ、込み上げる感情を抑えるように、胸に手を当てていた。


「ありがとうございました……真理さん」


(……素直に感謝できるんだあ)


「とんでもございません……ですが、これでは惚れ薬を使う必要がありませんね」


 知香は弾かれたように、上の空状態から目を覚まし、目を一度パチクリさせて言う。


「惚れ薬は、恋の魔法が解けた時に使うつもりで買いました」


 意外にも現実味を帯びた回答にさすがに少しばかり驚いたが、現実を受け入れた上で恋に臨む彼女の姿勢はなかなか賢明だと、真理は渋々ながらも納得してしまった。


             ♢ ♢ ♢


「こちらですよ」


 正面玄関へ案内をする知香の声が、何もない廊下でこだまする。


 広い妓楼であることと西洋的な間取りになっていることが相まって、初めてくる人にとっては複雑で迷子になりそうな作りになっている。


 昼見世の客がいないのか、生活音があまりしない建物内はやや不気味だった。


 長い廊下を歩いていると、一つの洋風扉が開き、4人の遊女らしい女性がゾロゾロと姿を現す。


(!)


 四人とも、知香と同じ髪型をしていた。やはり、これは妓楼内では流行っているようだ。


 会釈をする北陽と真理の前を通ろうとすると、知香はそのうちの一人に声をかける。


「すずちゃん……」


「……」


 すずと思われる女性は、何も聞こえなかったかのように通り過ぎる。


 何だか知香が可哀想に見えてきた真理は何も見なかったことにしようとしたが、知香本人の口から語り出した。


「私に身請け話が来ていることを話してから、この状態なんです。……ご存じかもしれませんが、うちの妓楼は遊女たちの間では結構悪名高いんですよ。客の質が良くても、楼主があんなんだから……みんなここから生きて出られる希望が持てないんです」


「どういうことでしょうか?」


「うちでは毎年、お正月やお花見といった行事があるごとに豪華な衣装や調度品を、お客をもてなすために借金して買わされるのです。借金は、もちろん楼主への借金になります。ですから、毎年年季明けから遠のくばかりで、ここから出るためには身請け以外に方法はないんですよ」


 去る遊女たちの後ろ姿を写す知香の瞳は同情一色だった。


「私にできることがあったら、なんでもするって言っているのに……」


 憐憫を孕んだ声音で言い捨てた知香の言葉は、いつまでも真理の耳から離れなかった。


♢ ♢ ♢


 帰り道、北陽と真理は二人並んで、残花のみ咲く、青々として桜の木の下を通り橘屋に向かっていた。


(……この桜も私と一緒……もうすぐ潮時、か)


 花見のために植えられた桜はもう目的を果たしたも同然。今週中にも撤去されるのだろう。


 それに真理は、今夜無事に目的が果たせたのなら、もうここにいる必要はないのだ。


 今夜起こりうることを可能な限り想像した真理は、緊張と不安で胃の底から喉までかけて気持ち悪い液体が逆流しているような不快感に苛まれた。


「真理さん、大丈夫ですか?」


(……あっ)


 優しい声のする方を見上げると、いつになく柔らかい表情で問う北陽がいた。繊細な彼のことだから、真理の異変に気づけたのだろう。


「ええ、大丈夫ですよ」


「真理さん、嘘はいけませんよ。自分に嘘をついていると、それが雪だるま式に大きくなって、いつか爆発してしまうらしいですよ」


 聞き覚えのある言葉に、真理は思わず吹き出した。


「ちゃんと聞いていたんですね……でも、今日の松下さんを見ていたら、もうこれ以上教えることはないと思いました。この短期間の間ですごく多くの知識を吸収して……一緒に行動をするのは……今日で最後にしましょう」


  北陽が立ち止まった。


 真理の胸が締め付けられるのは、北陽に対して友情のような感情が芽生え始めているからだろうか。このように一緒に歩いて会話を重ねているうちに、謎の一体感のようなもの感じていた真理にとって北陽は、人生において初めて一緒にいて少し楽しいと思える相手だった。


 北陽は確かに真理の言うことを聞いているはずなのに、彼は黙ったままただ目の前の景色を見ている。


「……今日の投影の話で少し思ったんですけど、真理さんって少しだけ知香さんに似ていますよね」


「なっ!……失礼なこと言いますね、松下さん」


「えっ、失礼ですか?僕は知的で素敵な女性だと思いましたよ。最初はあまり素直になれず、意地を張ったりはしていましたが、本当は優しい心の持ち主に見えました」


(ありえない!)


「やめてください!知香さんは自惚がすぎる女性です。私とどこが似ているのか、全然わかりませんね」


 北陽の口元は弧を描き、本当に心から笑っているような、笑顔が目まで届くような笑い方をした。


(あっ……初めてみる本当の笑顔)


「強いていうなら、知香様の性格をもう少し可愛らしくしたら、真理さんみたいになると思います」


(か、可愛らしい??)


「うぅぅ……」


 微かに赤面する真理は、どのように反応すれば良いかわからなくなっていた。





 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る