昏龍之介の黄昏事件簿

涼風 弦音

オペラ座より愛を込めて✲前編✲

 雨粒がコンクリートの上で踊る。事務所を出た時にはワルツ程の其れは、いつしか情熱的なタップダンスになっていた。天宮あまみや未乃みのは、こんな日に背中の開いたドレスを選んだことを後悔していた。雨の中、タクシーも使わずハイヒールで歩く破目になったのも、全て隣で悠々と歩く男の所為だ。格子柄のスリーピースを着こんだ彼の胸には赤と黒のポケットチーフが咲いていて、擦れ違う女性が頬を染めていく。そんな美男子と肩を寄せ合っているにも関わらず、天宮にあるのは雨に濡れる肌の気持ち悪さだけだった。

「あのくれさん、傘が間に合いません! 自分で傘くらい差して下さい。私だって乙女なんですからね」

 傍から見れば相合傘の二人。だが、色香の漂わない空気感は主と従者を彷彿とさせた男は彼女の不平不満を一切受け付けず、眉根を寄せると「乙女?」とわざとらしく復唱した。

「声を荒げるのは辞め給え、天宮君。君には聞こえないのかい?」

 唇を噛んだ天宮に、昏は長い人差し指を添え、白い歯で「Shhhh」と音をたてた。刹那、強風が雨を纏って彼女を襲う。傘を持つ手に力を込めた時、昏は恍惚とした表情で言った。

「嗚呼、まるで悩める人間の嘆きだ」

 濡れるのを厭わず風を受けている彼の微笑は歪んでいた。

 *

 煌びやかなシャンデリアが紅色の絨毯を焦がす。天宮が連れて来られたのは、劇場だった。二人が受付でチケットを切った時、前から小太りの男が声を掛けてきた。

「やぁ! 昏、よく来た」

 男は勢いよく昏の肩を叩くと、昏も胸元を正して会釈をした。

「お招き感謝するよ。それにしても、君の成長は横しか無いのだね」

「いやぁ、違いない。だが、君は変わったなぁ。鬼才の昏にこんなに美人な奥方がいたなんて」

 天宮は突然自分に話を振られたことに驚きつつも、耳あたりの良い言葉に頬を染めた。だが、昏は酷く嫌な顔をして彼女の頭をはたいた。

「莫迦を言うんじゃあない。此れは助手の天宮。彼は大学の旧友、渕野ふちの。舞台演出家だ」

 天宮がぺこりと頭を下げた。旧友というが、二人の年齢は十近く離れているように見える。

「助手?」

「嗚呼、申し遅れた。僕は今、探偵稼業をしている」

 昏は慣れた手つきで名刺を手渡す。そこには『黄昏探偵事務所 代表 昏 龍之介りゅうのすけ』とあった。

「驚いた。今時、探偵業だけで食っていけるのか?」

「扉を叩く人は多いよ。最適解を求める人はね。只、興味をそそられるものは中々無いが」

 その偏った興味の所為で天宮が被った被害は少なくない。

「君には天職だろうな。そうだ、特別席を用意したんだ。最後まで観ていってくれ」

「嗚呼、愉しませてもらおう」

 *

 開演を知らせるブザーが鳴る。二人は5番のボックス席で、幕が開くのを待った。下には二台の撮影カメラとスタッフ。そして一階中央席には渕野と細身の男が座っている。

「人、少ないですね」

「ゲネプロだから当然だろう」

「ゲネプロ?」

「本番前の通し稽古の意だ。今日は、関係者しかいない」

 昨日突然、昏から「ドレスを用意しなさい」と言われた時は迷惑だったがという特別感は天宮の胸を高鳴らせた。

「此の演目は初見かい」

「すみません。観劇にはあまり縁が無くて」

「いや。愉しむと良い」

 口を開けば何時も嫌味ばかり出る昏の気遣いに若干の気持ち悪さを感じていると、ブザーが再び鳴った。

 幕が開く。カンカンと木槌の音がした。演目は、1986年にロイド・ウェバーによってミュージカル化された『オペラ座の怪人』。パリのオペラ座を舞台に、ソプラノ歌手のクリスティーヌと幼馴染のラウル、そして怪人ファントムの三人が繰り広げる悲恋劇だ。

 天宮はすぐ舞台に惹きこまれた。クリスティーヌの歌声はまるで小鳥が囀るように柔らかく、計算されたロイドの旋律が劇場を透明に包む。

 場面が代わり、劇中劇『イルムート』が始まった。コミカルな舞台に前場面の緊張が解れる。そして、カルロッタが意気揚々と歌いだした時、声が踏まれた蛙のようになった。パニックの中、支配人が困ったように白いチュチュの踊り子を舞台に押し出す。慌てる踊り子の様子に笑った天宮を見て、昏は口角を妖しく上げた。その時、シンバルの甲高い音と共に首を吊った男が落ちる。中吊りにされた男は両手で首紐に持ち、脚をバタつかせていた。

「びっくりした!」

 物語とはいえ驚いた天宮は、思わず昏の右腕に触れていた。数秒後、パタリと彼の動きが止まり、踊り子たちが叫びをあげた。

「迫真の演技ですね……」

 どっどと煩い心臓にもう片方の手を置いた時、昏はオペラグラスを群青の瞳に重ねた。

「……おかしい」

 すると、客席に座っていた渕野と隣の男が突然立ち上がり舞台に駆け寄った。天宮が覗き込むようにボックスから身を乗り出した時、昏が言った。

「演技じゃあ無い様だ」

「え?」

「彼、死んでいるね」

 *

 劇場が白い灯りに照らされる。昏は舞台に上がると、震えている渕野の肩に手を置いた。

「遺体を診させてもらうよ。君も隣に居てくれると有り難いのだが」

 渕野が頷いたのを確認すると、昏は他役者たちを控室に戻すよう天宮に指示した。渕野は呼吸を落ち着かせると、数人のスタッフで遺体を下した。

「彼は?」

「大道具ブケー役のひらさんです」

 スタッフは目を背けて言った。遺体は口から泡を吹いていて、首元には麻縄の鬱血痕が浮かんでいる。そして衣裳下の腰には、太いベルトが巻いてあった。ベルトからは紐がのびていて、先端にはフックが付いている。

「ぼ、僕、警察に連絡してきます」

「警察は遅くなるだろうね。駐在は遠に布団の中だ」

 渕野の隣に座っていた男は、昏の言葉にびくりと肩を跳ねさせたが、携帯をポケットから出すと劇場を出ていった。

「彼は脚本家か」

進藤亘しんどう わたるさん。ヒットメーカーだ」

 昏が一通り平の観察を終えた時、天宮の前にいた大道具スタッフが怒鳴った。天宮が困ったように「落ち着いてください」と宥めている。

「渕野さんが突然無茶な演出に変えるから‼ 公演前、確認だってした! 永瀬さんも公演中チェックしたんだ! 俺は悪くない‼」

 肩で息をしている男の赤かった顔が徐々に青ざめていく。天宮は、近くにいたスタッフに男を控室に戻すよう頼んだ。全員の聴取を終えた天宮は疲れ顔で、データを昏の携帯に送った。

「被害者の平に、幾つか危ない噂がありました」

「危ない噂?」

「はい。初めはファントム役を希望していてオーディションで負けたそうです。あとは…紀生きりゅうさんと口論になっていたとか」

「結構だ」

 一言の後メモから目を離すと、茫然としている渕野に尋ねた。

「して、無茶な演出とは?」

「本当は人形を吊るす予定だったんだ」

「それをどうして生身の人間に変更したんですか? それも本番三日前に」

 渕野は顔を下げると小さな声で言った。

「昏が来るから……」

「僕?」

 彼の話は至極単純だった。鬼才に驚いてもらいたくて、彼の観劇が決まってからインパクトのある演出に変更したと言うのだ。ゲネで好評なら本公演でも続ける予定だったらしい。

「そこから飛び降りるんだ」

 彼の二重顎を辿り、顔を上げると舞台の上には一枚の鉄板があった。

「キャットウォークには二つのフックがあって、一つは首のダミー麻縄を引っ掛ける用に、もう一つは」

「腹に巻いたベルト用か」

 台詞を奪うように昏が言えば、渕野は大きく首肯した。首だけでなく腰にもベルトを巻くことで圧が分散され、一見すれば首だけで吊っているように見える仕掛けだ。

「そうだ! 簡単なトリックだが、生身の人間が落ちてくる恐怖感を客に与えられる!」

「嗚呼。事実、僕も驚かされた」

 昏の言葉に、男は目を輝かせ熱く語り出した。だが、天宮はそれが解せなかった。

「何言って!」

 死人が出たのに揚揚と話す様は狂気さえ感じる。眉根を寄せた時、昏は「何時にも益して不細工だ」と天宮の耳許で囁くと、彼女を自身の背に隠した。

「だが、死んだらトリックも糞も無い。只の人殺しだ」

 唾棄するような視線に、天宮は体温が下がるのを感じた。渕野も氷水でも掛けられたように固まる。そんな状況を大儀だというように、昏は渕野に背を向けた。

 *

「キャットウォークって高いんですね」

「君の表現力は利発さに欠けるな」

 天宮は心許無い鉄板の上を歩きながら、下で指示を出す上司に腹を立てた。そして金具を設置する突起を見つけると、写真を撮って昏に共有する。

「ここで平が首と腹部のベルトを装着して、次場面の移動でキャットウォークを使うファントム役の永瀬が、一緒に安全確認をした……っと」

「フックを掛ける留め具は一つか」

 昏は写真を確認すると、先程受け取ったメモを開いた。

「……やっぱり思うんですけど、こういうことは昏さんがやるべきでは」

 数分後、ぶつぶつと文句を言いながら戻った天宮を無視して、昏は尋ねた。

「君は今回の件、どう思う」

「事故では?」

 キャットウォークに付けた腹用のフックが外れ、首だけで吊られてしまった不慮の事故。だが、昏は整った顔をわざとらしく顰めた。

「単細胞生物より劣るな。君は」

「じゃあ、事件だと? でも、無理ですよ。スタッフも役者も全員にアリバイがあります。安全確認している二人をスタッフは見ていますし、それにタイミング良くフックを外すなんて出来ません」

 胸を張って言う天宮に、昏は両手を上に広げ溜息で肩を揺らした。天宮を苛立たせる為にやっているのだろう。実に効果覿面である。

「君は腹側のフックが外れたと思っているのか。では、鉄板にあった腹用の留め具は何処へ消えた。折れたのなら何処かに落ちているか、ベルトのフックに付いているはずだろう。加えて、鉄板には多少なりとも傷があるはずだ」

 キャットウォークにあったのは首用のフックだけで、目立った傷は無かった。そして今、舞台上には布の掛けられた遺体だけ。つまり誰かが金具を隠し持っている、又は処分したということだ。

「でも、誰がそんな……。それに、チェックでは異常無かった物を本番でタイミング良く壊すなんて出来るんですか?」

「だが、事故にしてはいささか不審な点が多いのだよ」

 まるで解剖前の研究者の様に、純粋で残酷な笑みを昏は浮かべていた。

 *

 天宮と昏は、紀生の控室に向かった。「どーぞ」と促され開けると紫煙が部屋に籠っていた。

「失礼します。お話伺わせてください」

「さっきの探偵ちゃんじゃん。何、俺に興味持っちゃった?」

 背中をさらりと撫でられ、ぞわりとした感覚が襲う。違うドレスにしておけばよかったと天宮は再度後悔した。

「着飾っているが、此の娘は貧弱だから止める事を薦めるよ」

 煙草を嫌厭してか口元にハンカチをあてた昏の後方射撃に、天宮は心で舌打ちをした。「それもそうか」と頷いた目の前の男もついでに睨んでおく。

「衣裳はもう脱いだのかい? 実に繊細な衣装だったが」

「息苦しいからな」

 つい三十分前までは王子様の様に美しいラウルだったが、その面影は一切無い。ハンガーに掛かった衣裳を眺める昏を横目に、天宮は言葉を続けた。

「単刀直入に聞きますが、平さんとの口論の原因は?」

「んだよ、その話か。俺は何もして無ぇよ」

 紀生はぐしゃりと煙草を潰すと、椅子に腰かけた。

「アイツ、詩織しおりを狙ってたみたいでさ『近づくな』とか言ってきたんだよ」

「詩織さん……クリスティーヌですね」

「そうそう。俺たち、役柄的には恋人だろ?役者は、役だろうと恋人なら公演中は恋人みたいに振る舞う。こんな風に」

 天宮を濃い紫煙が包み、頬に何か近づく感覚がした。だが、後ろから強く背を引かれる。

「それは所謂疑似恋愛かい」

「あぁ。ただの役作りの一環だ」

 つまらないと唇を尖らせる紀生に、天宮は不快感を隠さず部屋を出た。

 ロビーに向かうと進藤が女と椅子に座って話していた。声を掛けようと天宮が二人に歩み寄るより先に、昏が女性に頭を下げた。

「君のクリスティーヌは素晴らしかった。僕は、探偵の昏だ。以後お見知りおきを」

「私に何の用かしら?」

 女は目を丸くして、長い黒髪を耳に掛けた。しゃらりと手首から音がして、シャンパンピンクの時計が彼女の華やかさを際立たせる。

綺川あやかわ詩織さん。お話、よろしいですか?」

「あの、お茶でも買ってきますね」

 進藤は雰囲気を察してか自販機に向かった。三人になると昏は、綺川の隣に腰かけた。美人に弱いのは、昏の人間らしい唯一の姿であると思う反面、天宮が腹立たしく思う要因の一つでもある。

「あの、プライベートな話で大変恐縮なのですが」

「君は平氏と恋仲にあったのかい」

 折角オブラートに包んだというのに、隣の男は無遠慮に尋ねた。すると、綺川は女優の命とも言える顔に皺をつくった。

「デキてたって? 気色悪い。ほぼストーカーよ。共演者だから無下にも出来ないし、迷惑してたわ」

 吐き捨てるような言葉を続ける女に、昏は「そうか」と席を立った。

「女性の事は女性にしか分からないだろう。任せたよ、天宮君」

「ちょっと‼」

 昏は進藤に続いて自販機へ向かった。つまり、面倒な女の相手はしたくないという事だろう。

「ええと……綺麗な時計ですね」

綺川の腕には細身の高級時計があった。

「シンさんからの頂き物なの」

「シンさん? 進藤さんとは親しいんですか?」

「シンさんとは下積み時代からの知り合いよ。まだ無名だった私を抜擢してくれたの」

 懐かしむように言う儚げな横顔をぼんやり見ていると遠くから名前を呼ばれた。

「天宮君ー! 助手ー!」

「……すみません、行ってきますね」

 頭を下げ向かえば、昏は手招きをし、進藤は困った顔をして自販機の前に立っていた。

「どうしたんですか?」

「彼のICカードが壊れていてね。君、財布を」

「すみません、控室に財布を置いて来てしまって……。開演時には反応したのですが」

 携帯ケースの内ポケットからカードを取り出し、自動販売機にかざすが一切反応しない。

「構わないよ。天宮君、僕は紅茶」

「全く。経費で落としますからね」

 ボトルが、がしゃんと四回鳴った。

「そうだ、進藤君。警察はどれ程で来ると」

「渋滞であと一時間は来られないようです」

 進藤は腕時計を確認すると溜息をついた。現場保存の意味も込めて、誰一人帰ることが出来ず、精神的に疲れているのだろう。天宮は二人にボトルを渡した。昏はもう一本をひょいと天宮の腕から盗み、綺川の元へ戻り手渡す。

「心穏やかではないだろうが、私が居るのだから安心し給え」

「もう……。次行きますよ!」

 天宮は苦笑いする綺川から昏を引き剥がすと、連行するように控室へ向かった。

 何度ノックしても反応の無いドアを、天宮は恐る恐る開けた。ヘッドフォンをしてパソコンを見つめている男は、随分と洒落た佇まいをしている。

「英二五周年記念公演か。この公演の歌唱力は他の追随を許さないね」

 銀髪の男の後ろから昏が画面を覗き込むと、男は驚いたようにヘッドフォンを外した。

「驚いた、よくご存じで。ところで、何用ですか?」

「ノックしたのですが、返事がなくて」

「それは失礼。さっきは誘導してくれて有り難う、探偵のお嬢さん。私はファントム役の永瀬傑ながせすぐるだ」

 永瀬は席を立つと、二人に会釈をした。ファントムの歌声から感じた品の良さが人柄に出ていて、天宮は思わず見惚れてしまう。

「惚けて無いで働き給え」

 昏が肩を叩くと、天宮ははっとしたようにメモを開いた。

「えっと、キャットウォークで綱の確認をしたのは永瀬さんですね? 何か不審な点はありましたか?」

 彼は不審という言葉に眉を顰め、数秒思案したが首を横に振った。

「私は平の首と腹のフックを引っ張って、安全確認をした。鉄板のフックとベルト・首のフックはちゃんと固定されていた。確認後、僕はそのまま客席後方に回るためにキャットウォークから離れた。それ以上の事は残念だが分からない」

 先程キャットウォークで天宮が確認したことと矛盾点は無かった。しかし、昏は挑発的な目で彼に尋ねる。

「平氏とはファントム役を争ったと聞いたが、それについては如何かな」

「私は疑われているのか? 私は勝った。彼を殺す必要はない。それに公演を中止させることを主演がするとでも?」

「其れは一理有る。邪魔したね、では暫く」

 昏は云い返さず、ひらりと踵を返し部屋を後にした。天宮は緊張の糸が切れた永瀬に頭を下げて、昏を追いかけた。

「待ってください、昏さん!」

 歩幅の広い昏に追いついたのは、ロビーに着いた時だった。突然立ち止まった昏の背にぶつかりかける。彼は天宮に持たせておいたペットボトルの紅茶を取ると、唇を付けた。

「……天宮君。微糖ではないか。僕が無糖しか飲まないのを君も知っているだろう」

「え、ちゃんと確認してからボタン押した気がするんですけど」

 首を捻り思い返そうとするが、紅茶のラベルを見た処までしか思い出せない。70度近く首を傾けた時、派手な溜息が聞こえた。

「不認識は無確認と同意だ。分かるかい」

 昏は文句を言いながら天宮のバックから彼女用の緑茶を盗み、開封した。

「確認……か。天宮君。一つ、頼まれてくれ」

「買い直しは嫌ですよ」

「莫迦か、君は。これを借りて席に戻りなさい」

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