第3話

 階段を降りる音が鳴る。エーデルは手を手すりに置きながら一階に降りた。誰もいない。キッチンには静けさが横たわっている。テーブルの上に皿とカップが置かれている。飲みかけの紅茶が、湯気を立てていた。皿はパンくずと、卵黄がはりついている。


 エーデルが真鍮のドアノブをひねって扉を開ける。冬の風が鼻から染み込んでくる。エーデルが顔を横に向けた。視線の先から、声が聞こえる。美術館の前に、人が集まっていた。ワイスが怒鳴り声を上げている。ワイスの前には青髪の青年が立っていた。フランネルだ。美術館に人差し指を向けている。


「美術館を残せば村がなくなる!」


「芸術がなくなれば人の心が死ぬわ」


 エーデルが人混みに駆け寄る。人だかりに肩を入れ込む。


「姉さん何してるのよ」


「美術館は潰させないわ」


「姉さんが管理しているの?」


「管理人は夜逃げしたのよ!」


 ワイスがフランネルの胸倉を掴み上げた。フランネルの喉が絞められていく。


「あの二人が必死に守ってきたものを捨てるなんてだめよ」


「俺が村長の息子だって忘れてるな」


「忘れてないわ。あんたが子どもの頃におねしょしたのもね」


 ワイスたちの向こう側で、人混みが裂けた。隙間から一人の老婆が現れる。デマリだ。背中は柳のように曲がっている。杖を震える手で持っていた。


「美術館は残す」


 ワイスが口元を緩めた。デマリが杖で地面を叩く。


「作品は飾らない」


「それじゃあ美術館じゃないわ」


 ワイスがフランネルの胸倉から手を離した。フランネルが咳きこむ。デマリは、シワだらけの瞳を細めた。視線をワイスに向ける。ワイスは口を開けたまま、両腕を開いた。


 デマリが鼻から太い息を漏らした。


「美術館は誰が管理しようか」


「私がやるわ」


「作品を地下に眠らせると誓えるか」


 ワイスの口がへの字に歪んでいく。隣のフランネルが鼻で笑った。


 デマリの視線がワイスから外される。代わりにエーデルに向けられた。


「エーデルがやってはくれないか」


 エーデルが左右に視線を向けた。それから、デマリに戻す。デマリは視線をエーデルに突き刺していた。


「無理ですよ」


「話は以上。それぞれ家に帰ろう」


 村人たちは動かない。眉をひそめながら、エーデルとデマリを交互に見ている。デマリが振り返ると、美術館に向けて歩きだした。亀が歩いているかのような遅さだ。美術館の入り口までたどり着くと、顔をエーデルに向けた。


「エーデル。こちらへ」


 村人たちがまばらに帰っていく。ワイスとフランネルが突っ立ったままエーデルに視線を向けた。


「ワイスとフランネルもこっちにきて手伝いなさい」


 フランネルが肩をすくめながら美術館の中へと入っていった。ワイスが後に続く。


*     *     *


「全部地下へ持っていけ」


 フランネルとワイスが絵画を地下へと運んでいく。美術館の中は教会のように作られていた。モグラの巣みたいに入り組んだ通路の先に、開けた部屋が建てられている。部屋の中は長椅子が置かれていた。奥に一台のピアノが佇んでいる。壁はステンドグラスが張られていた。太陽の光が様々な色に染まりながら、ピアノに落ちている。


 ワイスがピアノ横の階段を降りていく。絵画を手に持っていた。


「これで美術館から公民館になるわけね」


「命がなくなるよりはましさ」


 フランネルがワイスのあとをついていく。エーデルはピアノの前で立っていた。埃の一つもついていない。エーデルが壁に近づく。長椅子の横はただの白い壁だ。絵画を飾っていた跡が四角く残っている。


 隣にデマリが近づいた。


「昔を思い出すかい」


「ここで、姉さんが絵を見ていたわ」


「憲兵が絵を奪いに来た時だね」


「怒鳴られてもタコの吸盤みたいに絵に張り付いていた」


 エーデルの口元が緩んだ。視線をデマリに向ける。デマリは隣にいなかった。部屋を出ている。丸くなった背中が亀の甲羅みたいだ。


「おいで」


「どこにいくの?」


「思い出の中へ」


 デマリが歩いていく。エーデルが後をついていった。朝の光が漏れる廊下を歩いていく。廊下の壁は、絵を飾った跡がずらりと並んでいる。人が燃えた時みたいに、壁に絵の型がこびりついている。


 デマリが突き当りで足を止めた。ポケットから丸くて細長い鍵を取り出す。扉には南京錠がかけられていた。鍵穴に鍵を差し込む。金属音が鳴って、南京錠が開けられた。デマリが扉に手を当てる。エーデルが駆け寄って、扉を押した。


 中の部屋に窓は一つも作られていなかった。暗い倉庫みたいな部屋だ。真ん中に一枚だけ絵が置かれている。


「ゲルニカを取り返したの?」


「ワイスが描いたんだよ」


 エーデルは目を丸くしながら絵に近づいた。


「全く同じよ」


「あの子は絵の神様に憑りつかれている」


 エーデルが視線を絵から外した。振り返ると、入口にデマリが立っている。瞳の色に萎れた花みたいな悲しさが混じっている。


「エーデルに美術館を任せたい」


「私は姉と国を出たいだけよ」


「出ていくまででいい」


 デマリがワイスの絵に近づいた。冬の枝みたいな手で絵を掴む。腕が震えた。エーデルが近づいて、絵を持った。デマリの手から絵が離れる。


「村も変わってしまったのね」


「芸術を残すか消すかでいつも争っている」


「明日の小麦を心配したほうがいいわ」


 デマリが肩をすくめながら頷いた。エーデルが光がこぼれ落ちる廊下を歩いていく。金色に色

づいた道を歩いていくと、ワイスの背中が見えた。絵を持っていた。ピアノの部屋から離れていく。エーデルがつま先で立って、ワイスに向けて手をあげた。


「絵は地下に運ぶのよ」


 ワイスが振り返る。持っていた絵が見えた。緑のオリーブが描かれていた。クレヨンのおぼつ

かない線で形作られている。


 窓から太陽の光が差し込んでいる。光がワイスの黄色い髪に吸い込まれていく。窓の外では、子どもが走り回っていた。少女も少年も笑いながら駆け回っている。


「この絵は太陽の元に飾らないと枯れてしまう」


 ワイスが絵をエーデルに見せた。


「子どもの頃に二人で描いたのよ。覚えていない?」


「忘れてしまったわ」


 ワイスの瞳がわずかに細められた。瞳が薄く濡れていく。フランネルが曲がり角から顔を出した。エーデルが持っていたワイスの絵を手渡す。それから、空っぽになった手をワイスに向けた。


 ワイスが首を横に振った。黄色い髪が揺れる。風に吹かれたコスモスの花みたいだ。


「これから規制が厳しくなる。いつか美術館の作品を全部奪われるわ」


「守るべきは命よ」


「魂のない人間は肉の塊と変わらないわ」


 エーデルの視線が鋭くなっていく。ワイスが視線を外した。窓の外で、深緑色のトラックが走っている。子どもたちが足を止めていた。


 ワイスがため息を吐いた。細くて震えている。


「画家は、人の人生に色を足すのが仕事なのよ」


 声が廊下に寂しく溶けて消えていく。憲兵の怒鳴り声が響いた。子どもたちが家に向かって走り出す。

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