つじつま合わせ

ねじまき

つじつま合わせ

「熊のカイは、賢くて勇敢な旅人でした」と僕は言った。

「熊なんだから、旅人じゃなくて、旅熊でしょ」とソラは言った。鋭い指摘だ。

「おっと失礼、確かにそうだ。旅人じゃなくて旅熊だ。そして賢くて勇敢な旅熊のカイは、冒険の旅へ出かけることにしました」

「なんでカイは旅に出る必要があるの?」とソラは質問してきた。

「カイは好奇心旺盛な熊なんだ。自分の知らない作家の本に手を出すし、聴いたことのないジャンルの音楽を聴く。自分のまだ見ぬ世界を見ることが好きなんだ」と僕は答えた。

「熊も本を読んだり音楽を聴いたりするんだね」とソラは言った。

 そこまで話し終えると、美咲みさきが温めた牛乳をもってやってきた。

「熊も本を読んだり音楽を聴いたりするんだ」とソラが美咲に対して目を輝かせて言った。

「そうなんだ。熊にも芸術をたしなむのね」と美咲が言った。

 

 僕は友達の美咲の子供、ソラに対して、架空の熊の物語を語っている。美咲は最近夫と別れ、その影響によってソラはよく父親の夢を見るようになり、目が覚めると父親がいないことに深く嘆き大声で泣く。ソラはまだ4歳で、母親にはない父親の、守られているような安心感を求める年ごろなのだ。しかし彼はほかの女が好きになり、離婚した。

 美咲は古くからの友人である僕を呼んで、ソラをあやしてくれないかと頼んできた。いいよ、と僕は言った。でも僕には子供のためになにができるのかがよくわからなかった。だから、小説家である僕はその場で物語を作り、語ることによってソラの機嫌を取った。

 美咲の夫だった男の名前は雅彦まさひこという。そして雅彦と僕は友人だった。いや、親友といってもいいかもしれない。そのくらい僕たちは仲が良かったし、いまでも仲がいい。雅彦と美咲が結婚してからも、2人は友人である僕を家に招いて、一緒に食事をとったりした。だからソラも、突然僕がやってきても動揺しなかった。僕から見たその一家は幸せそうに見えた。

 

 ソラがようやく眠りについた時には、時刻は夜中の0時を越えていた。僕と美咲はソラが眠ったことを確認すると、二人でテーブルに向かい合って座り、缶ビールを半分ずつコップに注ぎ、話をした。

「ごめんね、夜中に呼び出してしまって。あなた以外に頼める人がいなかったの」と美咲は言った。

「いいよ、どうせ暇なのだから」と僕は言った。

「うちに来るまで小説を書いていたの?」

 そうだ、と僕は肯いた。

「うまくいってる?」

「ぼちぼちうまくいっていると思うよ。謎をかけ、つじつまを合わせるかのように回収する。でもこんなやり方だと息が切れてしまいそうだ」と僕は言った。「僕の話はいいんだ。ソラについての話をしよう」

「あなたはどうやってソラをなだめたの?」

「架空の熊についての話をしたんだ。それくらいしか僕にできることが思い浮かばなかった」

「いや、いいのよ。すごく助かった。私に目を輝かせて『熊も本を読んだり音楽を聴いたりするんだ』って。あんな目の輝き方、雅彦と別れて以来、見ていないかもしれない」

「それはよかった。でも僕も毎晩君のうちに来るわけにもいかないし、どこかで気分転換をしたほうがいいと思うよ」

「そうね、そう思う。そうだな、動物園でも行こうかしら。あの子に本物の熊が見せたいから。あなたも来る?」

「来てもいいなら行きたいね」

「決まりね、今度の休み、3人で行きましょう」


 僕と雅彦と美咲は、同じ大学で知り合った。雅彦は明るく活発な性格の男だった。ニコッと笑うと白い歯が見え、あらゆる方向に飛んだ髪はいかにも活発そうだった。顔もハンサムだと思う。サッカーをやっていて、運動にも熱心だった。それに対して僕は、陰気でどこか暗い雰囲気を漂わせた男だと思う。本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、外に出てサッカーをしたりするのはあまり好きではない。しかしなぜか彼は僕に興味をひかれたらしく、友達になった。

 美咲とは図書館で出会った。図書館で本を借りようと手を伸ばしたら、彼女の手に当たった。彼女も同じ本を借りようとしたらしく、そこから話が広がり仲良くなった。美咲は大人しく知的な目をした人だった。身長が高く、腰まで髪を下ろしていて、僕と同じように本や音楽が好きらしい。クラシック音楽を好み、いつも静かに目をつむりながら、細長い10本の指を重ねて音楽に耳を傾けていた。

 僕は雅彦に美咲を紹介した。僕の友達だ。へえ、綺麗な人だな。そんな会話をしたと思う。そして僕たち3人は仲良くなった。どこへ行くにも一緒だった。3人で話をしたり、映画を見たり、お酒を飲んだりしていた。それは完璧な友情だったと思う。でももちろん、この世界に完璧なんてものは存在しない。

 雅彦が美咲と友達という関係を超えた関係になった。つまり恋人同士になったということだ。ある日雅彦が僕だけを呼んで言った。

「ねえ、君には悪いと思うし、俺だってこんなことを言うのはつらい。でも言わなくてはならないんだ。俺は美咲のことが好きなんだ。俺がそう思っていることを許してくれないか?」と雅彦が言った。

「許すも何も、僕は怒ってなんかいないさ。君の言っていることは何も間違っていない、自然なことだよ。僕は美咲の親じゃないし、僕には何も言えない」

「俺と美咲が恋人みたいな関係になっても、君は友達でいてくれるかな?」

「もちろん」

 友情が崩れた、という表現は正しくないと思う。だけどその時の僕の目には、大雨によって起きた土砂崩れのように感じた。でもいつかは必ず起きていたことなのだろう。土砂崩れは対策できるかもしれないが、これに関してはどう対策しても免れなかったと思う。

 それでも僕は心に傷を負ってしまった。それは美咲と雅彦が恋人同士になったことに対してというよりは、僕が美咲に対しての想いに正直になれなかったところにあると思う。何かを失ってからようやくその想いに気付いた。自分のことはよく知っているようで、何も知らないみたい。それから1週間だけ、僕は何もできなくなってしまった。すべてがどうでもいいことのように感じ、ずっと無気力だった。大学にも行かなかったし、まともにご飯も食べなかった。

 ある日僕の家に美咲がやってきた。僕が1週間近く大学へ来なかったことを心配しているのだろう。

「元気している?雅彦も心配しているわよ」と美咲は言った。でも多分、雅彦が心配しているのは僕が大学へ来ていないことではなく、別のことに心配しているのだと思う。彼は確かに「それでも友達でいてくれるかな」と聞いた。美咲はそのことについて知っているのだろうか?

 僕と美咲は、ちゃぶ台を囲いコーヒーを飲んだ。

「ひょっとして、私たちのこと怒っている?」と美咲は突然言った。

「怒ってなんかいないんだ。でもなんか、自分の気持ちに正直になれなくて。正しく傷つくことができないんだ」と僕は言った。

 それから深い沈黙があった。僕は自分の言った「正しく傷つく」とは一体何なのかがよくわからなかった。

「私たちにはあなたが必要なの。あなたがいることによって私たちは支えられているのよ。あなたは私たちにとって橋みたいな存在なの。だから明日から大学に来てほしい」と美咲は言った。

 それから僕は大学へ行き、あの一週間が嘘のようにまた3人で仲良くやっていた。やがて雅彦と美咲は結婚した。こじんまりとした結婚式だった。もちろん僕も参加した。そして子供が産まれ、離婚した。


 子供、つまりソラが産まれるちょっと前、僕と雅彦は二人で並んで歩いた。雅彦はもうすぐ子供が産まれることによって、相当緊張しているようだ。雅彦がそんなに緊張した顔をするのは見たことがなかった。僕たちは夜の街を当てもなく歩き話した。

「いまこんなこと言ったら君は困惑してしまうかもしれない。でも今しか言えない気がするから言っておきたいんだ。実をいうと僕は君のことを尊敬している」と僕は言った。

「尊敬?俺のことを?いったい何に?」

「分からない。言葉にはできないけど、とにかく君の何かに憧れているんだ」

「そうか、そう言われて別に悪い気はしないよ。嬉しい」

「おめでとう」と僕は言った。

「ありがとう」と雅彦は言った。


 それから僕は小説家になった。僕の小説は複雑な男女関係の恋愛小説が多く、結末は残酷なことが多かった。また、語られない謎が多く、解釈を求められるような小説を書いていた。しかしある時編集者に言われた。

「いまの人たちは答えを求めているんだ。読者の解釈にゆだねないで、答えを作ってあげたほうが、きっと売れるよ」

 確かにその通りで、僕の方向性はそっちへ向かった。最初に多くの謎をかけ、つじつまを合わせるかのように回収する。しかし僕にはこんなやり方はあまりあっていないように感じた。なんというか、息が切れてしまいそうだった。謎を謎として受け入れることも、大事なんじゃないかと思う。

 

 ずっと独身だった。何度か女性と交際したが、どれもうまくいかなかった。僕は美咲が好きなんだ。何度も結婚を申し出ようとしたことがある。でも、尊敬していた雅彦の元妻と結婚するというのはどうなんだろうという気持ちがあった。それはちょうど、ブラームスが、クララ・シューマンに抱いていた想いと重なる部分があった。尊敬していたシューマンの元妻と、深い関係になることが果たして正しいことなのだろうか。たとえシューマンが亡くなった人だろうと。ブラームスの音楽を聴いて、そのようなことを感じた。

 

 休みの日、僕と美咲とソラは動物園へ行った。そこで熊を見た。

「あ、カイだ!熊のカイ!閉じ込められている!」とソラが言った。「どうしてカイはあんなところにいるの?」

「勇敢な旅熊のカイは森を出たんだ。でもカイは森の外のことなんて何も知らなかった。だから人間たちに捕まってしまったんだ」

「可哀そうなカイ……」

「ねえ、もっといい結末はなかったの?カイは冒険の末に宝島を見つけるとかさ」と美咲は言った。

「だってカイがあそこにいるってソラが言うんだもの。つじつまを合わせたらこうなってしまった」と僕は言った。


 その夜、ソラが言った。

「ねえお母さん、あれやってよ。ズボンを履いたままパンツを脱ぐやつ」

 美咲は頬を赤らめた。

「なにそれ?」と僕は言った。

「家族同士でやるちょっとしたお遊びよ」と美咲は言った。「ソラちゃん、お客さんが来ているのだから、そんなことできないわよ」

「なにを言っているの?彼はお客さんじゃないでしょ」とソラは僕を指さして言った。「お願い!やってくれたらぐっすり眠るから」

 美咲は諦めてズボンを履いたままパンツを脱ぐ遊びをやった。僕は後ろを向いていた。その間に行われることが家族同士でやるちょっとしたお遊びなら、僕にはそれを見る資格がないように感じたからだ。

 美咲はズボンを履いたままパンツを脱ぐ遊びを終えて、ソラは眠った。

「別に見てもよかったのよ」と美咲は言った。

「いや、僕にはその資格がないと思ったんだ」

「資格ってなんだろう?」

「さあ、資格ってなんだろう?」

 それから僕たちはベッドに入った。お互いの体をぎこちなく触り、温めあった。

「もっと早く、こうなることはできたはずよ」と美咲は耳元でささやいた。「あなたは何も気づかなかった」

「僕は物語の筋を気にしすぎた。なんでもよかったんだ。すぐにハッピーエンドになるべきだった」


 美咲は眠り、僕はベッドを出て服を着た。台所でコーヒーを飲みながら、熊のカイの物語を考えた。

「熊のカイは、数々の困難を乗り越え、冒険の末に宝島を見つけました。彼は宝をみんなと共有し、森で仲良く暮らしましたとさ」

 彼女の言う通りだ。もっと早く言うことができた。美咲が起きたら結婚を申し込もう。そして何があっても彼女ら2人を守ろう。

 物語の筋なんかどうでもいいから、ハッピーエンドになろう。

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