思い出の形

nobuotto

第1話 徳次郎の家戻り

 百合子は助手席に座った途端に、コックリコックリと寝始めた。

「仕事の疲れが溜まってんだな。姉ちゃん寝てな」

 秀俊はそう言って車のエンジンをかけた。

 気持ちよさそうに寝入った百合子を横目で見て秀俊は大きくため息をついた。

 

 4月に入ったばかりだというのに、春とは思えない日差しの下での現場回りに秀俊は疲れ切っていた。帰宅して直ぐに風呂に入り、コップにビールを注いだ矢先に姉の百合子から電話がかかってきた。

名残り惜しそうにビールを見ている秀俊を、妻の久美子はさっさと行きなさいと追い出した。

東京の自宅から横浜の姉を拾って静岡の実家に向かう。御殿場を越えた頃に百合子は目覚めた。日付は次の日になっていた。

「まだなの、秀俊、もっと急いでよ」

 目が覚めるたびに百合子はこう言って秀俊を急かすのであった。

「姉貴と違って俺は公務員だから捕まるわけにいかないの」

「私と違ってあなた公務員だから明日は休みでしょ。私は仕事なの、急いで」

「明日休みだけど、徹夜で運転する身にもなってよ。一日や二日親父の好きにさせてやってもいいじゃない。子供じゃないんだから」

 父の徳次郎が家出した。正確に言えば家出ではなく家戻りをしていた。

 百合子が徳次郎を横浜に連れてきて一緒に住むようになって半年が過ぎたが、これで四回目の家戻りであった。

「子供と同じでしょう。一人じゃ何もできないんだから」

 小さい時から寝起きの悪い百合子は、秀俊に食って掛かるように話す。

「大体さ、死ぬとかいう人間が新幹線に乗って帰れるわけないんだから、大丈夫だよ放っといても」

「大丈夫に決まってるけど放ってもおけないでしょ。明美だって心配しておろおろしてるんだから。私明日しか休めないのよ。とにかく急いでよ」

「これで何度目だよ。明美ちゃんも慣れないもんかね。まあ、“俺はもう死ぬから”と言って出て行ったらしいから、孫としては心配だろうけどさ」

「明美も四年になって卒論と就活で神経尖らせている時だっていうのに。本当に自分勝手で最低の人間よね」

「じゃあ、無理に親父を連れて来なければよかったのに」

秀俊がそう言うと、あなたが一緒に住んでよと言われ兼ねないので黙っていた。秀俊は義理の母と暮らしている。とても父親を引き取る余裕はなかった。

「あの人は一人じゃ何もできないんだから。写真館は母さんに任せっきりで、自分は写真を撮るだけ。暇ができるとどっかに雲隠れしちゃうし。横になったものを縦にもしない人なんだから、三日で餓死しちゃうわよ」

「人間三日で餓死することはないだろうけど。親父は昔かたぎなんだよ」

「あんたはいつもお父さんをかばうけど、母さんがどれだけ苦労して写真館をやってきたか。写真だけ撮ってればいいってもんじゃないんだから」

「職人肌、いや芸術肌なんだよ親父は。技術はあって当たり前。相手の心に寄り添うようにシャッターを押す。写真はそうやって撮るんだって。よく言ってたよなあ」

「あんたは小さかったから知らないでしょうけど、昔はフィルム代が高かったのよ。特にカラーはね。三枚も撮れば十分なのに、たかが記念写真で納得いくまで取るなんて。だからいつも貧乏だったんだから」

 母が言えないことを徳次郎に言うのが、小さい時から百合子の役目のようになっていた。百合子からすれば、朝から晩まで働き詰めの母に比べて、徳次郎は単なる趣味人の怠け者でしかなかった。そんな徳次郎への反発もあってか大学は東京に進学した。

 五つ下の秀俊は百合子の言う貧乏な時代は知らない。徳次郎は秀俊を連れてよく写真を撮りに行った。だから、徳次郎の共犯者のような気になって何も言えない。徳次郎と町の写真を撮り現像も手伝ううちに、写真の難しさと面白さが少しはわかってきた。写真館を継ぐことも考えた時期もあったが、建築に興味があり百合子を追うようにして東京の大学に入った。卒業後は都庁の土木関連の部署に就職した。

「娘から見ても母さんは綺麗だったし、働き者だったし。なんであんな自己中の塊のような人と結婚しちゃったんだか。これだけは母さんが亡くなる前に聞いておきたかったわ」

「親父も若い頃は優しくて働き者だったんだよ」

「男同士かばい合うわけね。あなたお父さん似だしね。それよりあんた、ちゃんと久美子さんを手伝ってるんでしょうね。共働きなんだから家事は半々よ。久美子さんのチーム今大変なんだから。あんた公務員だから早く帰れるでしょう」

 徳次郎の話しの次には自分に火の粉が飛んでくる、いつものパターンだ。秀俊は百合子が勤めている広告代理店の後輩の久美子と結婚した。家の情報は百合子に筒抜けになっていた。女性陣できっと自分の悪口を言っているに違いない。こうして、急に呼び出され徹夜で運転させられた上に毎回説経されることになるのであった。

「姉貴、もう直ぐ着くから寝てていいよ」

「あら、やっと市内に入ったわね。じゃあ少し寝る」

 と言ったかと思うともう寝息を立てていた。市内の外れに二人の実家の西村写真館がある。夜が明けてきた。

「俺より姉貴の方が親父似と思うんだがなあ。自分じゃ分からんか。さて、もうすぐだ。着いたらビール飲んで寝るぞ」

 百合子を起こさないように小声でつぶやいた。

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