魔法少女融解

サンカラメリべ

第1話 終わる日の歌

 いつからだろう。世界は歌に包まれていた。人々はどのような場所にいようと、共通の曲を聴いている。甲高いピアノが大河のように重厚なメロディーを奏でている。消え入りそうな淡い少女の歌声がふわりとヴェールを被せるように意識に囁く。それは耳が遠くなってしまった老人も難聴者さえも認識している。まるで頭の中で鳴り響いているかのように。


「世界が終わるってさ」

 声が聞こえた。公園からだ。見ると小学生らしい男の子がつまらなそうに小石を蹴り飛ばしていた。彼を囲むように立ち尽くす、恐らく彼の友達と思しき子たちも項垂れていた。

 私も彼の言っていることに思い当たるものがある。今も頭の中で響くこの歌声のせいで社会が狂ってしまった。誰もこの幻想的でヒステリーを掻き立てる歌を止める術を見つけられておらず、どんな薬でも、それこそ大麻やモルヒネでさえもその歌からは逃れられない、らしい。

 正気を保っているのは、この歌に適応した者たち。無音の代わりにその歌が流れることに慣れてしまった者たちだけだ。それを正気ではないと以前の世界では言うことはできたかもしれないが、環境の方が狂ってしまったならば狂気と正気が入れ変わることもあるだろう。

「違うよ! 最後の審判だ! これから新しい世界が始まろうとしているんだよ!」

 その言葉に一斉に少年たちの視線が集まる。しかしながらそれは、異端者を見つけたような親愛の欠片もない冷たい白い目だ。

「パパがそういってたんだもん!」

 こう言う少年は、他の子とはまるで違う雰囲気を纏っていた。能天気な、浮ついたような雰囲気。いつもの遊ぶメンバーにはいない子なのだろう。他の子とは距離ができているようだった。だからこそ声を上げてグループの中に切り込んでいったのかもしれない。結果として、彼は怒りあるいは憐憫によって迎えられた。

「お前の父さんは歌の聞き過ぎで気が狂ったんだよ」

「で、でも、父さんは間違ってないよ! 神様の審判が始まるんだって」

「宗教に興味ねぇよ。じゃあ、お前は変になったおれの母さんは神様に捨てられたって言いたいのか?」

「えっと、それはその」

 予想だにしていない言葉のストレートパンチで、少年はたじたじになっていた。彼としては父親を信じたいのだけれども、父の言葉を信じると目の前の相手の母親のことを軽んじることになる二律背反により、返事に詰まっている。

ただ、これは相手が悪かったという他ない。事実、歌に適応した人々の中から立て続けに新興宗教が生まれており、既存の宗教も勢いを強めていた。そうした中で宗教に縋らずに生きようとしている者たちの方が世界中から見れば少数派であり、むしろ彼の意見は多数派のものであるはずなのだ。たまたまこの場に少数派の子たちが集まっていただけで、別のグループであれば問題なく受け入れられていたことだろう。

 このままずっと少年たちのやり取りを眺めていたいとも思ったが、気が引けたので散歩に戻ることにした。

 教育機関は殆ど動いていなかった。本来であれば私は大学を受験し、今年に大学一年生か浪人一年目になるはずであった。けれどもこの忌々しい歌が広まると教師や教授といった立場の人々の大多数が精神不安定に陥り、まともに授業を行える人間がごっそり減ってしまったため学校はもはや成り立たなくなってしまったのだ。

街で見かけるまともに意識を保っている人間の多くは子どもであり、比較的子どもの方が歌に耐性があるらしいとは聞くがそれがどの程度のものなのかはわかっていない。ただこれが示すことは、子どもが狂ってしまった親よりも親が狂ってしまった子どもの方が多いということである。

 食料は配給制になっている。かつての政府はもはやなく、歌の適応者による臨時政府がその代わりを務めている。この国は奇跡的に配給制度がきちんと成り立っていた。仕事が無くなって途方に暮れている人々が農業に従事し、食料を供給してくれている。国によっては台頭してきた新勢力があっという間に政府を乗っ取ってしまって強制的に人々を馬車馬のように働かせているところもあると聞いているので、紛争が起こることなくある程度安定した生活を国民に提供できているこの国の臨時政府は優秀な人材に恵まれていただけでなく、これまで培ってきた倫理観も失われていないのだと思えた。

 とはいえ、この国でも争いの影が無いわけではない。私の知り合いの幾人かは軍事訓練に参加している。これは臨時政府が主導しているもので、強制的ではないにしろ暇を持て余した人間が相当数参加している。一応自衛のための訓練だとは説明が為されているが、それもいつまで本当のこととしてあるのかわからない。他国が攻めてくるだけではなく、新興宗教がテロ組織化して他国のように臨時政府を乗っ取る可能性も捨てきれない。私たちの国は薄氷の上を渡り歩いている。

 家に籠っていても陰鬱な気分になるからと散歩をしているが、それで事態が好転することなどあり得ないことであり、やはり私は散歩しながらも先が暗い未来のことを思案して残酷な結末を想像しては逆に終末感漂う現状でも意外となんとかなっていることを理由に楽観的になってみたりして、おちおち景色を楽しむことなどできなかった。

 そんな折、視界の端にハムスターのような影を見た気がした。野性化したハムスターではなく、ただのネズミだろう。こんな状況下でもペットとともに暮らしている人はいるが、養えなくなったとかで逃がされた犬や猫が野生化して問題になっている。配給される食料に肉なんて滅多に入ってこないので、闇市には何の動物なのかわからない肉が明らかに大きさの釣り合っていない牛や豚の名前で売られていたりする。視界の端に映った影には弱弱しい印象を受けた。怪我をしたネズミなんてものはろくに逃げられないだろうから、猫とか犬とか、もしくは闇市の仕入れ屋にあっけなく捕まってしまうはずだ。私はこの生き物を無視しようかとも考えたが、妙に心が惹かれたので追いかけてみることにした。

 手入れされていない腰の高さまで草が育った空き地を分け入っていく。しゃがむと足元にやや紫がかった血のようなものがあったので、それを頼りに進んでいく。不思議な色の血だ。触れると指の上で煌めいた。昔、カブトガニの青い血は医療に利用されているといった内容のテレビ番組を観たことがあった。採血の様子は残酷だった。一列に並ばされたカブトガニたちに管が刺さっていて、そこから奇妙な青い液体が瓶に流れ込んでいく。生物工場というよりも決まった物質を生産する工場となった生物、いわば工場生物のようだと幼いながらに思ったことを覚えている。今目の前にあるこの液体は、葉っぱに付着している具合からおそらく血なのだろうと予想はできる。だというのに、この血は赤でも青でもない。地球上の生き物ではないのだろうか。この発想には、そんなまさか、という思いと、脳内に響く歌があるのだからそれぐらいいてもおかしくない、という思いとが半々に起こった。だんだんと目的の存在に近づきつつある。血痕が途切れた先にいた存在に、私は目を疑った。

 大きさは予想通り、手の平サイズのハムスター程の大きさだった。だが、私の記憶にあるどの生物とも異なった姿をしていた。まず耳が長い。ウサギよりも長く、体長とほぼ同じくらいの長さである。苦しそうに息をしていて腹部が膨らんだり縮んだりしている。全体的にぬいぐるみのような柔らかく淡い緑色の毛に覆われ、体中にある切り傷からは紫がかった血が滴り落ちている。首には愛らしい黄色いリボンをつけているが、首輪ではなさそうだ。そして何よりも異質なのは、この存在が僅かに透けているということだった。妖精。魔法少女に付き従うあのマスコット的存在のように思われた。どう対応すべきか悩んだが、家に持ち帰って傷を消毒してやることにした。ハンカチで包み込むように持ち上げた時、この存在はやや抵抗してみせたがそれもそよ風のような力のなさで、暴れることはなかった。

 私は一人暮らしだ。両親は祖父母が心配だからと出ていったきり、戻ってきていない。だから家にこの存在について相談できる相手がいなかった。近くの図書館から適当に医学書を借りてきて、それを参考に手当てした。人間用の消毒アルコールは動物には刺激が強いらしい。危うく使ってしまうところだった。もう図書館に司書はいないので、勝手に本を借りても誰も文句を言わない。だけども、こんな状況だからこそこうした文化的なものは大切にするべきだという立場の人もいるので、借りた後はちゃんと元の場所に本は返すつもりだ。

 この妖精らしき生き物の怪我は、どこも小さかった。最悪私が傷跡を縫うことも考えていたのだが、その必要はなかったので安心した。次の問題は、この生き物は何を食べるのか、である。人間にとっては無害でも動物には有害であるものは沢山ある。図書館にある動物図鑑のどれにもこの生き物らしきものは載っていなかった。フォルムがハムスターっぽいので、雑食だろうか。もしかしたら本当に魔法少女のお供で、人間の言葉を話すかもしれないな。そんな冗談とも本気ともつかないことを考えながら、ベッドに入った。

 夢の中でも歌声は聞こえる。それが何かを願う歌であることは、みんななんとなくわかっている。何を願っているのかは、まだ誰も知らない。悲しそうに、慰めるように、罪を告白するように、まだ終わっていないと奮起しているように。歌声はたった一つであるのに、そこに込められた感情は複雑で、幾本もの感情の糸が編まれ強固な綱となって強く強く私たちの心を縛っている。

 目が覚めると、傍であの謎生物が寝息を立てていた。だいぶ落ち着いたようだ。私は先に配給に並びに行った。

 広場には沢山の列ができている。物資を運ぶ車は全て電気自動車だ。太陽光発電を使っている。配給されるものは様々で、かつて歴史の授業で習った戦時下での配給品よりは豪華だが、決して豊かとは言えない。私は配給されたものの中に運よくリンゴ一切れがあったので、これをあの生き物にあげることにした。あとは米などを貰って、帰路につく。食料配給にはIDカードが用いられているので、何度も並ぶといった不正は難しい。そして不正を行ったことが明らかになった者は、問答無用で臨時政府の兵士に連れていかれる。何をされるのかは知らない。陰謀論者の中には、配給される食料にそうした人間の肉が混ざるのだ、なんて言う者もいるそうだが、最近ではそんな陰謀論も聞かなくなった。馬鹿らしくなったか、臨時政府に連れてかれたのだろう。

 家に帰ると、あの謎生物は目覚めていた。しかも、空中に浮いていた。

「キミかぁ! キミがボクを助けてくれたんだね! ありがとう!」

 舌足らずな幼児みたいな声をしていた。長い耳をピンと伸ばして羽根を持っていないのにふよふよと嬉しそうに漂いながら、私の胸元に抱き着いてきた。ぬいぐるみが私に頬ずりしている。私がリンゴの切れ端を渡すと、美味しそうにそれを頬張った。

「君の名前を教えてくれる?」

「ボクはハトホー! 愛と幸福の女神の名を持つ魔法妖精さ!」

「え? じゃあメスなのか」

「メスってなんだい! ボクはれっきとした女の子だぞ!」

 ハトホーは頬を膨らまして怒り出した。確かにメスという言い方はマズかったかもしれない。考えてみれば、ペットの性別を飼い主がメスとは言わず女の子と言ったりするのはよくある。人間の言葉を話すくらい高度な知能を備えているのだから、人並みに扱わないと馬鹿にされたと思って怒るのも当然か。気を付けなければ。

「そうか。ごめんな。妖精というのに慣れてないんだ」

「謝ってくれたから許してあげる。助けてくれたし、キミはいい人だからね!」

 非現実的な存在が目の前にいる。しかし、もう既に現実は妄想と交わってしまっているのだ。今更人知を超えた存在が現れてもおかしくはない。なにしろ、ハトホーの愛らしいボディは見るからに狩に向いておらず、いざとなれば容易に捕獲できるだろうから、それほど危険な存在ではないと思う。

「ハトホーはなぜ透けているんだ?」

「それはね、ホントは逆なんだよ! ボクは普通は人間には見れない存在のはずなんだ。でも、透けてはいるけど普通の人間にも見られるようになったんだよ」

「どうして?」

「えっと、話しちゃおうかな。どうしようかな。でも、もう終わったことだから、話しちゃう! キミたち普通の人間でもボクのことを見られるようになったのは、ウィニーちゃんのおかげなんだよ」

 すると、ハトホーは寂しさと悲しみの入り混じった暗い顔をした。ウィニーちゃんという存在が、ハトホーの傍にいない理由。それが表情から容易に想像できた。

「辛いのなら話さなくていい」

「ううん。話しちゃう。でもさ、だからさ、仲間になってよ!」

「仲間?」

「ボクに協力してほしいんだ」

「魔法少年にでもなるのか?」

「それはできないよ。それができるのは世界にたった一人、ウィニーちゃんだけだもの。ウィニーちゃんだけが魔法少女の適性を持ってた」

「じゃあ何をしてほしいんだ?」

「ウィニーちゃんを復活させたい!」

「できるのか?」

「できるもん! ウィニーちゃんは規格外の存在なんだから!」

 凄い自信だ。よっぽどそのウィニーちゃんは神がかったことを可能とする超人なのだろう。私はなんだか面白そうなので協力してもいい気がしてきた。

「そのウィニーちゃんは死んでしまったのか?」

「死んではいないよ。彼女は溶けて世界中に浸透したんだ」

「魔法少女が、溶けた?」

「うん」

 すっとハトホーの目が鋭くなる。私の目を見つめるが、それよりもずっと奥を覗いているようだった。そうしていると、私はなんだかたまらなく切ない気持ちになってくる。しかも、それは私の中にある私ではない何かによって引き起こされているのだ。

「岩山を砂山に、砂漠を森林にすることさえできてしまう魔法少女のたった一つの切り札。それが魔法『少女融解』。自身の肉体を海と同化させ、この星全てに魔法少女の加護を無理やり付与する魔法。つまり、キミが飲んでいる水や空から降る雨、街中を流れる川、下水、地下水、その全てが彼女の一部。だけど、この魔法はあまりにも強力だから、人々を狂わせてしまう。それが今の狂った世界の真実なんだ」

 私は言葉を失っていた。この歌声の正体。人々の心の中に宿る歌姫の正体。それを知った私は、只々その計り知れない規模の大きさに圧倒されるばかりであった…………。

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