髪 正
@Talkstand_bungeibu
髪
「待ち時間暇だったから病院のコメンタリー動画見てたんだけどさ」
「また変な動画観て…」
「聞いて」
「またか」
「聞いてって」
「…病院の動画が?」
「うん、それでなんか『人間の寿命は限られているから好きなように生きろ』って言葉があってさ」
あの人との散歩途中。
「あるね」
「糞食らえって思った」
コーヒーを吹き出す私。構わず続けるあの人。
「限られてるからこそ、楽に生きれるルートに乗りたいもんじゃないの」
「レール」
「楽に生きれるレール?敷かれた、レール?」
「レールの敷かれた楽な人生?」
「それだ!それにのりたいな」
頷く私。
「あなたはそうだろうね」
「『あなたはそう』?なんか『私は違うよ』みたいな言い方してるね」
首を振る私。
「私は寿命があるんだったら好きに生きたいよ」
あの人は、私の言葉を聞いてその場に立ち止まった。
「ならなんでこんな奴と散歩を?」
そう言いながら自らを指すあの人。
白い息を吐く私。
「なんでだろうね」
私の言葉に、私の真似をして白い息を吐くあの人。
「素直に「あんたが大好き」って言えばいいのに」
「私は、あんたみたいに『ルートに乗って生きる』とか言う人無理だから」
その言葉に声を出して笑うあの人。
「それもそっか」
「そう」
「二度とからかわないで」
「はいはい」
また歩き始めるあの人。
私の横に並ぶ、その横顔を見た。
見ていた。
「家帰ろっか」
「まだ帰りたくないな」
私は頷いた。
「じゃあ、このまま、二人っきりになれるとこ行こ」
「それは、嫌だ」
あの人は頷いた。
「じゃあ、このまま、歩いてよっか」
風で靡く髪の毛。
痛んだ毛先。
私の茶色い毛先。
あの人の黒い毛先。
ほのかな金木犀の香り。
それを撫でたかった。
「来週、○○○だっけ」
「うん」
「楽しんで」
あの人は笑った。
笑ってほしくなかった。
「あのさ、○○しても、また遊ぼうね」
「うん」
「無理ならパソコンの、あの、ゲームとかでいいから」
「うん」
お互いの境目が曖昧になったような感覚。
吹き荒れる風。その風で舞い上がる落ち葉。
全部消えてほしいと思った。
私とあの人の空間を、邪魔しないで欲しいと思った。
「結婚しないで欲しい」
なのに、私は、あの人の口から出たその言葉を無視した。
あの人と会う頻度が、半年に一回に減った。
一年に一回に。
そして、今では連絡すらしない関係になった。
大して絶望はしなかった。
落ち込みもしなかった。
私には子供がいるから。
まだ話せない、私だけの愛おしい子。
あの人の名前をつけようとして、やめた子。
やっとの思いで寝かしつけた子供の寝顔を見ながら、思い出す。
あの人の家族からの電話を。
あの人に訪れる、分かりきった結末を思い出す。
相手の好みに合わせたシャンプー。
相手の好みに合わせたコンディショナー。
両方とも爽やかなミントの香り。
いつまで経っても慣れないこの香り。
好きじゃないこの香り。
なのに、髪には良くて。
痛んだ毛先に困ることもなくて。
私の体からする慣れないこの香りに、いつかは慣れろと何かに命令されているようで。
楽なルートを選べと言われているようで。
そうすれば普通に生きていけるんだと言われているようで。
胸一杯にそれを吸い込んだ瞬間。
それを感じた瞬間、絶望した。
ああ、私はあの人に惚れているんだと。
惚れてしまっていたんだと。
髪 正 @Talkstand_bungeibu
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