プロローグ

 厳しい寒さも徐々におさまり、暖かな風と共に春の訪れを知らせる。


 立春の刻


 春休みも終わり、進級した俺こと「相場僚あいばりょう」は、2年生としては初めての学校へ足を運んでいた。

 期待と不安が入り混じる心持ちの現状いま。可もなく不可もない、目立たない学校生活をモットーに生きる俺にとって、新しい教室とそのメンバーは、俺の心をかき乱すものだった。

 春の心地よい日差しが照らす俺の顔は、それとは裏腹に暗く沈んでいた。ちらと右手に握るそれを一瞥する。手のひらサイズの横型封筒。白い無地の中央には、綺麗な文字で『高色たかしきさんへ』と綴られていた。これから行うことを思うと更に憂鬱になる。


 いやまあ、自業自得なんですけどね……


 ブツブツと独り言を呟いていると、いつの間にか学校の正門前までたどり着いてしまった。


 『清穣高等学校』


 正門の塀に、縦に刻まれている文字。俺が通う学校の名だ。いつの間にかたどり着いていた驚きと、これからへの躊躇いで数瞬まで止まってしまったが、深く息を吐き正門の中へと入っていった。

 無言で幾重にも続く階段を登る。しばらく上がると、重く閉ざされた鉄扉が姿を現した。ドアノブに手をかけ、力の限り扉を押す。鈍い音を立てて、ゆっくりと開いていった。


 薄暗くジメジメとした踊り場に、外から眩しい光と清々しい風が入ってくる。それを受け、目を細めた俺はそのまま外に出た。

 眩しい光に慣れ、目を開けた俺の目の前にはペンキ塗りのコンクリートが広がっていた。

 それ以外には何もなく、外縁にはフェンスが囲んでいるだけのシンプルな屋上。開放的な空間にそそぐ微風が、なんとなく俺の心を開放的にした。


 何もない空間にぽつんと人影がある。フェンス越しに外を眺めるその女性は、腰まで伸びたブラウンの髪を、風にたまびかせ黄昏ていた。


「……高色さんですか?」


 目の前の女性に声をかけた。ブラウンの髪、その髪の後ろには古風なバレッタ。特徴的なその後ろ姿から本人であることは間違いなかったが……。

 俺の言葉を聞いて、女性はゆっくりと振り返った。ひらりとプリーツが優雅に舞う。やがて見える相貌を凝視した。ふわっとゆるく、ウェーブがかかった前髪。うっすらと細く、整った眉。黒く凛とした大きな瞳。その目の奥にはブラウンの瞳孔が、光を受けて煌めく。ぷっくらと丸く、可愛らしい鼻と頬。口角を少しだけ上げた、ふっくらとした唇は、恥ずかしそうに頬と紅く染めていた。

 優雅でいて、大人びて、それでいてどこかあどけなさを残したような女性だった。


「めずらしいね。ここに人が来るなんて。……相場くん」


 俺は驚愕とした。目立たずをモットーに生きる俺にとっては、誰かに認識されていることが珍しいからだ。その上に目の前の女性は、成績優秀、品行方正、容姿端麗ときた。運動はあまり得意では無いらしいというのが、学園ラブコメ系小説のようにはいかないが、それでも俺とは正反対の人種だ。彼女はこの学園の生徒の注目の的だった。誰もが彼女をアイドルとして慕う。この学園のシンボルと言っても過言ではないだろう。

 だからこそ、俺からはあまり近づかないようにしてきた。平和な学園生活を送るために。彼女のあまりの人気に、ただでさえ影の薄い俺の存在がかすみ消えたわけでは決して無い。……ないよね? げふんげふん


「そうか? 高色さんが男子生徒に声をかけられるのなんて、日常茶飯事だと思うが」

「そうかな」


 ニッコリ笑顔、向日葵のごとく。顎を少し引いて俯き、前髪が瞳の上にかかる。前髪で見えなくなった表情は突然と薄暗さを醸し出した。前髪の間から僅かに覗くその目は、負のオーラを漂らせていた。ひゅうと吹く風に、薄ら寒さを覚える俺。


「あたしが視線を向けると、すぐに視線を逸らして知らん顔。声を掛けようと近づいたら、それを察して逃亡。あたしと鉢合わせすると、何か用事を思い出したように引き返す。そんな相場くんが、あたしに声を掛けるなんて、春は良いこともあるもんだね、ふふ……」


 高色さん、目が笑ってないす……。怖い、怖い。


 だが、それが彼女の良さでもあった。高色はこの学園の生徒も教師も、顔と名前をほとんど覚えている。それだけではなく、誰とでも親しく接するのだ。昨年の秋の頃なんか、清掃員と仲良く落ち葉拾いをしていた。あまねくく全てに分け隔てなく接し、誰とでも仲良くあろうとする。だからこそ俺とも仲良くしようとしたのだ。純粋に尊敬する。まあ、俺にはそんなことできないし、しないし、高色のその意識の高さを理解できないが……。


 高色からの無言の圧力に気押され、ガグブルと震える指で掴んでいた封筒を胸の前に掲げ、高色へと近づく。両手の指でちょこんと掴み、高色の前へ差し出す。突然のことに高色も戸惑ってしまう。


「これは……なに?」


 そう呟き、おそるおそる封筒を手に取る。ちらりと手のひらを返した、裏面には『高色さんへ』という文字。驚きとともに、高色はなんとなく勘づいたようだ。


「そう、そういうことだ。それじゃあ」

「へ? え? いや、ちょっと……まっ、


 ガタン……。


 高色が何か言おうとしたが、急ぎ足で引き返し屋上の扉を閉じた、その音にかき消えて、最後まで聞き取れなかった。そんなことはどうでも良かった。高色と俺が話すのは最初で最後。もう接点を持つことはないと思っていたからだ―――

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