声の骨董店
振矢瑠以洲
声の骨董店
いつもの駅までの帰り道の途中であるが、気になる店に気がついた。この店がこの場所にあったことになぜ気がつかなかったのだろうか。店の造りは決して新しくない。とういうよりかなり古い建物である。そもそも新しい店が建設されたのなら、建築現場の前を毎日通ることになるのだから、その店の存在に気がついているはずである。古い店の古い建物故に気がつかなかったのかもしれない。
店はかなり古い建物であるが、建築のど素人でも惹きつけるようなものが感じられた。古さが建物のデザインを一層引き立てるような作りであった。その店の建物に気がついた瞬間その場から離れることができなかった。
店の正面には年季の入った板にあじのある字体で、店の名前が書かれていた。店の名前の字体が途中から変わっていたせいであろうか、目立つ方の字体しか最初の目に入らなかった。『骨董店』という文字だけが目に入った。興味を全くそそらない文字であった。
よくみると薄い字体でその前に書かれてある文字に気がついた。『声の』という文字であった。その瞬間、店の名前が『声の骨董店』であることに気がついた。よくある壺や皿などの骨董品の店ではないだろうかと思えた。どだいそのような骨董品にはほとんど興味がなかったので、そのような店には入るつもりは毛頭なかった。
だが『声の骨董店』となった場合は話が違う。頗る興味をそそる。生まれつき変わったものには興味を持たないではいられないたちである。店に吸い寄せられるようにして中に入っていった。
「いらっしゃいませ」
店員らしき老婆が奥から現れた。店内を見回すと壺らしきものが多数展示してあった。その瞬間失敗してしまったというような後悔の念に襲われた。この店はありきたりのよくある単なる骨董店ではないか。『声の』は大して意味はないのだろう。そのまま『骨董店』なのだろう。真っ先思ったことは、機会を狙っていち早くこの店から出ていくことであった。
「お客さんは、店内に展示されている壺が骨董品であると思われたでしょう。まあ最初に入ってくるお客さんはほとんどがそう思われますから、気にしないでください」
最初老婆だと思っていた店員は、老婆というにはとてもあてはまらないような不思議な風格を備えていた。
「ここに展示されている壺自体は売り物ではありません。中に入っているものが売り物なのです。壺はその単なるケースです」
「壺の中には何が入っているのですか」
「お客さんは、この店に入ってくる時に店の名前を読まれたでしょう。『声の骨董店』ですけど。壺の中には声が入っているのです」
展示された壺をよく見ると歴代の有名人の名前が書かれていることに気がついた。映画俳優。歌手。作家。政治家。誰もが一度は聞いたことのあるような名前である。
「そんなことは信じられないですけど、仮にこれらの壺のなかに人間の声を保存することができたとしても、それに何の意味があるのですか。人間の声を保存するのにレコード盤というものが昔からありましたし、近代になってテープレコーダーが開発されたし、今ではICレコーダのような便利なものがあるんですよ」
「そのことはもちろん知っていますよ。でもどの製品も結局は、人間の声を音の波という記号のようなものとして保存しているだけでしょう」
「人間の声に音の波以外に何かあるんですか」
「お客さんは、今話していますけど、声帯によってこの部屋の空気を音の波で振動させているだけではありませんよね。話している時にお客さんの口から息が吐き出されていますよね。お客さんの口から吐き出されている目に見えないすべてのものと一緒に空気が振動してお客さんの声が響いているのです。この壺にはそれら全てが保存されるのです」
老婆の両手にはいつの間にか壺が挟まれていた。
「これはお試しの壺です。持ち帰って試してください。この蓋を外すだけで体験できます。もし気に入られて、お好みの声を購入されたいのでしたらご来店ください。ただし今日中にです。明日になったらもうだめですよ」
蓋ということを言われなければ分からなかったのであるが、確かに蓋のようなものがしてあって、中が見えない状態であった。
家に帰ってすぐに、壺をテーブルの上に置いた。壺をただじっと見つめているだけで時間だけが経過していった。時間の経過とともにその壺の重みが増していくような気がした。
蓋に手が触れた時、簡単に蓋が外せるような感触が伝わった。家に持ち帰ってくるまでの間、蓋は強固に壺に密着した感じがした。蓋を外すのに相当苦労するのではないかと思っていた。
蓋はただ壺に被さっただけの状態だったので、ただつまんで持ち上げるだけで外すことができた。蓋をテーブル上の壺の脇に置いた。しばらくそのまま待っていたが、何も起こらなかった。
壺の中を見ようと、壺の上から覗き込もうとしたときである。一瞬の内に何も聞こえなくなった。先程まで近くの道路上を走っていた車の音。盛んに鳴いていたカラスの鳴き声。遠くから微かに聞こえていた工事の音。耳を澄ませば聞こえてくる屋外からの様々な音が全く聞こえなくなってしまった。
それどころか室内の音も聞こえなくなってしまった。時計の音。蛍光灯の音。夜静まった時に聞こえてくるような室内の音がまったく聞こえなくなってしまった。
このような完全な無音の状態は初めての経験であった。以前テレビで無音の状態を体験するような実験室をテレビで見たことがあるが、密室のような部屋である。窓などない。壺が置かれているこの部屋には窓がある。それに今窓は開いた状態である。想像するに無音室と違った無音の状態であると思えた。
今まで経験したことのない静けさである。心が言いようもなく落ち着いた状態である。完璧な沈黙の中から人の声が浮かび上がってきた。テーブレコーダーで録音した自分の声を初めて聞いた時のことを思い出した。これが自分の声かと思った。変な気分であった。だが今聞こえるのはそれとは全く違っていた。普段自分が話しているときのような聞こえ方である。もしこのような感じで有名人の声を聞くことができたら何と素晴らしいだろうか。
これからあの店に行こうと思ったが、これから今まで楽しみにしていたテレビ番組が始まる。今日中に来るようにあの老婆は言っていたが、明日行っても大事だろうと思った。老婆は単に今日中に来て欲しくてそう言ったのだろう。そのうちテレビ番組は始まり、他のことを忘れてしまうくらいテレビ番組に夢中になってしまった。
翌朝、寝坊してしまい。いつもよりも起きるのが遅くなってしまった。起きた時に早速頭に浮かんだのは、あの壺と老婆の言葉であった。朝食も取らずにあの店に向かって行った。
確かに昨日あったはずの店がなかった。空き地になっていた。空き地の両隣に建っているのはラーメン屋と和菓子店であった。両方共開店前の準備中だが、店主に会って話すことができた。『声の骨董店』のことをそれぞれの店主に聞いてみたが、以前からその場所は空き地であったということであった。
最初にラーメン屋の店主と会って話をして、その後に和菓子屋の店主と話したのであるが、和菓子屋の店主と話している時に隠居したその店主の親がたまたまそこにいて話を聞いていたらしかった。
「この和菓子屋は江戸時代から代々続いている店なので、代々言い伝えられてきた話もあるのだが、確か『声の骨董店』が江戸時代にその空き地のところにあったという話じゃった」
「ここはなぜずっと空き地なのですか。駅からもそれほど遠くなくていい場所ですよね」
「それが不思議なことに誰も買おうとしないので、ずっと空き地のままなのじゃ。なんども売れそうになったことがあるのじゃがいつも最後のところで話しがなくなってしまうのじゃ」
その空き地はまわりに何も囲いがなかった。家に帰る前に足を踏み入れてみたい衝動に駆られた。
空き地の中に足を踏み入れた瞬間あの無音状態になった。空き地から外に踏み出せば此の状態はなくなると思い直ぐに踏み出した。歩道を歩いているが、道路を走っている車が何台も見えるが、車の音が全くしない。歩道ですれ違う話しながら歩いているグループに何度か出会ったが、彼らの話し声が全く聞こえなかった。どうやら無音の世界で暮らすようになってしまったらしい。
声の骨董店 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi
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