骨が軋む、鈴が鳴る
あんちゅー
役に立たない夢に焦がれて。
縁側には陽気の割に少し強めの風が吹く。
顔に触れる灰髪と、それを揺らす風に、眠気がちな目を細める。
老人は座ったまま夢を見ていたようだった。
この頃、時折にだがそういう事がある。
見るのは決まって若い頃の夢だ。
自分の記憶には無い、若い頃の夢。
所詮、夢の話だ。
縁側に座る老人は、清々しい空を見る。
今日は少し遠い所まで行くことにしよう。
足取りは誰が見ても軽快に。
鼻歌まで混じる始末だ。
老人は歩くことが好きであった。
いつからかは分からない。
きっかけはあの夢とは大きく違う、紛うことなき自身の記憶だ。
働き盛りの時分、突然に別れを切り出してきた恋人。
彼女の腰に手を回す同僚のにやけ顔に、彼は自分の手が震えていることに気が付いた。
昼食に彼女が用意してくれていた握り飯は、頬張る気になれず水すらも喉を通らなかった。
職場の隅の方でいじらしく見つめ合う彼らを見て、仕事もほっぽり出して昼1番に会社を出た。
殺してやりたい。
そう思った。
その日は生憎の曇り空。
天気予報では雨が降ると言う。
別にうたれてもいいと、傘も持たずに男は歩いた。
恋人との恥ずかしさばかりの日々の記憶に、同僚との仕事中の諍いや仕事終わりに酌み交わした酒の事。
小さく自分の隣で手を繋いでくれた彼女に、こちらも照れくさく頬を染めた思い出も、上司の奥さんをスケコマシては、自慢のように語る同僚との思い出も。
可愛い彼女だった。
それに比べてどうしようもない同僚だった。
それでも、大丈夫だと信頼していたのだ。
2人がどうにかなるなどと、思えるはずがなかったはずだ。
今では2人を引き合わせた愚かな自身を、1番に殺してしまいたい。
男は悔やむ事しか出来なかった。
足早に歩きながら涙を流して、倒れるまでいつまでも歩いた。
老人は思う。
あの日を境に独り身に、気ままに生きてきてただ思う。
特に惜しいと思うものなく。
最後はどのように死のうとも、悔いは既に残っていない。
それ程までにどうでもよかったのだと、老人は自身の人生をなぞっていた。
悲しい老人という言葉が頭をもたげ、されどそれは強い風にさらわれていく。
はたと、鈴の音が聞こえた気がした。
いつの間にか空は曇り、目の前には鬱蒼とした林道が風に揺れ、先の見えないその先まで伸びていた。
老人は夢の心地でその林道に足を踏み入れた。
1歩2歩、進んではちらりと振り返る。
何かに見られている気がすると思った。
また同じくして、帰ることが出来ないような気もした。
それでもまぁいいか、保身に走る心は既に失われていた。
少しばかり歩いていると道すがらに白い鳥居が見えた。
白と言っても無骨な花崗岩のような色合いで、それはどこか不思議な石造りの鳥居であった。
そして3つ並んでいる。
けれど、その先には何も無い。
社も無ければ、参道も通っていない。
社務所も無ければ、人の気配ひとつしない場所。
そこにはただの広場が1つ、ぽかんと口を開けたように広がっていた。
とんだ無駄足だったかもしれない。
老人は思いがけずそういって、鳥居の前で引き返そうとした。
その時もう一度鈴が鳴る。
もひとつチリンと鈴が鳴る。
特に考えもないままに、鈴の音に誘われて、老人はすっと鳥居を潜る。
勿論その先には広場だけ。
だから老人はひとつ後ろを振り返る。
そこには彼らの姿があった。
職場で殺された部下2人。
悲劇は、実に様々な形にうねり、多くを巻き込み押し流す。
まるで津波のようだと彼は思った。
部下2人が殺されて、犯人は社屋から飛び降りた。
妻は彼の死を憂いながら、後を追って命を絶った。
その数年後、老人の勤めた会社は好景気の泡とともにあっさりと割れ、無くなった。
彼への罰と呼ぶには些かも、彼は至って真面目であった。
何度も何度も考えた。
彼等の心中を止められたのならば、妻は今も生きていただろうか。
近頃よく見る若い頃の夢。
記憶には無いただの夢。
若い女が包丁を突き立てて、それでも力を緩めない男が相手の首をへし折った。折られた男は紫色の、顔でだらんと項垂れる。
変わらない事実と、それは見たことの無い夢の記憶。
ただし案外間違いでもないのだろう。
迷う暇などありはしない。
男は黙ったままで男の首を絞めあげる。
苦しそうにもがきながらもどこか恍惚の笑みを浮かべ、それを見ながら泣き崩れる女が見えた。
老人は夢中で手を伸ばしていた。
自分の部下達を救うため。
いいや、ただ彼女のことを思い浮かべながら。
老人は妻を愛していた。
そして妻も彼のことを誰よりも愛している。
若い妻は歩くことが好きだった。
そしてそれは今も変わらない。
骨が軋む、鈴が鳴る あんちゅー @hisack
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